みんな未熟

以前、何人かでおしゃべりしていたとき、なぜか「今までで一番恥ずかしいこと」というテーマになってしまい、披露しあって笑ったことがあります。

けれど、そういう時に笑える体験というのは、「法事のときに正座をしていて、足の感覚がなくなって立てなかった」体験とか、何かを言い間違って恥ずかしい思いをした体験とかです。

本当に恥ずかしかったことは人には言えないし、笑ったりもできない。
当たり前のことですが、心のなかに隠しているものです。

対人恐怖的な人などは、他人は皆、成熟していて立派であるという観念を持ちやすい。
自分だけが恥ずかしい存在みたいに思うのですね。

でもね、皆、かつては今より未熟だったのです。
ずっと聖人君子として生きている人などいるわけがないのです。

私などもこの歳になって、過去を振り返ると、自分はなんて社会的な常識がなく、未熟で人を傷つけたり、ムッとされたりしていたことか、と思います。
今だからわかるけれど、そのときにはわからなかった。

けれど、それは決して無駄な体験ではなかったと思います。
それによって、少しは学ぶことができたと思うし、一番大事なことは、そんな未熟な私でも受け入れてくれた人たちが、たくさんいたということです。
もちろん傷つけて去っていってしまった人もいます。
それは、当たり前のことで、誰だってそういう人が何人かはいるでしょう。

けれど、そこまで偏狭で、厳しくない人もいるのです。
そうやって許してくれた人たちが、心を開ける友人になっていくのだと思います。

自分が自分に厳しいと、そんなに心が広い人たちがいるということも信じられないけれど、そういう人は多いのです。

なぜなら、「人間は皆、未熟」ということが当たり前のことだから。

「成熟した人間になってから人と付き合おう」「完成した人格になろう」「いい人になろう」とか思っている人がいるような気がします。
そうでなければ、人から受け入れてもらえないと思っているから。

でもそんなことを目ざしていると、他の人の未熟さが目について毎日イライラしてしまうでしょう。
人間は皆未熟で、今でも未熟。それでいいのだと思います。
自分の未熟さを自覚しているのであれば。

成熟した人格者になるのが人生の目的なのでしょうか?
宗教的な修行などで、それを目指している人もいるかもしれません。
でも、たいていの宗教の趣旨は、「こんな未熟な自分でも神(仏)は、受け入れてくれる」ということを実感することではないかと思います。

完成された人間になること、人格者になることはそれほど大切なことでしょうか?

それよりも、この人生で、本当に自分のやりたいことができたのか、未熟な自分でありながら人と親しみ合うことができたのかどうか、そういうことのほうが大切なように、私は思うのです。



ポピー2

相手の身になって考える


「相手の身になって考える」つまり「相手の立場を推し量り、その人のために考える」ということは、結構難しいことですね。

セラピスト、カウンセラーという仕事も、日々その訓練であるわけです。

日常生活のなかでも、相手が善意で言ってくれることだけれど、「それは少しむずかしいなぁ」とか「思いやりがないなぁ」と感じてしまうこともあります。
こういう行き違いは、日常茶飯事かもしれません。
こういうときに「自己主張」が必要になってくるのでしょう。

それでお互い意志の疎通ができれば、一件落着なのですが。

卑近な例ですが、私は胃腸が弱いし小食です。おまけに乳糖不耐症があるし、「食べたら次の日に絶対具合が悪くなるもの」がたくさんあります。

こういう人間が「出されたものは必ず全部食べるのが当然」という「かくあるべし」をもっているかたと出会うと、地獄です。
コース料理に招待されてしまった場合などは、まさに窮地。

いくら「少なくして」と頼んでおいても、最初の二、三品でもうお腹がいっぱい。
残すと、給仕のかたに「?」という顔をされたり、他の人に「美味しくなかった?」と聞かれたり・・・。
若い時には、相手に「残さず食べなきゃ」と説教されたこともあります。
こういう胃腸が丈夫なかたには、胃腸が弱い人の気持ちは到底わからない。

一般的に、体力がある人は健康でない人のことがなかなか理解できないようです。
体力が尽きてしまうと、「根性がない」と思われる・・。

カウンセリングのなかでお話を伺っていても、そういうことで辛い思いをなさっているかたがたくさんいらっしゃるようです。

毎日必死で働いて、土日くらいはゆっくり寝たいと思っているのに、休みの日でも家族が「早く起きなさい。何をグダグダしているの」と、寝かせてくれない。
外で働くのがどれだけたいへんで、どれだけ疲れるか、察することができない家族なのですね。
ひどいケースですが、「人間は一日○時間眠れたら大丈夫なのだ」と言って、自然な欲求はとりあってもらえないなどということもあるようです。

給食を少しでも残すと、食べ終わるまで席を離れられなかったり。(今はそういうことは少なくなっているようですが、昔はよくあったことです)

部活でどんなに体力がない子も、一律にハードトレーニングをさせられたり。

飲み会で先輩から「飲め、飲め」と強要されたり。

一時代前の日本人は「精神論」がすごく好きでした。
精神力さえあれば、たいていのことは乗り越えられるものだーーという考え方ですね。
非科学的です。

精神論というのは「かくあるべし」です。
人それぞれの個性とか、特性とかをまったく無視して、「こうでなくてはならない」と決めつけてそれを実行しようとする。
それを他人にも押し付ける。

「かくあるべし」を他人に押し付けているときには、その人は「相手はまったく違うことを感じているかもしれない」「相手の身になって考えるとどうだろう」ということを、失念しているに相違ありません。

学校や職場などでは、なかなかNOというのは難しいことです。
でも、そんな「かくあるべし」に出会ってしまったら、おずおずでも「自分はそうできないのだけれど」と言ってみることも大事かもしれません。

それはもしかしたら相手の人のためになるかもしれない。
「自分と他人は感じ方が違う。自分にとって当たり前のことが、他人の当たり前ではない」ということ。
相手がそういうことを学習できるチャンスになる可能性もあります。

でも、一番困るのは、自分が自分に「かくあるべし」を押し付けてしまうことですね。
自分の本当の体力・能力を認めると、「かくあるべし」がはずれて、少し自分に優しくなれるかもしれません。


あしかが2

神経症が治るということ

本日は森田療法の基本中の基本。
森田療法の目指しているところについて、誤解をするかたが若干いらっしゃるようですので、確認の意味で、森田療法にとって「治る」とはどういうことか書いてみます。

大体のかたはご存知と思いますが、森田療法の治癒とは、違和感や不安感がすべてなくなることではありません。
・・・と書くと、「そんなことはわかっている」とおっしゃるかたが多いと思います。
言い古された言葉ですので、わかったような気になっている場合もあります。
実感(現実)として考えてみるとどうでしょうか。

実は対人恐怖とただの対人緊張や対人トラブルの違いがわからなかったり・・・
乗り物に乗って不安を感じるので「まだ治っていない」と思ったり・・・

森田療法の治癒と症状真っ最中の状態は、紙一重のところがあるのですね。

どうも西洋の治療法は「治してしまおう」「無くしてしまおう」「変えてしまおう」という姿勢が強いようです。
森田療法の姿勢は「共存」です。

たとえ症状や不安があっても、それが日常生活ややりたいことの邪魔をしなければいい。
端的に言えばそういうことです。

仕事や家事ができればいい、必要なときには人と交わることができればいい。
逆に言えば、そういうことができないときが「症状」に悩んでいる状態と言えます。

神経質の人は「もっと」の人です。
一応日常生活が不自由でなくなっても、「もっと」を探し求めます。

その「もっと」が現実的な部分に向けられることは、森田療法の目指していることです。
しかし、自分の内的な違和感に対して「もっと快適になりたい」「不安のかけらも感じたくない」「この違和感がいやだ」「これは症状かもしれない」などと考えると、結局症状的な状態に逆戻りします。

これも言い古されたことですが、不安も違和感もなくなることはない。
それは必要なときには出てきます。
そしてそれにとらわれるときに増強されます。

「職場のあの人がいやだ」「このいやさは、なんとかならないものか」「毎日、仕事場でもっと快適に過ごしたい」
そういう思いが、その人に対する嫌悪感を憎悪させます。
嫌いな人がいるのも人間として当然なことです。

しかしその不快感をどうにかするために仕事場へ行くわけではない。
仕事を片付けるために行くのです。
もっと能率的に、もっと創造的に仕事をするためです。

1, 2回くらい確認行為をすることは、別に日常生活に支障はないことです。
それまで「完全に」根絶しようとすることは、かえってそれにとらわれることです。

それではそういうことにとらわれないようにしよう、というのではありません。
森田療法的に行動していれば、自然にそんなことはどうでもいいことになるのです。

現実の世界で、今までできなかったことができるようになること。
どんな違和感が出てきても、どんな感情が出てきても自分はOKだと体験すること。

それは、自分のなかに眠っていた「力」を実感することです。
目の前の現実のなかで、日常的なことのなかで、自分が何かをできると体験することや、現実的なものごとが前に進んでいくことを体感することで、その「力」は目覚めるのです。

そんなふうになれば、今まで夢想していた途方もない「理想像」や途方もない「パワーの幻想」は、自分にはまったく必要のないことになってくるのです。


藤

満開の藤の花(あしかがフラワーパーク)


森田療法のことをもっと知りたいかたぜひご利用ください お茶の水セラピールーム

あれも、これも

電車のなかで、お母さんに「ねぇ、ねぇ、あれなぁに?」と聞いている小さな男の子。
隣に座るお母さんは、「あれはね・・・」と優しく説明しています。

こういう光景を見ると、「いい子育てをしているな」と思います。

でもときどき、子どもがそんなふうに問いかけると「いいから! 今はそんなことどうでもいいでしょ!」と怒って黙らせる親もいます。

小さな頃、たいていの子どもは、好奇心に溢れています。
大人にとってはあたりまえのことでも、当然のことながら、子どもには初めてのことばかり。
そんなとき、そういう好奇心の芽を伸ばしてあげられるといいのにと、思います。

何かを尋ねたり不思議に思ったりしたとき、そういう問いかけをするとただ怒られるだけだと、その好奇心は行き場がなく、しぼんでしまうでしょう。

学校教育が、そのような好奇心を伸ばす場になっているならいいですが、それができる先生に恵まれるのは本当に一部の子で、たいていは押しつけの知識をつめこまれて、わかったような気になるだけかもしれません。

ましてや、学校教育が過密で、自分の愉しみに費やす時間もないとしたら、本来持っている好奇心を眠らせたまま、大人になって毎日「つまらない」とかこちながら過ごすことになるのかもしれません。

「あれもしたい、これもしたい」「あれも知りたい、これも知りたい」と毎日を過ごせれば、それこそが無上の喜び。
人生の喜びと言っていいかもしれません。

大きな目標を達成したり、「趣味」と称して何かをつきつめたりする必要もない。
ほんのちょっとした楽しみを毎日のなかに見つけるだけで、幸せな気分になれるものです。

私は本が好きなので、買い物の途中で書店に寄ります。
すると「今、こんな本が流行っているのね」とか、山積みになった本を見て、「こういうタイトルをつけると売れるんだわね」などと考え、結局何冊か買って帰ることになります。
これはAmazonでは味わえない楽しさ。

電車のなかでも本の広告には目が行きます。「○万部突破!」などと書いてあると、本当にこんなに売れるのだろうか、どのくらいサバを読んでいるのだろうか、などと考えたり、○万部売れたら印税はどのくらいだろうかと計算したり・・・(笑)。

実際、外に出て退屈することはありません。

家の周りを歩いていると、「あの店は繁盛している、いつも満員だ」とか「あそこはまたつぶれた。立地が悪いんだろうか」とか考えながら見ているのも面白い。

オフィスの近くだと、病院から出てくる人の表情を見ながらいろいろ考える。
先日など、病院帰りらしき老婦人が実に満面の笑みをたたえて歩いていたので、「多分この人は癌検診か何かの結果を聞きにいって、異常なしと言われたんだろうな」と推測したりしていました。
本当に皆いろいろな表情をして歩いているんですよ。

また他にも、方向音痴の私はときどきGoogleマップを見ながら、「へぇ、この場所とこの駅とは近かったのね」などという、他の人にとってはあたりまえのことを発見したりして楽しむこともあります。
別にそれで方向音痴が直るわけでもなく、実用の役に立つわけでもないのですけれど。

あまり功利的に考えず、ただ面白いから、ただ楽しいからでいいのだと思います。

そんなふうに好奇心旺盛に「あれも、これも」と興味を追っていると、いろいろなことが面白くなってくる。
そうなると、自分の悩みの解決を考えたり、じっと自分のことばかり思いあぐねることは、そのうちどうでもいいことになってしまうのだと思います。


蔦に桜

蔦と桜 (四谷見附)

自分のなかの自然


前回のブログでは、自然環境の悪化について書いたのですが、本当は森田療法のなかにあるエコの考え方について書こうかなと思っていたのです。
どうも花粉症がひどくなって、不満を言うだけのブログになってしまいました。

その後、どうにも我慢できずに耳鼻科に行き、薬をもらって(私はあまり薬というものを飲まないのですが)飲んだら早速症状が消え、これもなんとなくこわかった。
こんなに効いていいものだろうか、という感じです。

花粉症については、実は今年の花粉症シーズンの始まりに殆ど症状が出ず、これは一年以上飲んでいた腸のサプリ(ビール酵母など)のせいかもしれないと、喜んでいたのです。
別に花粉症のために飲んでいたわけではないのですが。
ところが風邪をきっかけに治ったと喜んでいた花粉症が再発。
花粉症はそんなに甘くない。

腸内環境を良くして身体を健康にしようという方向は、自分の自然治癒力を活性化させて全体をととのえ、大きな病気を防ごうという方向性ですね。
ひきつづき来年に期待して、ビール酵母や乳酸菌をとり続けてみたいとは思っています。

さて森田療法は心の自然治癒力を活性化させる治療法と言われています。
森田正馬は、これを「自然良能」と呼んでいます。

森田は人間を「自然の一部」であると見ました。
あたりまえのことのようですが、西洋的にはこれは違う見方になるようです。
西洋では、一神教の神があり、神が自分に似せて人間を作ったので、人間は他の自然界から優越する立場にあると考えるようです。

それはさておき、森田療法が人間を自然の一部と見たというのはどういうことでしょうか。
つまり私たちは、自然によって生かされているというだけではなく、私たちのなかにも「自然」があるのだという考え方です。
そしてその自然は私たちを生かしている力でもある。

私たちの心もまた「自然」の一部なのです。
そして意識も感情も外界の環境に反応しながら、流転している。
それが自然なありかたです。

普通は皆そうやって心の自然な動きと共存しているのに、神経症の人は、どこかでひっかかってしまって、自分からその流れをせきとめて、ひとつのところで堂々巡りをしている。
神経症のかたがよく「閉じ込められている感じがする」というのは、そういう感覚を言っているのでしょうね。
ここから脱出するのは、ただ自分の「人工的な努力」をやめさえすれいい。
そうすれば、自然良能によってまた心は回復していくのです。

なぜなら私たちの心も身体も、必ず自分を生かす方向に動いているものなのですから。

「私たちの精神活動の進行は、自然にまた本能的に、自己保存に適応するような方向に流転しているものである」(本態と療法)

ではどこが人工的な努力だったのでしょうね?

答えは簡単。
生きていくうちには、私たちはいろいろなことを感じるのが自然。
そのなかには「嫌な感じ」もあり「不愉快な感じ」もある。
その自然な感じを恐怖して、なんとかして感じないようにしよう、自分にとって快い感じだけ感じたいとしたのが症状の発端ですね。

「嫌な感じ」も「不愉快な感じ」も理由があって出てくるもの。つまり自然なもの。
ただそこから逃げず、自分のなかの自然と自分の環境に臨機応変に適応していけば、そこに森田の言う「自然良能」が出現してくるわけです。

考えてみれば、自分のなかに自然があるというのは、素晴らしいことですね。
私たちは安心してそこに身をまかせていればいい。

「いや、身をまかせるなんて、そんな不安なことは無理!」と感じる方、自分の思考能力と自然とを比較してみましょう。
どっちが安心できるかわかりますよね。


夜桜

都会の夜桜 小石川播磨坂

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
    ↑ 悩んでいる人のための森田療法解説書                           
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR