あれも、これも

電車のなかで、お母さんに「ねぇ、ねぇ、あれなぁに?」と聞いている小さな男の子。
隣に座るお母さんは、「あれはね・・・」と優しく説明しています。

こういう光景を見ると、「いい子育てをしているな」と思います。

でもときどき、子どもがそんなふうに問いかけると「いいから! 今はそんなことどうでもいいでしょ!」と怒って黙らせる親もいます。

小さな頃、たいていの子どもは、好奇心に溢れています。
大人にとってはあたりまえのことでも、当然のことながら、子どもには初めてのことばかり。
そんなとき、そういう好奇心の芽を伸ばしてあげられるといいのにと、思います。

何かを尋ねたり不思議に思ったりしたとき、そういう問いかけをするとただ怒られるだけだと、その好奇心は行き場がなく、しぼんでしまうでしょう。

学校教育が、そのような好奇心を伸ばす場になっているならいいですが、それができる先生に恵まれるのは本当に一部の子で、たいていは押しつけの知識をつめこまれて、わかったような気になるだけかもしれません。

ましてや、学校教育が過密で、自分の愉しみに費やす時間もないとしたら、本来持っている好奇心を眠らせたまま、大人になって毎日「つまらない」とかこちながら過ごすことになるのかもしれません。

「あれもしたい、これもしたい」「あれも知りたい、これも知りたい」と毎日を過ごせれば、それこそが無上の喜び。
人生の喜びと言っていいかもしれません。

大きな目標を達成したり、「趣味」と称して何かをつきつめたりする必要もない。
ほんのちょっとした楽しみを毎日のなかに見つけるだけで、幸せな気分になれるものです。

私は本が好きなので、買い物の途中で書店に寄ります。
すると「今、こんな本が流行っているのね」とか、山積みになった本を見て、「こういうタイトルをつけると売れるんだわね」などと考え、結局何冊か買って帰ることになります。
これはAmazonでは味わえない楽しさ。

電車のなかでも本の広告には目が行きます。「○万部突破!」などと書いてあると、本当にこんなに売れるのだろうか、どのくらいサバを読んでいるのだろうか、などと考えたり、○万部売れたら印税はどのくらいだろうかと計算したり・・・(笑)。

実際、外に出て退屈することはありません。

家の周りを歩いていると、「あの店は繁盛している、いつも満員だ」とか「あそこはまたつぶれた。立地が悪いんだろうか」とか考えながら見ているのも面白い。

オフィスの近くだと、病院から出てくる人の表情を見ながらいろいろ考える。
先日など、病院帰りらしき老婦人が実に満面の笑みをたたえて歩いていたので、「多分この人は癌検診か何かの結果を聞きにいって、異常なしと言われたんだろうな」と推測したりしていました。
本当に皆いろいろな表情をして歩いているんですよ。

また他にも、方向音痴の私はときどきGoogleマップを見ながら、「へぇ、この場所とこの駅とは近かったのね」などという、他の人にとってはあたりまえのことを発見したりして楽しむこともあります。
別にそれで方向音痴が直るわけでもなく、実用の役に立つわけでもないのですけれど。

あまり功利的に考えず、ただ面白いから、ただ楽しいからでいいのだと思います。

そんなふうに好奇心旺盛に「あれも、これも」と興味を追っていると、いろいろなことが面白くなってくる。
そうなると、自分の悩みの解決を考えたり、じっと自分のことばかり思いあぐねることは、そのうちどうでもいいことになってしまうのだと思います。


蔦に桜

蔦と桜 (四谷見附)

自分のなかの自然


前回のブログでは、自然環境の悪化について書いたのですが、本当は森田療法のなかにあるエコの考え方について書こうかなと思っていたのです。
どうも花粉症がひどくなって、不満を言うだけのブログになってしまいました。

その後、どうにも我慢できずに耳鼻科に行き、薬をもらって(私はあまり薬というものを飲まないのですが)飲んだら早速症状が消え、これもなんとなくこわかった。
こんなに効いていいものだろうか、という感じです。

花粉症については、実は今年の花粉症シーズンの始まりに殆ど症状が出ず、これは一年以上飲んでいた腸のサプリ(ビール酵母など)のせいかもしれないと、喜んでいたのです。
別に花粉症のために飲んでいたわけではないのですが。
ところが風邪をきっかけに治ったと喜んでいた花粉症が再発。
花粉症はそんなに甘くない。

腸内環境を良くして身体を健康にしようという方向は、自分の自然治癒力を活性化させて全体をととのえ、大きな病気を防ごうという方向性ですね。
ひきつづき来年に期待して、ビール酵母や乳酸菌をとり続けてみたいとは思っています。

さて森田療法は心の自然治癒力を活性化させる治療法と言われています。
森田正馬は、これを「自然良能」と呼んでいます。

森田は人間を「自然の一部」であると見ました。
あたりまえのことのようですが、西洋的にはこれは違う見方になるようです。
西洋では、一神教の神があり、神が自分に似せて人間を作ったので、人間は他の自然界から優越する立場にあると考えるようです。

それはさておき、森田療法が人間を自然の一部と見たというのはどういうことでしょうか。
つまり私たちは、自然によって生かされているというだけではなく、私たちのなかにも「自然」があるのだという考え方です。
そしてその自然は私たちを生かしている力でもある。

私たちの心もまた「自然」の一部なのです。
そして意識も感情も外界の環境に反応しながら、流転している。
それが自然なありかたです。

普通は皆そうやって心の自然な動きと共存しているのに、神経症の人は、どこかでひっかかってしまって、自分からその流れをせきとめて、ひとつのところで堂々巡りをしている。
神経症のかたがよく「閉じ込められている感じがする」というのは、そういう感覚を言っているのでしょうね。
ここから脱出するのは、ただ自分の「人工的な努力」をやめさえすれいい。
そうすれば、自然良能によってまた心は回復していくのです。

なぜなら私たちの心も身体も、必ず自分を生かす方向に動いているものなのですから。

「私たちの精神活動の進行は、自然にまた本能的に、自己保存に適応するような方向に流転しているものである」(本態と療法)

ではどこが人工的な努力だったのでしょうね?

答えは簡単。
生きていくうちには、私たちはいろいろなことを感じるのが自然。
そのなかには「嫌な感じ」もあり「不愉快な感じ」もある。
その自然な感じを恐怖して、なんとかして感じないようにしよう、自分にとって快い感じだけ感じたいとしたのが症状の発端ですね。

「嫌な感じ」も「不愉快な感じ」も理由があって出てくるもの。つまり自然なもの。
ただそこから逃げず、自分のなかの自然と自分の環境に臨機応変に適応していけば、そこに森田の言う「自然良能」が出現してくるわけです。

考えてみれば、自分のなかに自然があるというのは、素晴らしいことですね。
私たちは安心してそこに身をまかせていればいい。

「いや、身をまかせるなんて、そんな不安なことは無理!」と感じる方、自分の思考能力と自然とを比較してみましょう。
どっちが安心できるかわかりますよね。


夜桜

都会の夜桜 小石川播磨坂

桜と花粉症

次のブログを書く頃には桜は満開だろうと思っていましたが、今年は遅いようですね。
東京では、近所の桜もまだ3分咲きくらいでしょうか。

しかし、毎年この季節になると桜が咲くというのは、ある意味素敵なことです。
こういう季節の自然な変化、草や木や天候の移り変わりがまだまだ保たれているということですから。

そのうち草花や虫たちも、見当違いの季節に咲いたり鳴いたりし始めるかもしれません。
季節の移り変わり自体が変化して行く可能性だってありますね。

まぁ、とにかく人間は傍若無人に地球を踏みにじっていますから。

自然は、こうやってきちんと四季が移り変わる。
地球規模で見たらあまりに広大で、人間のやることなど、ほんの少しの傷ですむだろうという甘い考えで、今まで人間はいろいろなことをやってきたんでしょう。

確かに自然の能力、人間が自然につける傷に対しての回復力はすごいものがありますね。
言い方は違うけれど、まさに自然治癒力。
けれど、きっとそれも限界というものがあると思う。

その自然の耐性(と表現していいのか)の限界も、そろそろ近いのかもしれないと感じるときもあります。

異常気象もそうだけれど、大気自体も、昔とまったく違っています。
PM2.5や排気ガス、黄砂、それに花粉!

早春の土の匂いとか、もうどこにもなくて、ただ花や植物だけが季節を教えてくれるようです。

でもいつの頃からか、花見の季節ということ、必ず「花粉症」の苦しさがくっついてくるようになってしまいました。

これもひとつの公害ですけれど、誰も責任をとってくれていないような気がする。
ただ製薬会社とマスク製造業の人が儲かる仕組みができただけ。
これだけ広範な健康被害が出ていても、誰も怒らないのは、誰に対して怒ったらいいのかわからないからですね。

どうして自然に手を加えるのを躊躇しないのでしょうね、人間は。
生態系に以前はなかったものを加えたりして・・。
すべて浅知恵なんですよね。

自然の仕組みのほうが遥かに遥かに、うまくできているし、人間が論理だけで考えても遠く及ばないものです。

人間の知性が自然のことをすべて考えつくせるとしたら、地球を再生することだってできるはずです。
実は、異常気象だって、今のところはどうにもできない。

多分、人間が自分たちの知性に盤石の信頼を置いてしまったときから、今の自然破壊が始まったのでしょう。

今回のブログはただの不満ブログになりかかっております。
自分の花粉症があまりにきついので、怒っているだけかも。

そう、とにかく私たちは「自然の大きさ」にもう少し信頼感を置き、敬意を払ってもよかったのでしょうね。

共生しつつの開発なんて、虫のいいことかもしれませんが。

とにかく桜がいつも同じ季節に咲く自然環境がずっと保たれますように。
東京オリンピックなどというお祭り騒ぎで、自然破壊がより進むことがありませんように。



さくら

欲望探し

森田療法では、よく不安の裏側にある「欲望」を見ましょうと言います。

ところが、これが結構むずかしい。
「私の欲望はなんだろう?」とずっと探し続ける人がいますし、まったく手の届きそうにない欲望の対象を追い続ける人がいます。

よく対人恐怖の人が、「人のなかに入りたい。皆の人気者になりたい」と言うことがあります。
確かにそういう欲望があるから、対人恐怖になったわけです。

でも、その努力だけをすることは、「症状」を相手にするのとまったく同じことになりそうです。
今まで人と話せなかった人が突然人気者になれるわけがありません。
これが、厳しいけれど事実。

頭のなかでの「欲望探し」は、意外にまた「思想の矛盾」をはらんでしまったりする。
それがむずかしいところです。

たとえば、頭のなかではミュージカル女優になりたいと思っている。
しかし自分がそれに向かって何の努力もしていないとか、年齢のことを考えると実はもう無理。

これはとてもわかりやすい例です。
つまり欲望も「理想化」されてしまって、手が届かないものに憧れて、自分の現状を直視できないということになりがちです。

「本当は司法試験を目指したかった」「歌手になりたかった」「医師になりたかった」「起業家になりたかった」
それが、年齢的、金銭的、能力的に可能であれば、それでもいい。
「偉くなりたい」「尊敬される人になりたい」「金持ちになりたい」というのは、大抵の人が持つ欲望です。それはそれでいい。
でも、そこには現実検討能力というものが必要になってきます。

確かに森田正馬の言うように「欲望はこれをあきらめることはできない」。
しかし、森田はどのように、その人の欲望を発揮させたのでしょう?

「神経質の本態と療法」のなかに、「もし人が何事に対しても、はじめから少しも手を下さず、これを実行することがなければ、それは食わず嫌いと同様に、この成功欲、完全欲という感情は起こらない。すなわち仕事に対する興味を呼び起こすということはない。興味はただなすことによってのみ、はじめて起こるものである」

そうやって森田は、仕事の貴賤に関係なく、神経質者にいろいろなことに手を出させました。
つまりそれは、家事や掃除、日常の目の前にある仕事です。
そして自分でやってみせた。

彼は「自分のような医者になりなさい。人から尊敬される大学教授になりなさい」というような示唆は、いっさいしなかった。
だから神経質者を家庭に入れて、入院療法をしたのです。

ただの人間であるナマの自分を見せるためです。
これはもちろん、神経質者の観念的理想像に疑問を投げかけるという効果があったでしょう。

欲望というのは、目の前の事実から発展していくものなのです。

森田正馬の家庭的入院療法では、退院した人たちは、たいてい以前の仕事に戻っていったようです。
入院生として後に本の題材になった人たち、たとえば会計士の山野井房一郎氏や額縁商、草土舎の河原宗次郎氏なども、もとの仕事に戻り、そして発展していきました。

山野井氏は、会計学の本をコツコツと書き続け、それを出版して、結果たくさんの本をのこされました。
河原氏は、家業に励み大きくしました。
草土舎は今でも子孫のかたが経営をされて、神田でも有名な額縁・美術商となっています。

もちろん転職が容易でなかったという時代的背景もあると思います。
転職をしてはいけないとか、急に進路を変更してはいけない・・となると、これも「かくあるべし」です。

ただ、私たちは自分の今いる場所から出発するしかない。

目の前のことに精魂を尽くし、できそうなことには手を出してみる。
すると自分の具体的な行動の結果から、うれしい満足や自信が生まれる。
新しい体験のなかから、楽しみが見つかる。
そして発展していくのです。

手の届かない遠い星をめざすのは、そのあとでいいし、もしかしたらその遠い星(理想)は、現実の喜びという魅力の前では色あせるのかもしれません。


菜の花


対人恐怖でお悩みのかた、一度ご相談ください。お茶の水セラピールーム

幸せなひとりぼっち

このところ「無縁社会」とか、社会的な人との関わりについて、考えることが多くなってきました。家族を持たず単身化する人たちが日本ではどんどん増え続けているそうです。

家族を持たない人が増え続けると同時に、日本では家族を持たないことがイコール社会との関わりを持たないことになってしまう傾向があるようです。
その原因としては、日本はOECD加盟国(つまり工業化された国)のなかで、「家族以外と交流を持たない人が多い」「社会活動への参加数が非常に少ない」「無償の社会活動、ボランティア活動への参加が非常に少ない」のだそうです。(宮本みち子放送大学教授の記事より)

それで家族がおらず、仕事がなかったりすると、もう「無縁の単身者」になってしまう。

そんなことを考えているとき、友人から「気分転換にこんな本も面白いよ」と教えてもらったのが、たかのてるこさんの旅行記。(「ガンジス川でバタフライ」等)
このかたの本は軽く読めるのですが、そこでびっくりしたのが、彼女の人とのふれあい方。
世界各国で、文字通り相手の懐に入ってしまう。そして相手も、快く彼女を自分たちの家庭に迎え入れる。

これはなんだろう?
彼女の人柄なのか、あるいは相手の懐の広さなのか。
都市化されていない世界の片隅では、貧しいけれど、まだ人がこんなにも愛情に溢れていて温かいのだろうか。
現代日本とのギャップを、また考えてしまいました。

そしてたまたま、あるかたから二本の映画のことを教えてもらいました。
スェーデン映画「幸せなひとりぼっち」と、英国映画「ミス・シェパードをお手本に」です。二つとも単身高齢者がテーマ。

「ミス・シェパード」のほうは、見に行くことはできませんでしたが、「幸せなひとりぼっち」を見てきました。

とある団地(同じ家が立ち並ぶ区域)に住むオーヴェというおじいさんは(と言ってもまだ59歳)ある日突然43年勤めた会社をクビになります。
二年前に妻を亡くしているオーヴェは、妻のあとを追おうとしますが、隣に越してきたパルヴァネというイラン人の女性の家族がなにかとうるさくて、おちおち自殺もできない。
オーヴェは、秩序好きで、団地の管理が気になる口うるさい老人。
それまでは近所からも煙たがられていたのですが、パルヴァネはそんな彼をおかまいなく、家族の世話に巻き込んでしまう。
怒りながらつきあっていたオーヴェも、だんだんと近所の人たちに心を開いてゆく・・というストーリーです。

ストーリーだけ読むと、定石通りだし、何が面白いの? と言われそうですが、これがオーヴェの過去や奥さんとの恋愛の話なども織り交ぜ、結構引き込まれるのです。

この映画の宣伝文句を見ると「スェーデンで5人に1人が見た」とか「米国で公開された外国映画で動員一位」とうたってあります。

これだけの人たちが、この映画に魅力を感じるということは、私が今「日本の問題」として考えている「人ととの関わりの薄さ」というものは、もしかしたら先進国(と言われる国々)のなかで、皆が薄々感じていることなのかもしれない。
そんなふうにも思いました。

この映画にはひとつキーポイントがあります。
それはパルヴァネがイランからの難民であること。(ムスリムではないようです)

彼女が持ち込んできた人と人との距離感は、きっと団地にいた人たちのものとは違うはずです。
人との距離がすごく近いし、無遠慮でおせっかい。
これは私の乏しい経験から推測するイスラム圏の人たちの特徴です。

そういう人でなければ、気難しいオーヴェとは関われない。
これは、異文化とのふれあいが隠れたテーマでもある映画なのですね。

たかのてるこさんの本がこれだけのベストセラーになったり、このような映画が人気になったり・・・行きつくところまで行ってしまった先進国は、自分たちがとうに失ってしまった温かさや家族の愛情を、異文化のなかに求めているのかもしれません。

本当に、私たちは何を失ってしまったのでしょうね。





プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
    ↑ 悩んでいる人のための森田療法解説書                           
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR