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機嫌よく過ごしたい

このブログを読む皆さまは、多分頻繁に何らかの憂鬱感や心配事、不安に悩んでいるタイプではないでしょうか?
なんとか明るく、機嫌よく過ごしたいというのが切実な願いかもしれません。

何かの機会に、高揚感、楽しさを感じてもそれが長続きせず、すぐに心配事の波に飲み込まれてしまうというかたもいます。

よその人を見ると、不安もなく明るく生きているように見える。
自分はなんと損な気質に生まれついたものか、と嘆くこともあるでしょう。

そしてその憂鬱感を紛らわすためについお酒を飲んでしまったり、無駄な買い物をしてしまったり、甘いものを食べすぎてしまう。
それでますます、事態が悪くなり、結局また暗い気持ちになる。

実はそういうタイプのかたのほうが、世の中には多いのではないかと私は思います。
いつも明るくいられるには、どうも「鈍感力」みたいなものが必要で、そんな力は繊細な人にはまったく無理なものです。
残念ながら繊細に生まれついた人は、ずっと繊細なままです。
ただ、すこしずつ変化することも可能です。

どうしたら可能か、少し考えてみました。

ひとつには経験を積むことです。
敏感すぎる人は、当然、いろいろなことが怖く感じられます。
新しい人に会ったり、新しいことに挑戦したり、初めての場所にいったり、そういうことが全部不安に感じられる。
それでなるべく避けるようになり、必然的に、経験不足になり、そうすると失敗も多くなり、消極的になり、自信がなくなります。
自信がないとますますチャレンジできず、悪循環となります。
怖いけれど、少しでも積極的になり、経験を積むことで自分のなかに安定感が出てきます。
「なんとか対処できるだろう」という楽観性も出てきます。

もうひとつは「今、ここ」に集中することです。
自分のなかの「暗い感じ」「イヤな感じ」「よどんだ感じ」は、(全部とは言いませんが)自分の過去や未来の予測から来ています。
たとえば職場の誰かに嫌なことを言われたとします。
たいていの場合、家に帰ってまで反芻し、「アイツはあんなこと言って、自分のことを馬鹿にしている!」「きっと次はこう言ってくるに違いない、そうしたらどう言ってやろう」とグルグル頭の中で考えます。
浮かんでくるものは仕方ないのですが、自分は今、何をしているのでしょうか?
シャワーを浴びている? だったら洗うことに集中しましょう。
頭の中が他のことであふれていると、「シャンプーもう終わった? これはリンス?」などという簡単なことすら分からなくなります。
「今、ここ」に集中し、現実の中で次に何をしたらよいか考える。
現実が前に進むと、イヤな感じを忘れる時間も多くなります。

もうひとつは、身体を大事にすること。
最近は「運動」が心に与える影響が再発見されています。
イヤな感じに支配されがちな人は、身体を動かす機会が少ない傾向にあるのではないかと思います。
若い方ならランニングとか、ストレッチ、ダンス、高齢者ならウォーキング。
自分にあったものでいい。
私たちは「脳」だけが空中に浮いている存在ではありません。
脳の機能も身体や栄養状態、睡眠時間などに影響されるのです。
健康な身体づくりを目指すことも、私たちの「気分」を大きく向上させます。

そして自分の「やりたいこと」「楽しいこと」に没頭することも、最強のツールですね。
まだいろいろな方法はあると思いますが、続きはまた。
とにかく今年はなるべく機嫌よく過ごしたいものだと思います。

また今年、このブログでは神経質のかたの「性格」について少し深めていこうかと思っています。
そしてもっとACの生きづらさについても書こうと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。

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「いいね!」の呪縛

ご自身でブログやインスタをやっていらっしゃって、いろいろ発表するけれど、その記事につく「いいね!」や「拍手」の数が気になってしかたない、というかたがいらっしゃいます。

「多かった」「少なかった」と一喜一憂してしまい、いっそアップをやめてしまおうかと嘆く方がいます。

「拍手」や「いいね!」を直接的な「評価」ととらえていらっしゃるのですね。

私自身も、もっと歳が若かったら、そういうことが気になるかもしれません。
けれど、今は「いいね!」を「評価」とはとらえていない。
違う風に読み取っているかもしれません。
もちろん、いただいた「いいね!」をどんなふうに解釈しても、それはこちらの自由ですよね?

私のこのブログを例にとってみれば、このブログは他のブログより「拍手」の数が少ない傾向があります。
読者の数はそれほど多くないかもしれませんし、その割合を計算するなんて面倒なことはしませんが、読者は多分神経質で森田療法に興味のある人が殆どと思います。
だとしたら、拍手が少ないのも納得できます。
だって神経質は皆、結構「厳しい」人たちですよね。
そう簡単に「拍手」などくれないと思います。
だから別に拍手の数が少なくても、私は気になりません。

以前は森田療法以外の、自分のニッチな趣味のことも書いていました。
ところが、あまりに拍手が少ない。
これは、仕方がないことでしたが、差が歴然としていたので、少し気落ちして、他で書くことにしました。
「ランダムマンダラ」は森田療法、精神療法専用ブログになってしまいました。
自分としてはあまり面白くなくなりました。

同じ森田療法、心理関係の記事でも、もちろん「拍手」の数は違います。

一生懸命書いても、意外に「拍手」が少ない時がある。
そんなとき、「そうか、少し難しかったのかな」と解釈します。
興味がなかったのかもしれません。

かといって、拍手めざして記事を書くことはしません。
そのときに思いついた書きたいことを書いています。

さて、私自身が他の記事やYouTubeに「いいね!」するときにはどうするか?
基本、見せてもらった「お礼」の意味で、(忘れなければ)「いいね!」をつけます。
だって、無料で一生懸命工夫して書いたり、撮影したり、解説したりしてくれているんですよ。
最後まで読めなかったり、見られなかったものにはつけません。
大体、そんな感じで、私の「いいね!」はお礼であって「評価」ではないようです。

なぜ長々、こういうことを書いたか?
「いいね!」をただただ「評価」と解釈して落ち込んでいらっしゃるかたに、ちょっと考えていただきたいのです。
多分そういう方は、自分が「いいね!」をつけるときにも、非常に慎重に評価していらっしゃる。
だから他の人もそうだと思っている。

けれど、向こう側にいる「誰か」は、まったく違う意味でつけたりつけなかったりしている。
基準があるわけではないし、相手の自由だから、それはそれでいいわけです。

そんな確かでないものにわずらわされるより、(たとえ「いいね!」がつかなくとも)自分の表現ができた。
その一番大事なところを忘れないでほしいのです。

夜景

少し気楽に

秋らしく活動しやすい気候になってきました。
こんなときは、散歩をしたり、オープンカフェで読書したいものです。

こうやって「~したいものです」と言っても、なかなかしないのが自分。
長年「自分」とつきあっているから、よ~くわかっているのですが、他のかたに「散歩でも・・・」などと勧めても、自分で実行に移すのはせいぜい1週間に1回ぐらい。
カフェで読書なんてひと月に1回くらい。

この歳になって、これではいけないと思い始めているところです。
動けないという意味ではなく、のんびりできないのです。

森田療法の悪影響でしょうか(笑)、休みの日でも朝から「やることリスト」を作り、今日中に家のあそこを片付け、この本を読み図書館に返して、用事があるからあそこに出かけ、そのついでにあそこで買い物をして・・・と、忙しく計画を立てる。
毎日が「やることリスト」の計画で埋まっております。

この頃わかったのですが、どうも私は忙しくしていないといられない人のようです。
「目的意識」が好きなのか。
忙しいという「感じ」で充足しているのか。
「感じ」と言ったのは、忙しくても、必ずしもものごとがはかどっているわけではないからです。

最近やっと、夜の時間は何もせず、ストリーミングサービスでドラマを見るということを「自分に許す」ようになってきました。
「自分に許す」というのは、以前もこういうことをしていたのですが、どこか「罪の意識」があったのですね。
この罪の意識は何なのでしょう?
遊ぶことに対して罪悪感があるんでしょうか?
ワーカホリックなのでしょうか?
自分の時間は有意義なことに使わなければならないという観念がこびりついていたのでしょう。

結果、現実にはダラダラ遊んでいたのですが、心から楽しんでいないような・・・そんな感じがありました。
そのようなかたも多いのではないかと思います。

本日はそんなかたがたのために本をご紹介します。
特に「うつ」的な人には読んでほしい本です。

「あやうく一生懸命生きるところだった」(ハ・ワン著)。
もう2年ほど前に日本でも評判になった本ですから、いまさらの紹介ですが。
韓国でも日本でもベストセラーだったそうです。

著者は、韓国の芸大のような最高峰の大学に何年も浪人して入学し、イラストレーターとして身を立てるべく一生懸命生きてきた。
ところが、一生懸命努力しても、報われるどころか、どんどん苦しくなっていくような気がする。
そして40歳にして「今日から必死に生きないようにしよう」と決心するのです。

気楽に読めて、なるほどと思える言葉がたくさんあります。

「時間は、何かをしてこそ意味があるわけではない。/時には、何もしない時間にこそ大きな意味がある」
「偶然の楽しみでいっぱいの目的のない一歩。/これこそが人生を豊かにしてくれる醍醐味なのかもしれない。」
「我慢してやみくもに努力することだけが能力ではない」
「答えを出すことだけに集中し、問題を解く楽しさを忘れてはいないだろうか?」
「人生は『答え』じゃなくて『リアクション』が重要な試験なのだから」

森田の「努力即幸福」という言葉を思ったりしました。(皆さんは努力即幸福のちゃんとした意味、ご存じですよね?)

読むと気持ちが軽くなりますよ。


「ヤーロムの心理療法講義」

本日は、森田療法以外の精神療法の話。
あ、こう言ってもスルーしないでくださいね。
以前、私が翻訳出版した「ヤーロムの心理療法講義」が久々に重版されましたので、この著書のことを、また振り返ってみたいと思います。

ご存じのかたもいるかもしれませんが、アーヴィン・ヤーロム博士は米国の精神療法家。
主にグループ療法と実存精神療法とをメインに研究し、グループワーク、心理療法をなさっているかたです。

米国でヤーロム博士というと、超がつくほど高名ですが、日本ではあまり有名ではないようですね。
精神療法の著書だけでなく、小説も書いています。(例:「ニーチェが泣くとき」)
小説は日本でも翻訳されているものがあります。

さて、ヤーロム先生の「実存精神療法」とはどういうものか?
これは人間にとっての非常に重要な関心事「死、孤独、人生の意味、自由」に焦点を合わせた精神療法だそうです。
昨今、雨後の筍みたいに現れてくる精神療法と違い、あまり技法に重点を置きません。
フランクルの流れを汲む療法です。

この実存精神療法は、森田療法とも共通点が多いと、私は思います。
「死」「人生の意味」などについても、森田正馬は語っていますし、むしろその部分は森田療法の根幹のところでしょう。
「今、ここ」を大事にすることも同じですし、フランクルの逆説志向という技法も森田療法と同じです。

さて、この本の原題は「The Gift of Therapy」。
これから心理療法を志す人、心理療法というものを知りたい人のために書かれた易しい本です。
短いエッセイで構成されていますが、読んでいるうちにセラピストとしてのヤーロム先生の優しさに、どんどん惹かれていきます。
特に「63 患者に触れるのを恐れないように」などは、涙を誘われるほど感動的です。

私がこの本を必死で翻訳しているとき、どうしてもわからない箇所が出てきました。
飛ばして訳すわけにもいかず、意を決してヤーロム先生にメールしました。
結局それは米国のゴミ収集車のことだったのですが(笑)、先生はとても親切に丁寧に答えてくださいました。
それだけではなく、あるとき学会でヤーロム先生と親しい女医さんにお会いしたのですが、彼女から「ヤーロム先生が、マリさんは元気かしらと、言っていましたよ」と言われ、びっくりしました。
あんなおバカな質問をした翻訳者も覚えていてくれたんですね。
(追記:そういえば、森田療法の本を書いていることもアピールしたかもしれない・・・)

この本は、何か所かの日本の心理の大学、大学院で教科書として使ってくれているそうです。
臨床心理学を学ぶかたにはぜひ読んでいただきたい本です。
また学んでいなくてもカウンセリングというものに興味をお持ちなら、お勧めです。
(「まえがき」は飛ばしてもいいと思いますが、そのあとは小説のように面白く読めます)

私もこれを機に、もう一度読み直してみたい。
それにしても、当時はよくこれを訳し上げたものだと、我ながら思います。
今から一冊翻訳しろと言われても、もう無理だろうな・・・。


イヤなことを避け続けると

生きていく中で、人はいつも何らかの「選択」をしています。
大きな選択、小さな選択、様々です。

人間として当然なことですが、私たちはなるべく困難が少ない道を選択しがちです。
もちろん先行きに「危険」が予想されるなら、そういう選択がベストです。

ただいろいろな方のお話を聞いているなかで、時々「それを避ける? そこでやめる?」と感じてしまうことがあります。
つまりこちらから見ると、その先に行ったらいいことがありそう、楽しそう、可能性が開けそうと思われるのに、躊躇しているような例です。

「あの会合に誘われているのだけれど、大人数だし、誰がくるかわからないから行かない」
「この試験にチャレンジしてみたいけれど、自分の実力がわかるとイヤだから受けない」
「発表会には出たいけれど、恥をかきたくないから欠席する」

それは小さなことから大きなことにまで及びます。
小さなことで言えば・・
「友達があのアプリを使って楽しんでいるけれど、インストールしたら危険かもしれない」とチャレンジしない。
道具や家具なども「あれは便利そう」と思いながら、選んだり買ったりお金を出したりするのが面倒で今までのものですます。
進取の気質がないのですね。

大きなことでいえば・・
転職したいけれど、転職先が果たしていいところかわからないので、今のところで我慢する。
結婚を考えているけれど、果たしてこの人でいいのか・・といつまでも迷い続ける。
夫がDVっぽいけれど、家を出て生活していけるかわからないし、先の困難を思うと動くことはできない。

こんな場合は、「選択しない」ほうがずっと居心地が悪いのに、「先が見えない」ほうが怖く感じられる。
それで不快なところから動かず、我慢して留まり続けてしまうことになります。

そういう選択も、その人の選択なので、良くも悪くもありません。
まったく、個人の自由の領域です。

ただ、そうやって選択を拒否し続けると(それはつまり「前に進む」ことを拒否しているのと同じかもしれません)、長い目で見るとその人は「経験不足」の人になります。

それにイヤなことを避けて避けて避け続けた人生は、どうなると思いますか?

イヤなことを避けていると、イヤなことに敏感になります。(精神交互作用ですね!)
他の人はまったく不快とも思わないようなことが不快に感じられます。

チャレンジし続けた人ならなんとも思わないことが、一大事に感じられます。
そしてそのたびに深く傷ついたり、落ち込んだりします。
結局、イヤなことを避け続けていると、イヤなことを経験することが多くなるように私には感じられます。
耐性がなくなって、ちょっとの事件や失敗でも心が暗くなるのです。

経験によって培われるはずの自信も、得ることができない。

外からはなんの挫折もないおだやかな人生に見えても、ほんの少しの打撃で崩れてしまう弱さを抱えることになります。

経験こそは人生の宝です。

確かにチャレンジしたらイヤな思いをするかもしれない。
リスクをとった結果、失敗したと思うかもしれない。

けれどそれも経験です。
必ずや何かの学びになるし、自分の心を鍛えることになります。
怖いのなら、ほんのささいなことから踏み出せばいい。
そして結果のなかに、イヤなことだけでなく、小さな喜びを感じ取っていく。

その連続のなかで、私たちの人生は豊かになっていくのだと思います。

冬の木

T.H氏撮影
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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