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森田療法とキリスト教(あるかたの体験)

先日、自分の文章について、このブログでご紹介しました。
2回前のブログ「自分を欺くことと自分を知ること」です。

そのブログをお読みいただいたかたから、とても大きな気づきと転回があったと、メールをいただきました。

そのかたはキリスト教を信仰なさっていて、キリスト教の教義のなかにある「かくあるべし」風のところにひっかかっていらっしゃったようです。

お聞きすると、何か「あるがまま体験」に近いようでした。

お知らせくださったので、私からお願いして、そのかたの了解を得て、ブログへのリンクを貼り付けます。
下のタイトルをクリックしてください。

話相手は枕

キリスト教の信仰をお持ちのかたも多いと思います。
このブログが考え方のヒントになるかもしれませんね。

もうすぐ、クリスマス、お正月・・・ハッピーと感じるかたも多いかもしれませんが、逆に心が沈むというかたも多いようです。

来年は10連休もあるとか。
その時間をどう使うか、どう楽しむか、どう遊ぶか。

そんなふうに考えられるといいんですけれど。



ツインツリー

練習ではなく実際

森田療法の大筋の技法を把握していらっしゃるかたは多いと思います。

けれどこの療法のなかには、大筋だけではなく、さまざまな人間の感情、心理を理解しながら、それを症状回復のために利用し、その人の生活を前向きにしていく技法がたくさんあります。

ひとつの面白い例で言えば、森田正馬の入院療法は当時からすれば、非常に高いお金をとったのだそうです。
それで入院中は作業をするのですから、高いお金をとってこき使われるという悪評もあったようです。

しかしこの高額な料金も、これだけ高いお金を払ったのだからと、皆が真剣に最後まで取り組むようになるということを念頭においてのことだそうです。
確かに、料金が安かったり、ただだったりしたら、私たちの心はそこまで真剣にはなりませんね。

人間の心理をよく理解し、それをうまく利用して治療を軌道にのせる方向にもっていったわけです。

たとえば、よく「練習でなく、実際」と言われます。

具体例として言えば、不安症状のために電車に乗れない。
それを克服するためには、まず電車に乗ってみようと考えるのは普通です。
しかしここで「練習でなく、実際」と言われます。

つまり症状を克服するのを目的にして、乗れるかどうか試してみよう・・・というのが「練習」です。
「実際」というのは、何かの目的があってその電車に乗る時のことです。
どうしても約束がある。入社試験があるから、その電車に乗らなくてはならない。
これが「実際」です。

行為としては同じじゃないか、だから練習でもいいではないか、と思われるかもしれません。
しかし心理としては全く違うのです。

不安発作を起こさずに乗れるか確かめている時は、自分の注意は「症状をはかる」ほうに向きます。
発作を起こさずに乗れたかどうかが大事なポイントになります。
結局のところ、「症状本位」「気分本位」の行動ですね。
自分の心はまだ症状があるかないか、症状が起こるか消えたか、それをテーマにしていることになります。

でも、きちんとした目当てがあって乗る時には、その目的を達成したかどうかがポイントになります。
たとえ症状が起こっても、きちんと用事ができたことが大切。
これが「実際」です。
「ものごと本位」の行動です。

この差はとても微妙に見えます。
でも森田療法の実践という点から見たら、大きな差異があるのです。

森田療法というのは(あるいは森田正馬は)、そういう人間心理の機微をうまく利用するというところに長けています。

別に他の治療法を悪く言いたくはないのですが、行動療法での治療で、ひたすら恐怖突入をしても、いっこうに症状が良くならない人がいるのは、こういう点が違っているのです。

症状を治すことを目的とした行動は、いつでも練習ということになるのです。

大事なのは、本当に人生を生きること。
瞬間瞬間を真剣に事実に添って生きることなのでしょう。


シクラメン


高知再訪

気がついたら、ずいぶんブログの更新を怠っていました。

別に具合が悪かったわけでも、特別忙しかったわけでもありません。
他のことに気をとられていたんでしょう。

それで本日は近況報告。

実は、この11月に今年二回目の高知市訪問をいたしました。
没後80年の事業の一環でしょうか、高知市で専門家のための森田療法セミナーがあり、その講師として行ってきました。

今年は高知に呼ばれているようです。

その時に会場の受付などをしてくださったのが、「森田正馬生家保存を願う会」の池本代表、そしてご親族の森田敬子さんでした。

あまりお話をする時間はなかったのですが、帰り道、送っていただく途中の車中で、森田さんから、森田家の墓地が新しくなった経緯を聞きました。
(墓地のことについては、この夏の没後80年行事のところに書きました)

最初は墓地を新しくする予定などなかったのですが、墓地の隣に三宝山トンネルができることになったのが、始まりだったそうです。

トンネル工事のために墓石にひびが入りました。
それで、調べてみたら、古いお墓のなかが水びたしになっていたそうです。
それでお墓を新しくせざるを得なくなったということです。

その際に森田一家の古い祖先の苔むした墓は整理し、お骨は納骨堂にひとつにまとめたそうです。
この納骨堂は塔のような形で、正馬のお墓の両脇にあったような気がします。

そしてお墓は正馬一家のものだけにしたとか。
つまり正馬の父母、兄弟、正一郎、久亥のものですね。
いろいろと大変だったのですね。

もう一つ個人的なことを尋ねてしまいました。
「20代の頃、森田先生のお墓に来て、お墓の前の樹から実をとってもらって、食べた覚えがあるのですが・・」そう言うと、「それは、ヤマモモの樹でしょう」という答え。
周辺にあった樹木は、地盤土壌の関係で撤去したそうです。

お話を聞いていて思ったのですが、こうやって全国から皆がお参りに来るお墓をきれいにしておくというのは、きっと大変なことだと思います。

多分親族である森田家のかたがたが負担なさるのですよね。
公費で出るはずもありませんし。

きっと森田の生家保存も今まで苦労が多かったと思います。
まだ文化財になっていないようですし、香南市の補助はどのくらいあるのでしょう。

日本は今、観光ブームで、伝統のあるものを売りにしていますが、こういう古い家や街並みなどを保存する努力をあまりしていないように感じられます。
耐震という大問題があるのはわかっていますが。

つまり、保存に寄与する財源が乏しかったり、それを活用する努力が少なかったり・・。

保存に熱心なのは、本当に一部の有名な人の残したものだけ。
高知でいえば、龍馬一辺倒。

そうそう、思い出してしまいましたが、以前、森田療法保存会で事務をしていたときに、お役所に、「森田正馬の診療所跡に碑を建ててほしいのですが、どのように申請・依頼をするのでしょうか?」と聞いたことがあります。

ところが、その段階でもう、「碑を建てたりするのは、歴史上有名な人に限らせていただいております」という返事がきてしまいました。

知らないのね。

それにしても、樋口一葉や、石川啄木の碑などは、そこらあたりにあるのですが、なぜ文学者だけ?という気もするのです。
文学者のほうが大切?

話があちこち行ってしまいました。
とにかく、古いものを新しい社会に活用するという努力はしていきたいですね。

高知では、次の日にまったりと、龍馬記念館から海を眺めておりました。


高知の海

自分を欺くことと自分を知ること

私は、自分がかつて書いた記事などを忘れてしまうことが多く、手元に持っていないことがあります。

先般、高知の墓前祭で出会ったかたが、私の15年前(!)に「生活の発見」に書いた記事を読んでいると言ってくださいました。
どうもその記事をとっておいた記憶がないので、ご無理を言って送っていただきました。

なんと彼女は、自分のものが赤線だらけなので、書き込みのないものを持っている知り合いを探し、それをコピーして送ってくれたのです。
本当にありがたいことです。

で、自分で読み返してみて、「あら、今読んでも全然通用するわ」と思った次第。
今よりも書き方が少しストレート。
オブラートに包んでいません。

以下、自分の気に入っているところを少しだけ抜粋し、下記します。

「とにかく私たちは『他人の視線』あるいは『自分を裁く自分の視線』という鏡を前に、自分のなりたい人間を演じてしまうことが多いのです。けれど、鏡に映らない自分のほうが人の目に触れる機会は多いのです。私たちは、鏡に映した部分がきれいであれば、映らない部分もきれいだと思いたいのでしょう。無防備な部分は自分にはないと思いたいし、周囲だって自分の把握できるものであってほしいのです。

 ところが、そんな思惑はたいていの場合、無駄です。なぜかといえば、他人から見たら、『私』はいつも『私の全体』だからなのです。他の人は一生懸命化粧したところだけ見てくれているわけではありません。どんなに飾っても、装っても、偽っても、『私』は『私の見られたい私』ではなく、私の気づかない部分も含めた『私の全体』として見られているのです。

 つまり、私たちが『あるがままであろう』などと努力しなくても、他人にとっては、私は『あるがまま』の私なのです。
 そして、なによりも一番大切にしなければならない認識は、その『私の全体』のほうが、磨き上げ、飾り上げた『私の部分』より、ずっと魅力的だということなのです。」
「自欺(自分を欺くこと)と自覚(自分を知ること)」より

この文章の副題は「自分の自然にまかせよう」です。

確かに「人に良く思われよう」とあえて努力することをしなくなると、生きていることが本当に楽になります。

「あえて」と書いたのは、周囲の状況に応じて、私たちはそれなりにふるまうので、人によく思われようとすることだってあります。
そういう自分は許してあげる。

こういう文章を読むと、逆に、わざと「人によく思われようとしない」ようにしようとする人もいるからです。

うろたえるのも自然、驚くのも自然、恥ずかしいのも自然。
そんな自然な自分は、ちっとも恥ずかしいものではないのです。

*ご来室のかたで希望者にはこのコピーをお渡ししています。ご希望のかたはお申し出ください。

紅葉

「毒親の正体」

クライエントさんから、その親御さんのお話を伺っていると、時々、「このお母さん(お父さん)は、なぜ子どもに対してこんなに妙なことをするんだろう」と思うことがあります。

当然ながら、子どもであるクライエントさんは混乱し、「もしかしたら自分が悪いのではないか」と思ったりします。
そういうかたたちは、なぜか親のことが心配で家を出られなかったり、親のことが頭にこびりついて次の人間関係に向き合えなかったりします。

親から離れられた人は、それはそれでいいのですが、頭のなかに親とのことが解決もせず残っていたりするものです。

そんなふうに子どもを混乱させる親は「毒親」であると定義することが一般に広がり、認められてきたことで、子どもは「自分が悪いわけではなかった」と安心できるようになってきた、というのが昨今の流れです。

でも「では、なぜ親は自分に対してそのような扱いをしたのだろう?」という疑問は残ったまま、距離はとれるようになっても釈然としないまま、という人も多いのが事実です。

そんな人に答えを提供してくれそうなのが、この本です。

『毒親の正体』水島広子著 (新潮新書)
精神科医の立場から、「毒親」の「精神医学的事情」を説明しています。

この本で特筆すべきは「毒親」が「毒親」になる事情を次の四つのパターンに整理し、そこからその詳細や対処について述べていることです。
(親が)
1 発達障害タイプ(ASDとADHD)
2 不安定な愛着スタイル(不安型と回避型)
3 うつ病などの臨床的疾患(トラウマ関連障害、アルコール依存症)
4 DVなどの環境問題(深刻な嫁姑問題、育児に対する心の準備不足なども)

考えてみればたとえ自立し、結婚で親から離れられたとしても、親に対する疑問は、何らかの形で(たとえば自己肯定感のなさ、人間関係に対する不安)子どもに残っていくものです。
つまり物理的に自立しても、精神的な自立は果たせないままということです。

カウンセリングでも実感するのですが、そういう親も人間であり、それぞれの事情があったのだと心の底から理解・納得することは、子の立場の人が親からの「精神的自立」を果たすために必須のことです。
そこで初めて、親と対等な人間になれるのだと思います。

「心の底から」と書いたのは、この作業を「こうでなければならない」と、頭のなかだけで進めようとしてしまいがちな人もいるからです。
「心の底からの納得」と「知識での納得」とは違います。
そういう方向性がわかっていれば、その時は自ずからやってくるものです。

この本では、順を追って、その理解のプロセスが書かれています。

ご自身の親を「毒親」と思っている人、ご自身が子どもから「毒親」認定されてしまった人、一度手にとってみられると参考になると思います。


 
親子関係で悩んでいるかた、ご相談ください お茶の水セラピールーム
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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