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助けを求める

以前、大学院の同期のかたが、CAPという活動をしていました。
CAPというのはChild Assault Preventionの略で、子供への暴力防止プログラムです。アメリカ発祥のものだと思いますが、日本でも「NPO CAPセンターJapan」というところが活動を展開しています。

このプログラムは、大人への研修だけでなく、就学前の子供や、小学生などを対象にしたプログラムがあります。
子供へのプログラムは、学校や幼稚園に出向いて行うのですが、そのなかには「イヤという練習」「声を出す練習」「先生に話す練習」などの内容のものがあります。

大人が子供になにか猥褻なこと、危険なことをしようとしたとき、子供がうまく逃げられるよう、周囲に危険を知らせることができるような練習をするのです。

これはとても貴重な活動だと思います。

小さい頃、あるいは大人になってからも、性的に危険な目にあったり、暴力的なことにさらされたりした経験のある人は、多いと思います。

そんなとき、あまりに意外なことだったり、相手が親しい人だったりすると、「どうしていいかわからない」状態になってしまうことが殆どです。
加害者にとって有利な状況です。

そういう練習をしたりレクチャーを聞いていれば、これは自分が悪いわけではなく、相手が理不尽なことをしているのだと感じることができますし、対処の方法もわかります。

まずは「どうやって逃げるか、避けるか」を考えられることは、大事です。

助けを求めることは正しいことなのだと、理解することも大事。

これは外での暴力だけでなく、家庭内のことでも同じです。
(あまりに小さいと無理ですが)これは理不尽だ、虐待だと思うなら、警察でも児相でも、訴えていいのです。

と書いて、ここまでは「当然」のことなのですが、どうも日本では、そうやって助けを求めても、それをきちんと受け取ってくれる人や場が少ないようです。
アメリカなどに比べて法整備が進んでいないと言われています。

結局誰にも言えなかったと、泣き寝入りで終わることが多い。
その原因としては、どこかに「もしかしたら自分が悪いのでは」という妙な罪の意識があることもひとつでしょう。

そして勇気を出して、誰かに訴えたりしても、相手がまずうろたえてしまう。
聞かなかったことにしたい、なかったことにしたい気持ちが出てくるのかもしれません。
そして不用意に「よくあることだから」「スキがあったんじゃないの?」「そんなところに行くからいけない」などと、被害者を責めてしまう。
これを二次被害と言います。
自分が被害者なのに、また責められる。
そして「やはり自分が悪いのだ」と背負い込んでしまうことになります。

昨今、テレビや報道で大きく取り上げられている問題は、一様に子供の頃の性被害です。幼い頃に性的な虐待を受けることは、トラウマとして残るだけではなく、その人の人生に大きな影響を残す場合があることが知られています。
そしてまた、問題が問題だけに、誰にも語れないことが、傷を深くします。

これをきっかけに、子供への暴力をきちんと犯罪として見る認識が広まればいい。
そしてまた、加害者も病気(依存症)である場合が多いのです。
そういう人たちが、適切な医療機関につながれる社会であればと思います。

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安心とって人生無駄にする

「安心とって人生無駄にする」というのは、こちらに来ていらっしゃったある神経質のかたが言った言葉。
なるほど、と思いました。

確かに、時々そういうかたをお見受けします。
とにかく不安で不安でしかたがない。
だから、新しいことにチャレンジするのを最小限にする。
いや、最小限どころか、新しい経験は避けられるだけ避ける。

自分が安全と思うことしかしない。
お金を使うのがこわいので(これは強迫神経症のかたに時々みられる「症状」ですね)お金が要るようなことは、しない。
金銭が「安い、高い」ばかり気になるので、お金があっても欲しいものは「ぜいたく」に思える。
お金がかかると思うと、ブレーキがかかる。
だから、良い体験や、新しい体験に向かえない。

体験が少ないと、ますますいろいろなことがこわくなります。
これも悪循環ですね。

昔はこわくて携帯も持てないというかたもいらっしゃいました。
迷惑メールや詐欺の話を聞いてこわくなったそうです。

神経質タイプのかたは、詐欺などにひっかからないと思うのですが・・、あるいは経験が少ないと詐欺と本物の見分けができにくくなるかもしれません。

人生で大切なのは、「経験」だと思います。
失敗に終わっても経験は経験です。
成功体験しかない人なんて、この世にはいません。
失敗も成功の糧にしている人はいますが。

とにかく私がよく聞くのは、こんな嘆きです。
「若い頃は、不安にかまけていて、婚期を逃してしまった。この年だと相手も限られてしまう」
「結婚相談を利用したほうがよかったけれど、お金がもったいないと思って、普段の生活での出会いを待っていたけれど、むずかしかった」
「若い頃神経症だったし、家族がいたので、何にもチャレンジしなかった。この年になって家族もいなくなり、もう仕事にもつけないし、友人もできない」
「仕事だけはしていたけれど、家と会社の往復で手いっぱいだった」
「本当はやりたいことがあったのだけれど、ためらっているうちに年をとってしまい、もう無理になった」

耳タコでしょうが、人生は一度しかありません。
その年齢でしかできないこともあります。
失敗覚悟で取り組んでみることも、時には必要。

経験や失敗を積み重ねていけば、不安やこわいことは減っていきます。
そして楽しいこともたくさん経験できます。

「安心とって人生無駄にする」ことがないように。
「症状」や「不安」がなくなってから何かにチャレンジしようという「順番思考」はやめましょうね。
これも十分ご存じでしょうが、新しい体験にチャレンジし続けることによって「症状」や「不安」はどうでもよくなるのです。

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日々のこと

今日は日常のささいなことを・・・。

時々近くのクリーニング店に衣服を出しにいきます。
このお店は、店の方針なのでしょう、非常にチェックが厳しいのです。

「毛玉がありますね。これは、クリーニングではとれませんから」
「ここにシミがあります。これは落ちるかどうかわかりません。シミ抜きをしますか?」
「あ、穴がありますね。ここから広がるかもしれません。お出しになりますか?」
(こんな小さい穴、どうやって見つけた?!)

とにかく私が持ってきた衣服をひっくり返して隅々まで眺め、チェックポイントを見つけ出すのです。
それにこの店員の女性は、なんだかいつも憂鬱な顔をしているのです。
何か見つけるたびにため息をつかんばかり。

もちろん、これはお店の方針で、あとで責任をとらないことを確認しているだけと、頭ではわかっています。
しかし、それを聞いているこちらは、とてもイヤな気持ちになります。
罪悪感さえ覚えてしまいます。

ただでさえ私は、ファッションとかおしゃれとかについては、関心も自信もありません。
これについては、若い頃からいろいろな人に注意されてきました。
「もう少しおしゃれしたら?」「着るものに気をつかったら?」
あまりにも注意されるので、きっと私はあまり良いファッションをしていないのだと確信するようになりました。
「おしゃれとは何か?」という哲学的命題(笑)に悩んだりもしましたが、しょせん関心がないのです。
すぐに忘れてしまいます。
どこかで自分を透明人間みたいに思っているフシがあります。
誰も私のことなんか見ていないに違いないと思っている。

しかし、クリーニング屋でこう何回も注意されると、さすがに衣服に注意が向きます。
以前は毛玉なんて、あまり注意を払わなかったのに、最近、性能の良い電動毛玉取りを買いました。
クリーニングに出す前に、それで一生懸命毛玉を取ります(^^;
それでも、目を皿のようにして衣服をひっくり返され、「毛玉がありますね・・」宣言をされます。
もう、ウール素材を買わないようにしようかとさえ思います。

さて、こういうふうに、会うたびに欠点ばかり言われると、やはりそこに足が向かなくなります。
次の衣服を出すのも、ひきとるのも遅くなり、かといって他のクリーニング屋に行くのは少し遠い。

こういうことって、思い当りますよね?
欠点ばかり指摘されると、それをやりたくなくなる。
なるべく避けるようになる。
自信もなくなる。
学校教育や家庭教育でやられてきたことでしょうか。
あるいは、自分で自分に対して毎日やっていることでしょうか。

でも、もうひとつクリーニング屋について面白い話があります。
ある対人恐怖のかたが、いきつけのクリーニング屋に寄ったとき、店員さんに「良いお洋服ばかりですね」と言われたそうです。
「もう二度とあそこには行かない」と言っていました。
これは対人恐怖者の「見知られる恐怖」です。
わかる人にはわかるでしょう。

接客もなかなかむずかしいものですね。

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ACの対人関係

さて、本日はACのお話。
私の相談室には、ACのかた、つまり養育環境の問題で苦しんでいるかたも通っていらっしゃいます。

もう世間では周知のこととなりましたが、AC(アダルト・チャイルド)とは、子供時代をきちんと「子供」として過ごせなかった人、早くから大人の役割をになってしまった人のことです。

ACは、養育環境の問題ですから、いろいろな性格の人がいます。
つまり性格の問題ではありませんが、人との関係性に独特の困難を抱える人が少なくありません。

もちろんACにもいろいろなタイプのかたがいますので、一概には言えません。
比較的多い例ということで、書いてみます。
私は違うというかたもいると思いますが、ご了承ください。

ACのかたは、人と打ち解けたり、関係を築くのにはさほど困難を抱えないかたが多いようです。
小さい頃から、周囲の事情や、相手の感情、行動に翻弄されてきたので、「場の空気」を読むことにかけては敏感です。
しかし「読む」といっても、それが正確かどうかは疑問です。
小さい頃から「怒る」人に悩まされていた人は、人の怒りを察知します。
自分が寂しい思いをしてきた人は、寂しい人を見分けます。
そして自分の立ち位置をはかるために、グループや職場の相互関係を把握しようと努力しますし、実際、ぼんやりしている人よりはずっと早く、その場の力学を理解するようです。

そうやって周囲の状況を理解すると、今度は独特のコントロール欲求を発揮する人がいます。
昔、父母の不和や争いに巻き込まれ、それをどうにかしようとする子供時代を過ごしてきた人は、起こってくるであろう争いや気まずい雰囲気を察知し、何とかそれを収拾しようという努力を始めます。
そんなことに首を突っ込まなくていい場合も、いてもたってもいられず、おせっかいを始めます。
あるいは、自分の正義感では許容できないことをする人たちを、何とかしようとする。

つまりは周囲の力関係や、起こってくることに無関心ではいられない。
自分は「我関せず」で安全圏にいればいいのに、黙っていられない。

また、そのような周囲の不穏な状況を過敏に感じて、具合が悪くなる人もいます。
本人の感覚では、(小さい頃の自分が感じたように)恐怖や怒りや焦りを過剰に感じて、それに押しつぶされてしまうのです。
よく見ると、本当はまだ何も起こっていない場合が多いのですが。

そんなふうにACは、他人の感情や行動を推測することに長けています。
それをわがことのように感じてしまう場合もあります。
そしてそれに反応します。

困っていそうな人、寂しそうな人がいると、なんとかしてあげたくなる。
けれど、相手が本当に困っているのか、寂しいのかは、実はわからないことなのです。
自分が感じたことのある感情を、相手のなかに投影するのです。
もしかしたら、それは(無意識のなかで)自分を癒したいのかもしれません。

だからACの人は「問題」に惹きつけられます。
それを解決することで、自分の力を感じたいという側面もあるかもしれません。
そして結局は、自分が疲れ、イヤな思いをすることになる。
結婚相手に問題のある人を選んでしまい、相手を何とかしてあげようとして疲弊する人もいます。

思い当る人もいるかもしれません。

そんなACの人にとって一番大切なのは、「自分の」感情を大切にすることです。
「私はイヤ」「疲れる」「傷つく」などという感覚に、自分でも気づかず、過度に我慢を重ねてしまうのが典型的なACです。

「私が」気持ち良いことはなにか。
「私が」やりたいことはなにか。
「私の」欲求はなにか。

人のために我慢せず、「私の」ホンネを問い続けることが必要なのです。

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自分の中の「恐ろしい」ものへの恐怖

今回はいつにも増して抽象的になりますが、わかるかたにはわかってもらえると思います。
なんのこと?と感じる人はスルーしてください。

神経症(不安障害)になる人の「不安」って何だろう、とよく考えます。
もちろん森田療法での説明では、それは「死の不安」であり、対人的なことを気にする人にとっては「社会的死の不安」です。

それにしても神経症的不安というのは、その人の置かれている環境が安定しているときにも出てくる場合があるのです。
社会的不安が大きい時(たとえば災害時、不景気で生活が苦しい時、クビ寸前のときなど)には、むしろ神経症になる人は少なくなるのです。これは森田正馬も言っています。

現実的な不安があまりないのに、なぜ神経症になるのか。
それは「自分のなかに潜んでいるものへの恐怖」のせいではないかと思います。
それが何かは人それぞれでしょうが、「感情」にまつわる恐怖の場合が多いでしょう。

自分のなかに、自分で制御できない恐ろしいものが潜んでいるという感覚があり、それが外に出ないようにしているのが、強迫神経症だったりするのではないか、と私は思います。

なぜそんな感覚が出てくるのかというと、神経症の人のたくさんの「かくあるべし」が関係していると思います。
「自分はこんな人間であってはならない」「人に失礼なことをしてはいけない」「立派な人間でなければならない」「人より優位に立たなくてはいけない」
そういう考え方でいるためには、自分を監視していなくてはならない。
自分の言動をいちいち見て、自制しなくてはならない。

ずっと自分を監視し自制し続けている人には、それを脅かす危機がたくさん訪れます。
周囲は自分の「かくあるべし」通りに動いてくれない。
自身もまた「かくあるべし」通りの人間ではない。

ここで「かくあるべし」を緩める方向でいけば、それはその人が「人間的」になったということです。
ところが、ここで「もっと自制しよう」としてしまう場合がある。
すると自分のなかの「感情」(=制御できないもの)は、窮屈になり、その人にとって出てきてもらっては困る「オソロシイもの」に変化していきます。
ですから、症状というものは、自分のなかで制御できずに湧き上がってくる「何か」をなんとしても閉じ込めておこうという努力の表れになります。

わかりにくいかもしれません。
ちょっと簡単に具体例にしてみましょう。
たとえば赤面恐怖の人が、赤面を隠そうとするのは、「自分の弱さ」を人目にさらしたくないからです。
けれどその人のなかでは、そんな簡単な図式や言葉におさまる生易しいものではない。
赤面を隠す努力をしないと、人に見せてはならないオソロシイものが自分を制圧して崩してしまうような恐怖感があるのではないかと推測するのです。

そしてもうひとつ私が推測するのは、自分で感じている得体の知れないものは、実は「かくあるべし」と「感情を制圧する努力」とが生み出した幻想ではないかということです。

そのオソロシイ幻想を消滅させてくれるもの、それは自分の「かくあるべし」を削いでゆくことなのか、あるいは「恐怖突入」することなのか、経験を積んでゆくことなのか。

いずれにしろ、神経症から回復するということは、自分のなかの「恐ろしいもの」が実は「人間的」なもので、豊かなものだと自覚できるようになることなのでしょう。

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プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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