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なぜ人は不安に惹きつけられるのか

不穏なニュースばかりのこの頃、社会全体が鬱っぽくなっているようです。
しかし休校になってから、今まで人の気配のなかった公園のそこここに、子どもたちの小さな集団が見られるようになってきました。
外遊びなどしていなかった子どもたちにとっては、良い経験かもしれません。

コロナに関しては、自分にできる精一杯の防御をして終息を待つしかありません。

こんなふうに不安な対象が出てくると(コロナに限らず症状などでも)なぜか私たちは、その対象に惹きつけられるようにネット検索をしたり、本を買ったり、それに関する情報を集めるようになります。

そうすると当然のことながら、その不安は拡大していきます。
まだ自分の身に起こってもいないことがリアルに、起こったかのように感じられたりします。
そして不思議なことに、ネット検索をし続けた結果、安心材料を見つけるという事は少ないようです。
たとえあったとしてもそこには目が行かず、悪い結果になったことばかり記憶に残り、どんどん不安は高まっていきます。
精神交互作用ですね。

それにしても、なぜ人は不安材料にばかり惹きつけられるのでしょう。
これは人が持って生まれた防衛本能なのでしょう。
不安は自分の身を守るために存在する。
なくしてはならないものです。

けれどそれが日常生活を侵食するようでは本末転倒

不安に惹きつけられているなと思ったら、まずはスマホやPCを閉じて、仕事や家事に戻ったほうがいいようです。

不安に惹きつけられるのと対照的に、私たちは明るいものごとに目を向けるのは苦手なようです。
以前、グループのアイスブレイクに「良かった探し」というゲームをしたことがあります。
その日、あるいは最近体験した「良かったこと、うれしかったこと」を探して発表しあうというものです。
いつも不安を訴えてばかりのかたでも、たくさんの「良かった」体験をしているものです。

不安には自然に惹きつけられるのですが、良かったことに目をとめるのは、意外にエネルギーが必要です。

さて、このコロナの時代に良かったことを探すのは実にむずかしい。
実際に大変なことばかりだし、ニュースも暗いものばかり。

でも、今日ネットで、ノーベル賞受賞の科学者が、「コロナのパンデミックはそれほど長引かない。国にもよるが、もうすぐ鎮静化する(大体の要約)」と言っている記事を見つけました。
https://www.gizmodo.jp/2020/03/the-end-of-pandemic.html

実際、中国はもうおさまりかけています。
韓国もそろそろ。
(ただし検査数を絞って、軽症者を野放しにしている日本はどうなるかわかりませんが)

やはりニュースも不安を煽ると、皆の目が惹きつけられるから大げさなタイトルをつけるのでしょう。
たまにはこういう希望のある意見をもっと流してほしいですね。

とにかく、皆さま、お気をつけてお過ごしください。
HT桜2T.H氏撮影



先の見えない毎日ですが

引き続きコロナ禍です。

手を洗い、うがいをし、外出したら電車のつり革につかまらず、マスクをし、換気をし、ドアノブなどはアルコール消毒する。これだけやっていて、それでもコロナにかかるのならば、その時は運命とあきらめましょう。

都市圏に住んでいる人間としては、この人の多さは不安要因です。

神経質のかたがたは、さぞや不安だろうと思い、お話をお聞きするのですが、意外にあまり不安に思っていないかたが多いようです。
ただ、自分の健康が不安という症状をお持ちの場合、コロナへの不安は強烈なようです。
他の症状のかたは、そこまで心配していない印象。

コロナが強烈に不安でしかたがないかたは、コロナニュースを見るのを一日一回にするなどしたほうがいいようです。
こんなにニュースがコロナばかりだと、ただただ不安をあおられるだけになってしまいます。

私は、日本人特有の「人に迷惑をかけるのではないか恐怖」があるので、無症状でかかっていて相手にうつしてしまうこわさを感じます。
ですので、現在はマスクをしてカウンセリングをさせていただいております。

さてある意味、明日はどうなるかわからない毎日ですが、そんな時に森田正馬のこんな言葉を思います。
彼は、非常に身体が弱く、何回も死にかけて、絶えず病気と闘う身でした。

「その目的物が、明日失われようが、百年の後に滅びようが、それは問うところではない。ただその現在に執着するのが、人間の本性である。これが事実である。善いも悪いも他にしかたがない。私はいつ死ぬかわからないか弱い体で、しかもたえず読書し、いろいろのことを見聞して、自分の知識欲を充たし、欲張り貯えている。もし一朝にして死んでも、少しも残念はない。ただ生きている現在を欲張っているのである」

そう、私たちは皆(特にこんな病気が流行っている世の中では)明日にはどうなるかわからない身です。

けれど、明日はどうなろうと、私たちには「今、ここ」がある。
病気の恐怖におびえるのはしかたがないけれど、でも「今日」という時間を使って、やりたいこと、できることに力を注いでいく。

森田正馬の生き方は、いつも私たちの目を明るい方向に向けてくれるようです。

sakura

写真 T.H氏

興味の偏り

コロナウィルスのニュースばかりのこの頃、恐怖心が日に日にあおられます。
昨日は私も空咳が出て、喉が痛く、風邪みたいな症状・・・とうとうコロナかと思ったのですが、自分には花粉症があるということを思い出しました。
花粉も飛び始めているのですよね。

外に出てみると、まったくマスクなどつけていない人も多い。
もちろんマスクが手に入らないということもありますが。
予防効果はないという科学的な説を信じて、断固装着しないという人もいるでしょう。
日本でたった140人程度(今のところ)。
自分はうつるはずがないと信じて、気にならない人もいるんでしょうね。

不潔恐怖のかたは、こんなときどうなるのでしょう。
空想上の黴菌が、現実のウィルスになったのです。
闘う相手が明確になったわけですが、行かれないところが広がり、清潔儀式が煩雑になっていくのでしょうか。
今までの自分の手洗いで充分と感じてそのままでいるのでしょうか。

神経症のかたでも、あまり気にならないというかたもいらっしゃると思います。
同じ神経症でも気になる方面は人それぞれでまったく異なります。
自分の頭のなかの観念に夢中で、自分が病気にかかることなど心配もしないかたも実際にいらっしゃいます。

「気になり方」の偏りは、人それぞれで本当に興味深い。

もちろん症状を掛け持ちしているかたもいて、そういうかたは多方面のことが気になります。
けれど、自分の強迫観念が気になるあまり、対人関係のことなどまったく気にならないかたもいらっしゃいます。
たとえば、しつこく人に確認を要求したら、相手は自分のことを変に思うし迷惑だろうということに、その時は思い当たらない。
ひたすら確認して自分が安心することだけを目指してしまうのです。

一方で対人関係が気になるあまり、病気のことなど気にもかけないかたもいらっしゃいます。
あんまり怖く感じられないのでしょうね。

とにかく神経症の時期は、その人の関心の焦点が非常に狭い範囲に偏るということは言えます。
でも人間の常として、自分の関心の範囲が偏っているということには気づかない。

私はよく、カウンセリングの初期に「お仕事を丁寧になさってください」的なことを言います。
するとたいていの神経症のかたは「私はちゃんとやっています」と言われます。

けれど症状的なことが頭を占める割合が少なくなってくると、本当は自分の仕事のしかたが効率的ではなかったとか、全体のことを考えていなかったとか、わかるようになってきます。

すこしずつ客観的な現実が見えるようになってくると、自分の偏りも見えるようになってくる。
そうなってくれば、症状にはもうそれほど煩わされない境地になっているでしょう。

もちろん神経症でなくても、人によって興味関心の偏りはあります。
偏りがあってはいけないということではなく、時々、自分の現実を客観的な目で見直してみることは、誰にとっても必要なことでしょう。


梅

自分だけではない

先日、練馬集談会の500回記念会にお招きいただき、「生き生き森田ワーク」をさせていただきました。なんと50人のかたが集まってくださってびっくり。
九州から名古屋から関西、関東近県から来てくださったかたもいて、本当にありがたいことです。

さてその時にも話しましたが、この「純な心」を体得するワークの目的のひとつは、平等観を得、他者と共感的に交流できるようになることです。

とにかく神経質症のかたが持っている根源的な不安のベースには「自分は何か特別に変な部分がある」という疎外感にも通じるような感覚。
これがとても強烈なのです。

こんな悩みを持っている自分は、全人類(!)のなかでも特殊中の特殊、奇妙な人間で劣等であると信じ込んでいる。

だからこそ、同じ症状の人が集うグループに行くとホッとするのですが、今度はそのグループのなかでも「自分が一番症状がひどい」とか「私と同じ症状の人はいない」などと悩むことになるのです。

森田療法では「症状の発端」は「誰もが感じる感覚を異常と思い、それをなくそうとすることによってそれに執着してしまった」と解説しています。
つまり「誰もが感じる感覚」がもとにあるのです。

「プレゼンのときに声が震える」「狭い空間で息苦しく感じる」「病気になるのがこわい」「人に変に思われている気がする」「人のことが憎いと感じる」
実はそういう感覚は全部、誰もが持っているものです。
ただ多い少ないの差があり、フォーカスしていることが違うだけなのです。
神経症のかたはそれにとらわれてしまっただけです。

グループのなかで、そういう根源的な感覚を言葉に出し合うことで、「なんだ、自分だけではなかった」と思うことは、大きな気づきにつながるのではないかと思うのです。

ただもっと広い視野で考えると、神経症のグループのなかで「自分だけではなかった」と思ってそこに留まるのではなく、世間一般の人も同じように感じているだろうと推測することも大事かもしれないとこの頃思います。

グループのなかで固まっていると、まだまだ「自分はこのグループにはいられるけれど、世間ではのけ者」「世間の人はこわい」と思うこともあるかもしれません。
「やはりこのグループのなかだと安らげるわ」と思うかもしれません。

でも思い出してください。
「誰もが感じる感覚」なのです。

森田正馬が言ったように「目上の人の前では緊張し、好きな人の前では恥ずかしい」のが人間なのです。

世間の人は、それを「当たり前」と思って、そのまま生きているだけ。
神経症の人と同じように嫌なものは嫌なのです。
その感覚をコントロールしようとしなかっただけ。

けれどフォーカスのしかたが異なると、他の人の感情を聞くときに「えっ、そんなことを感じるの?!」と思ってしまうこともあります。
「誰かに猛烈な嫉妬を感じる」と言われた時、「え、私にはそんなことないなぁ」と思う。
しかし、本当は気づいていない、あるいは自分から隠しているだけだったりするのです。

よくよく考えてみると、実は一瞬だけでも感じていたりする。
すぐに次のことにフォーカスするので、それに気づかない。
たとえば「いいなぁ」と感じたら、自分のほうに返ってきて「くやしい。私のほうが劣等だ」とグルグル考えるのではなく、「どんなことをしてそういう結果になった?」⇒「では、私が真似できるところはどこ?」あるいは「いや、それは私には無理だから、何か他のこと(方法)に焦点をあてたほうがいい」等、現実検討へと向かっていけば、素直にその人のことを祝福できたり賞賛できたりするのです。

決して感情を無理やりねじ曲げる必要はない。

「純な心」は、症状を持っている・いないに関わらず、誰でもが持つ感じ。
それは神経症の人に限らないのです。
他の人はそれを目の敵にしていないだけなのです。

ゆしま2

年始早々・・・

しばらくブログを書けず、コメントにも返信できずにいました。
実は年始早々、仕事を休んでしまいました。
久しぶりのことです。

ヒポコンドリー性格のかたは、ご自身のことが心配になることもあると思いますので、このブログはスルーしてください。

私がかかったのは帯状疱疹で、それも目のあたりだったので、病院から入院を勧められましたが、それを断って自宅でじっとしておりました。
仕事もキャンセルさせてもらい、美容院の予約もキャンセル。
視神経に影響があることもあるらしく、皮膚科に通い、眼科に通い、安静と言っても結構忙しい。

おかげさまで今は仕事も再開し、快方に向かっております。

昨年は風邪ひとつひかなかったのにと思いますが、逆に風邪のひとつぐらいひいとけばよかったのかもしれません。

「安静にする」という体験をしてみると、これが意外にむずかしい。
つい、森田正馬の「熱が〇度のときには、自分で本を読み、〇度以上のときには本を人に読んでもらう」などという言葉を思い出してしまいます。
つまり熱のあるときもそのときにできるだけのことをする、ということなのでしょうが、さすがにこれは現実に実践するのはやめたほうがいい。
ただ「そのときの自分の体力のままできるだけのことをする」というメタファーとして読んだほうがいいようです。

実際、体力が落ちている時は、できることが少ない。
一番簡単にできるのは、テレビを見ることですが、テレビはおそろしくつまらない。
読書をしようと思っても、微熱があるときは根が続かない。
推理小説ぐらいならいいかとも思うのですが、残念ながら未読の推理小説の手持ちがない。

それでわかったのは、自分はどんな時にエネルギーをどれだけ使うかということ。(安静時の例ですが)

一番簡単なのはテレビを見る ⇒ DVDや海外テレビドラマを見る ⇒ ストーリー性のある小説を読む ⇒ 散歩する ⇒ 掃除・洗濯をする
エネルギーのいることは、料理をする ⇒ 勉強をする ⇒ 学術的な本を読む ⇒ 仕事をする ⇒ エッセイ的なものを書く ⇒ きちんと発表するようなものを書く

私が一番脳力とエネルギーを使うのは、結局はクリエイティブな作業を伴う事なのですね。きっと他の人にとってもそうでしょう。
エネルギーが少なくなるにつれ、だんだんクリエイティブなことができなくなる。

ま、そんなことを言うとまた「クリエイティブなことをしなくては」強迫観念になってくるのでやめましょう。

けれどやはり、私にとって一番よかったことは、落語を聞いていたこと。
聴くエネルギーはいらないし、なおかつ気持ちが明るくなる。

私の結論は「病気のときは落語に限る」。

神社の屋根

                        写真・T.H様撮影
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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