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ACの対人関係

さて、本日はACのお話。
私の相談室には、ACのかた、つまり養育環境の問題で苦しんでいるかたも通っていらっしゃいます。

もう世間では周知のこととなりましたが、AC(アダルト・チャイルド)とは、子供時代をきちんと「子供」として過ごせなかった人、早くから大人の役割をになってしまった人のことです。

ACは、養育環境の問題ですから、いろいろな性格の人がいます。
つまり性格の問題ではありませんが、人との関係性に独特の困難を抱える人が少なくありません。

もちろんACにもいろいろなタイプのかたがいますので、一概には言えません。
比較的多い例ということで、書いてみます。
私は違うというかたもいると思いますが、ご了承ください。

ACのかたは、人と打ち解けたり、関係を築くのにはさほど困難を抱えないかたが多いようです。
小さい頃から、周囲の事情や、相手の感情、行動に翻弄されてきたので、「場の空気」を読むことにかけては敏感です。
しかし「読む」といっても、それが正確かどうかは疑問です。
小さい頃から「怒る」人に悩まされていた人は、人の怒りを察知します。
自分が寂しい思いをしてきた人は、寂しい人を見分けます。
そして自分の立ち位置をはかるために、グループや職場の相互関係を把握しようと努力しますし、実際、ぼんやりしている人よりはずっと早く、その場の力学を理解するようです。

そうやって周囲の状況を理解すると、今度は独特のコントロール欲求を発揮する人がいます。
昔、父母の不和や争いに巻き込まれ、それをどうにかしようとする子供時代を過ごしてきた人は、起こってくるであろう争いや気まずい雰囲気を察知し、何とかそれを収拾しようという努力を始めます。
そんなことに首を突っ込まなくていい場合も、いてもたってもいられず、おせっかいを始めます。
あるいは、自分の正義感では許容できないことをする人たちを、何とかしようとする。

つまりは周囲の力関係や、起こってくることに無関心ではいられない。
自分は「我関せず」で安全圏にいればいいのに、黙っていられない。

また、そのような周囲の不穏な状況を過敏に感じて、具合が悪くなる人もいます。
本人の感覚では、(小さい頃の自分が感じたように)恐怖や怒りや焦りを過剰に感じて、それに押しつぶされてしまうのです。
よく見ると、本当はまだ何も起こっていない場合が多いのですが。

そんなふうにACは、他人の感情や行動を推測することに長けています。
それをわがことのように感じてしまう場合もあります。
そしてそれに反応します。

困っていそうな人、寂しそうな人がいると、なんとかしてあげたくなる。
けれど、相手が本当に困っているのか、寂しいのかは、実はわからないことなのです。
自分が感じたことのある感情を、相手のなかに投影するのです。
もしかしたら、それは(無意識のなかで)自分を癒したいのかもしれません。

だからACの人は「問題」に惹きつけられます。
それを解決することで、自分の力を感じたいという側面もあるかもしれません。
そして結局は、自分が疲れ、イヤな思いをすることになる。
結婚相手に問題のある人を選んでしまい、相手を何とかしてあげようとして疲弊する人もいます。

思い当る人もいるかもしれません。

そんなACの人にとって一番大切なのは、「自分の」感情を大切にすることです。
「私はイヤ」「疲れる」「傷つく」などという感覚に、自分でも気づかず、過度に我慢を重ねてしまうのが典型的なACです。

「私が」気持ち良いことはなにか。
「私が」やりたいことはなにか。
「私の」欲求はなにか。

人のために我慢せず、「私の」ホンネを問い続けることが必要なのです。

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自分の中の「恐ろしい」ものへの恐怖

今回はいつにも増して抽象的になりますが、わかるかたにはわかってもらえると思います。
なんのこと?と感じる人はスルーしてください。

神経症(不安障害)になる人の「不安」って何だろう、とよく考えます。
もちろん森田療法での説明では、それは「死の不安」であり、対人的なことを気にする人にとっては「社会的死の不安」です。

それにしても神経症的不安というのは、その人の置かれている環境が安定しているときにも出てくる場合があるのです。
社会的不安が大きい時(たとえば災害時、不景気で生活が苦しい時、クビ寸前のときなど)には、むしろ神経症になる人は少なくなるのです。これは森田正馬も言っています。

現実的な不安があまりないのに、なぜ神経症になるのか。
それは「自分のなかに潜んでいるものへの恐怖」のせいではないかと思います。
それが何かは人それぞれでしょうが、「感情」にまつわる恐怖の場合が多いでしょう。

自分のなかに、自分で制御できない恐ろしいものが潜んでいるという感覚があり、それが外に出ないようにしているのが、強迫神経症だったりするのではないか、と私は思います。

なぜそんな感覚が出てくるのかというと、神経症の人のたくさんの「かくあるべし」が関係していると思います。
「自分はこんな人間であってはならない」「人に失礼なことをしてはいけない」「立派な人間でなければならない」「人より優位に立たなくてはいけない」
そういう考え方でいるためには、自分を監視していなくてはならない。
自分の言動をいちいち見て、自制しなくてはならない。

ずっと自分を監視し自制し続けている人には、それを脅かす危機がたくさん訪れます。
周囲は自分の「かくあるべし」通りに動いてくれない。
自身もまた「かくあるべし」通りの人間ではない。

ここで「かくあるべし」を緩める方向でいけば、それはその人が「人間的」になったということです。
ところが、ここで「もっと自制しよう」としてしまう場合がある。
すると自分のなかの「感情」(=制御できないもの)は、窮屈になり、その人にとって出てきてもらっては困る「オソロシイもの」に変化していきます。
ですから、症状というものは、自分のなかで制御できずに湧き上がってくる「何か」をなんとしても閉じ込めておこうという努力の表れになります。

わかりにくいかもしれません。
ちょっと簡単に具体例にしてみましょう。
たとえば赤面恐怖の人が、赤面を隠そうとするのは、「自分の弱さ」を人目にさらしたくないからです。
けれどその人のなかでは、そんな簡単な図式や言葉におさまる生易しいものではない。
赤面を隠す努力をしないと、人に見せてはならないオソロシイものが自分を制圧して崩してしまうような恐怖感があるのではないかと推測するのです。

そしてもうひとつ私が推測するのは、自分で感じている得体の知れないものは、実は「かくあるべし」と「感情を制圧する努力」とが生み出した幻想ではないかということです。

そのオソロシイ幻想を消滅させてくれるもの、それは自分の「かくあるべし」を削いでゆくことなのか、あるいは「恐怖突入」することなのか、経験を積んでゆくことなのか。

いずれにしろ、神経症から回復するということは、自分のなかの「恐ろしいもの」が実は「人間的」なもので、豊かなものだと自覚できるようになることなのでしょう。

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言葉はただの道具

森田正馬は、「言葉」についていろいろ言及しています。
「言葉は符丁である」つまり「言葉とは事実ではなく、ただ物事を表すだけの道具」という記述が全集5巻にあります。

なぜ森田正馬はわざわざこんなことを言ったのでしょう。

「言葉=事実」と考えてしまうと、私たちの生活になんらかの支障が出てくるということでしょうね。

私たちは暗黙のうちに「言葉=事実ではない」ことを知っているけれども、それでもコミュニケーションのために言葉を使わざるを得ない。
生活が西洋化され、言葉至上主義になってくると、私たちはだんだん「言葉の外にあるもの」を忘れてしまうようになります。

不安障害の強迫観念タイプのかたは、特に言葉にこだわる傾向が強いような感じがします。
頭のなかで「ああでもない、こうでもない」と考えていることは、殆どただ言葉を言い換えただけのことだったりします。

なぜ言葉にこだわるようになってくるのか。
それは、言葉以外の感情、感覚が怖いからではないかと、私は思います。
理知偏重の人、そしてコントロール欲求が過剰な人にとっては、どこからか湧き出てくる「感情」「感覚」は、なにか恐ろしいものなのではないでしょうか。

だから「言葉」に置き換える。
そうすると、自分のコントロールがきくものに変化するような気がする。

そんなことをしているうちに、その言葉に示唆されるものがまるで本当のことであるかのような錯覚が生まれてくる。
たとえば、何かしらの違和感を覚え、頭のなかで「細菌」をイメージし、その細菌が手についていて「汚い」と思う。
反射的にその汚れを「落とさなければ」と思う。
そして何回も手を洗えば、汚れが「落ちた」気がする。
しかし、「汚れが落ちた」と自分に言い聞かせても、最初の違和感はそのままなので、結局洗い直さなくてはいけない。
この「細菌」は、頭のなかの違和感をイメージ化して置き換え、増幅したもので、事実ではありません。
ですからいくら洗っても、落ちた気はしないのです。

いつも言うように、この場合は、違和感をそのままにして耐える。
そして次の現実のものごとに移っていくしかないのです。
実生活でのちょっとした不快感、違和感を、言葉をつかって何かに置き換えないことです。

ちょっと難しくなりましたが、理知的な強迫神経症タイプの方は、もっと「言葉以外」のものに対する感性を鍛え、それに慣れたほうがいいような気がします。

今だったら、桜の花を見上げて、空の青さとのコントラストを楽しむ。
ペットの手触りを楽しむ。
美味しいご飯を、単純に楽しむ。

そこに下手な言葉を介入させないのです。

森田正馬はこんなことを言っています。
「フロイトは無意識を意識化したが、森田は意識を無意識化するともいえる」

つまり、フロイトは言語化することを通じて神経症を治そうとしましたが、森田療法は言語化し、意識化してしまった違和感を、日常生活のなかでもう一度無意識に戻すことで、神経症を「忘れる」という治療法なのです。

もっと五感を大切にする。
言葉でとらえられないものに目を向ける。

それが大切なのでしょうね。

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目指すところが違う

時々対人恐怖のかたのお話をお聞きしていて、あれ?と思うことがあります。

例えば「親しい友人ができない」「皆は楽しそうに集まっているのに、私だけひとり」。
そんな訴えをよく聞きます。
そういう言葉を聞くと「じゃ、こういうふうにしてみたら?」と言いたくなるのが、人の常。
こちらからそういうお話も、もちろんします。

けれど、よく考えてみると、これは微妙に違うような気がします。
「人と仲良くなる」「友人をたくさん作る」のが大目標になっている。
普通、人は「友人を作ろう」と思って人と付き合うのではないような気がします。

友人や親しい人は、社会生活をしていると「自然に」できるものではないでしょうか。

そういうと、対人恐怖のかたは「私は自然に友人ができたことなんかない」と絶望するかもしれません。
それは、あまりに「作ろう」と意識しすぎるからかもしれませんね。
そういう考え方になると、どうも主体は「自分」になってくるようです。

つまり、自分が仲間になろう、自分の友人を獲得しよう、そういう指向です。

あなたは何のために「その場」にいるのでしょうね?
仕事をスムーズに進めるために職場にいるのでしょうし、グループにいるときは人の話を聞くためです。
皆が仕事や、相手の話に集中しているときに、自分だけ自分のことばかり考えている。
そうしたら、人と「一緒にいる」感覚がなくなるのも当然です。

つまり、その場での「目指すところ」が違うのですね。
仕事は仕事の遂行のためにあるのであって、自分のためにあるのではありません。
集いにはその場の目的があり、関心を向けあうという雰囲気があり、必ずしも自分のためにあるわけではありません。
他の人と一緒に「その場での目標」に目を向けたら、おのずから、人と仲良くなれるし、人との一体感も経験できるのです。

「目指すところが違う」のは、対人恐怖の人にだけ当てはまるわけではありません。
たとえば強迫神経症にしても、こだわっているところは、実はまったく見当はずれなのです。

自分が安心して楽しく幸せに暮らしたい、仕事で活躍したい、もっといい仕事をしてステップアップしたい。
それなのに、見当違いのところが気になって、それにとらわれてしまった。
その根底には(あるいは発端には)人生に対する向上欲求、幸福追求の欲求があるのです。
それがなければ、神経症(不安障害)にはなりませんから。

今、自分が一生懸命解決しようと努力している問題は、少しピントがずれたところを目指しているのかもしれない。
とりあえず今現在の自分の環境、境遇のなかでの役割を果たし、その目的を周囲と共有することで人との融和も達成されるし、果たした仕事の達成感も得られる。

そのプロセスのなかで、神経症的な悩みは自然に消えてゆくのだと思います。

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機嫌よく過ごしたい

このブログを読む皆さまは、多分頻繁に何らかの憂鬱感や心配事、不安に悩んでいるタイプではないでしょうか?
なんとか明るく、機嫌よく過ごしたいというのが切実な願いかもしれません。

何かの機会に、高揚感、楽しさを感じてもそれが長続きせず、すぐに心配事の波に飲み込まれてしまうというかたもいます。

よその人を見ると、不安もなく明るく生きているように見える。
自分はなんと損な気質に生まれついたものか、と嘆くこともあるでしょう。

そしてその憂鬱感を紛らわすためについお酒を飲んでしまったり、無駄な買い物をしてしまったり、甘いものを食べすぎてしまう。
それでますます、事態が悪くなり、結局また暗い気持ちになる。

実はそういうタイプのかたのほうが、世の中には多いのではないかと私は思います。
いつも明るくいられるには、どうも「鈍感力」みたいなものが必要で、そんな力は繊細な人にはまったく無理なものです。
残念ながら繊細に生まれついた人は、ずっと繊細なままです。
ただ、すこしずつ変化することも可能です。

どうしたら可能か、少し考えてみました。

ひとつには経験を積むことです。
敏感すぎる人は、当然、いろいろなことが怖く感じられます。
新しい人に会ったり、新しいことに挑戦したり、初めての場所にいったり、そういうことが全部不安に感じられる。
それでなるべく避けるようになり、必然的に、経験不足になり、そうすると失敗も多くなり、消極的になり、自信がなくなります。
自信がないとますますチャレンジできず、悪循環となります。
怖いけれど、少しでも積極的になり、経験を積むことで自分のなかに安定感が出てきます。
「なんとか対処できるだろう」という楽観性も出てきます。

もうひとつは「今、ここ」に集中することです。
自分のなかの「暗い感じ」「イヤな感じ」「よどんだ感じ」は、(全部とは言いませんが)自分の過去や未来の予測から来ています。
たとえば職場の誰かに嫌なことを言われたとします。
たいていの場合、家に帰ってまで反芻し、「アイツはあんなこと言って、自分のことを馬鹿にしている!」「きっと次はこう言ってくるに違いない、そうしたらどう言ってやろう」とグルグル頭の中で考えます。
浮かんでくるものは仕方ないのですが、自分は今、何をしているのでしょうか?
シャワーを浴びている? だったら洗うことに集中しましょう。
頭の中が他のことであふれていると、「シャンプーもう終わった? これはリンス?」などという簡単なことすら分からなくなります。
「今、ここ」に集中し、現実の中で次に何をしたらよいか考える。
現実が前に進むと、イヤな感じを忘れる時間も多くなります。

もうひとつは、身体を大事にすること。
最近は「運動」が心に与える影響が再発見されています。
イヤな感じに支配されがちな人は、身体を動かす機会が少ない傾向にあるのではないかと思います。
若い方ならランニングとか、ストレッチ、ダンス、高齢者ならウォーキング。
自分にあったものでいい。
私たちは「脳」だけが空中に浮いている存在ではありません。
脳の機能も身体や栄養状態、睡眠時間などに影響されるのです。
健康な身体づくりを目指すことも、私たちの「気分」を大きく向上させます。

そして自分の「やりたいこと」「楽しいこと」に没頭することも、最強のツールですね。
まだいろいろな方法はあると思いますが、続きはまた。
とにかく今年はなるべく機嫌よく過ごしたいものだと思います。

また今年、このブログでは神経質のかたの「性格」について少し深めていこうかと思っています。
そしてもっとACの生きづらさについても書こうと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。

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プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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