イライラへの対処

忘年会シーズン。
どうやら皆さん、好きで忘年会しているわけではないようで、おつきあいで毎晩遅くなったり、たいへんそうです。

こういう時期にイヤなのは、夜遅く電車に乗ること。
車両全体が酒臭かったり、なんだかアブナイ酔っ払いがいたり、できればそういう時間帯は避けたいですね。

面白いことに「電車のなか」は、結構カウンセリングによく出てくる話題なんですね。
パニック系のかたは、電車のなかは鬼門ですし、視線恐怖や体臭恐怖の人は、他人に迷惑をかけているのではないかと気が気でない。皆が自分を見ていると錯覚してしまう人もいる。

それだけでなく電車のなかでとにかくイライラする人も多いようです。
「出口の前をふさがなくてもいいじゃないか!」
「この人、どうしてこんなに近づいてくるんだろう!」
「もう少しつめてくれれば楽なのに!」

通勤のときにイライラして仕事どころではなくなるという人もいます。
「どうしたらいいですか?」と聞かれることもあります。

ひどいイライラの原因としては様々なことが考えられます。

もしかしたら体調が悪いのかもしれません。
とても疲れているのかもしれません。
女性の場合、PMS(月経前症候群)ということも考えられます。

あるいは当然のことながら、生活のなかで何か不満なことを抱えていれば、少しのことでイライラします。
電車の中のイライラは八つ当たりのようなものですね。

でも神経質の人の場合、もうひとつのことが考えられます。
それは、イライラするその感覚に違和感を覚え、それを何とかしようとしてますますイライラするということです。

考えてみれば、混んだ電車のなかで思うように動けなかったり、出口をふさがれたりすれば、誰でもイライラします。
当然のことです。そして当然のことなので、普通そのことは瞬時に忘れます。

ところが、このイライラがとても重く感じられるタイプのかたがいるようです。
多分「安定感」とか「穏やかさ」とか「快さ」とかを過剰に求めると、この少しのイライラが辛く感じられるのかもしれません。

それと同時に「こんなことでイライラするような小さい人間でありたくない」という意識もあるのかもしれない。
自分の求める「自分像」に現実の自分が一致しない。
これも当たり前のことなんですが。

そんな背景があると、イライラはますます大きなものになって自分の心を苦しめます。
ではどうしたらいいんでしょうね?

まずはイライラを感じているのはあなただけではない、と認識すること。
こんな状況では、誰だってイライラするけれど我慢しているのです。

イライラを消すことなどできません。和らげることもできません。
でもだからといって、口に出したり手や足を出したりしなければ、イライラは時間や状況の推移にともなって消えてしまうものです。

でももうひとつ忘れてはならないことがあります。
自分の外側の状況を見れば、そのイライラがどこから来たのかわかりますよね。
もしかしたらそれはあなたに何かを知らせてくれているのかもしれない。
「隣に立っている人、なんだか変!」とか・・・
そうしたら避けるか逃げるかしなくちゃ!

何かの感情が起こり、経験に裏打ちされた理性が判断し、行動を起こす(起こさない)。
人間はそうやって日々生きているのです。
心に変な細工をせずに、自然な動きにまかせていれば、その積み重ねが「直観」というものを培っていくのだと思います。


イルミ

通りすがり

先日の夜、帰宅途中の出来事。
その日はかなり疲れていて、とにかく早く家に帰りたい気分。

大通りを急いでいたら、左側に折れる道に倒れている人の姿が・・・。

えっ、どうした? と思うと同時に「困った・・」という思いも。

「やっと仕事が終わって帰れるのに、ここで面倒なことに関わりあったら・・・」
少し迷いました。

けれど、どう見ても道端で倒れている。それも仰向けに。

しかたなく道を折れてその人のところへ。
「どうしました?」と声をかけると、意識はありました。

身なりのよい太った初老のかた。
なんだかひっくり返った亀みたいな感じで起き上がれないでいます。

手を貸して、起き上がりましょう、と引っ張っても起き上がれません。

するとそこに若い男性登場。
一緒に声をかけて、両手を持って起き上がらせようとしてもダメです。

その若い男性と相談して「では救急車を呼びましょう」と言うと、倒れている男性が「大丈夫です! 救急車はやめてください」と言う。

そこへもう一人男性登場。
「今、この人をここまで乗せてきたタクシーの運転手です」と。(今までどこに?)
「この人は、ここが家の近くと言ってましたけど。降りたあと倒れたんですね」

でも家がどこかわからないので「では110番しましょうか?」と言うと、倒れている男性「それだけはやめてください。ほっといてください」

まさか放っておくわけにもいかず、病気なのか、酔っているのかもわからず、家はどこか聞き出して(結局倒れている真ん前のビルでした)かつぎ起こしてエレベータに乗せて玄関まで送り届けました。

「お疲れさん」と三人解散したあとは、なんとなく疲れがとれた感じ。

さて、何のためにこんなことを書いたかというと、「純なこころ」の解説にいいかと思って。

森田療法では最初に感じた感情を「純なこころ」と言います。
この「純なこころ」を「かくあるべし」で押しつぶすことから種々の悩みが出てきます。

この場合、私の純なこころは、「困ったことになった」かしらと思ったのですが、それは第二念だったようです。
「純なこころ」(初一念)は、「あら、病気?何かの発作?」という「どうした?」という驚きですね。
次に「ここで関わり合ったら時間かかるし、困る・・」と思ったわけです。

「純なこころ」がまずあり、それから「理性」が働き、その場に適した行動がとれるわけです。

しかしここに「かくあるべし」が入り込むとどうなるでしょう。

「人が倒れていたら必ず助けなければならない」という「かくあるべし」があると、「困ったことになった」と思うことにも罪悪感を持つかも知れない。
「かくあるべし」に従って、酔っぱらって手に負えない人を助けに行ってしまうかもしれない。
泳げないのに、溺れている人をめがけて川に飛び込むような感じ。

そんなときは、救急車を呼ぶとか、110番するとか、他の手段があるのですね。

「かくあるべし」が強い人は、どうも状況を正確に把握することが苦手なようです。

「こうしなければならない」「ああしなければならない」で生活していると、当然のことながら「臨機応変」という態度は無理です。

まずは湧いてくる感情をそのまま感じてみる。

自分の「純なこころ」は自然なものであり、価値判断の対象ではない。
ある意味、自分にとっては「絶対」(相対の反対)なのです。

純な心を感じることに慣れてくると「直観」が働くようになり、その場その時、個別の状況に応じた適切な行動がとれるようになってくるのです。


         階段2

隠さない人

以前のブログ「強く、正しく、美しく」のところで、「純なこころ」を感じられるようになってくると、人との垣根がとれ、共感しあえるようになるということを言いました。

「それはなぜ?」「どういうプロセスで?」と疑問に感じるかたがいらっしゃるかもしれません。

森田先生の言葉でヒントになりそうなものがありましたので、以下に引用します。
これは、森田診療所に入院していたかたの日記の記述で、森田先生が入院生に話したことの記録です。


日記
 夜、茶話会で、(森田)先生のお話があった。(中略)
 他人を正しく見ることができないために、神経質患者は、皆、他人は安楽・のんきであるのに、自分一人苦しいと主張する。太陽が動いて、地球は動かないと主張すると同様である。

 自覚ができると、他人も自分も平等であるということがわかる。
 泥棒や放蕩者を見,または煩悶や強迫観念の人を見れば、必ず自分の心の奥にも、それと同様のものが動いているという事がわかる。 
 この平等観のために、自覚した人は、自分のありのままをさらけ出して、少しも恥ずかしくない。

 僕の(森田先生の)家は、座敷から物置の隅々までも、すべてを入院患者のために公開してある。僕の部屋は、まったくスダレをつけないで、寝るときも常に、開け放しにしてある。

 普通の多くの人と比較して見ると、よくわかる。時々夫婦喧嘩を公開してやることも、皆さんの知るところである。
 ただしこれも、人に対して利があって、害にならない範囲においてのみすることで、もし発表して公開して、害を及ぼすようなことは、慎んでこれをしてはならないのである、というようなお話があった。
              (森田正馬全集第4巻158頁「入院患者の日記から」)


森田正馬というのは、「隠さない人」だったのですね。

上記の文章を見るだけでも、森田療法がまったく「価値観」から自由なものであることがわかります。

人間の心に湧いてくるものに関しては、「自然」なものなので価値のつけようがない。

行動に関しては社会的に評価されることもある。しかし、自分でその責任をとる覚悟があれば、自分で選択していけばいい。

そして、神経質者が苦境に陥るのは、他人に本当の自分を隠すだけでなく、自分の心を自分から隠しているからなのかもしれません。

つまり「強く、正しく、美しく」の価値観を持っているということは、心のどこかで、「私は強い(正しい、美しい)人間であるべき!」という信念があり、それ以外の感覚やら欲求やらが湧いてくると、必死になってそれを消そうとするのです。

そしてそんなふうにしているから、強くなく、正しくなく、美しくないことをしている人を見ると、イライラする。
それも、その時の「純なこころ」かもしれませんが、「純なこころ」も変化流動していくものだと思います。


自分の心のなかにその人と同じような部分があると感じて、自覚すれば、「かくあるべし」は少し緩んでくるのではないでしょうか。


たとえば、あなたは疲れているとき、目の前にご老人が立っていても「もう少し座っていたいな」と思ったことはありませんか?

優先席の近くに乗車してしまって、「あ~あ、携帯が使えない」とがっかりしたことはありませんか?

他人にいやなことをされて、無性にその人の悪口が言いたくなったことはありませんか?

それもみんな「純なこころ」です。

それを瞬時に「かくあるべし」で押しつぶさないで、感じてみる。

そうすると、老人が前に立っているのに、電車の席で寝たふりをしている人の気持ちも、わかるようになるかもしれない。
微笑ましくさえ思えるかもしれない。

そうやって、世界と自分とが結びついていくのです。


森田正馬のような心境に到達するのは無理だと思いますし、彼は、自分の治療者としての立場をわきまえたうえで、手本になるように行動している部分もあります。

でも、少しずつ自分の「純なこころ」を感じて、「隠さない人」になっていくと、生きていくのが格段と楽になるのではないでしょうか。


             rose

感じを大切に

昔のお話ですが、森田療法の創始者、森田正馬博士が独自の治療法を展開したのは、第二次大戦がはじまる前の日本です。
その頃の日本は、大戦前夜の閉塞的な社会で、言論の自由はありませんでした。
森田正馬は医師で大学の先生、発言は別に政治的なことではありません。でも講演の会場には特高が配置されていたようで、不都合な発言があると「弁士注意!」と声がかかったそうです。
では、森田博士は何を言って、特高に目をつけられたのでしょうか。

それはなんと「人間には生きたいという欲望がある」という意味のことです。
現在の私たちが聞けば、当たり前のことです。
私たちの大部分は死にたくないし、できるだけ長く生きていたい。それもよりよい形で。

ところが、軍国主義の世の中では「生きたい」などと言ってはいけない。
国家のためには死をもいとわない人間が求められたのです。
それで皆、内心はどうであれ、軍国主義に同調するようにふるまい、戦時下を生き延びていたわけです。

こんなふうに人間にとって、根源的な欲求、感じが何かの「思想・主義」によって圧殺されてしまう社会があった(多分世界のどこかには今もある)なんて、恐ろしいことですね。

でもひるがえって考えると、「生きたい」という言葉は、当たり前であるがゆえに力強い言葉です。
理屈、論理を超越した人間の根源的欲求です。
(フロイトは死の欲動ということも考えました。あるいは、それもあるのかもしれません)
そしてこの根源的な欲求をベースにいろいろな欲求が派生し、そこからまた感情が生まれてきます。

欲求は人間に自然に備わったものであり、感情も感じもまた自然発生的なものです。
人間社会の価値判断の外にあるものです。
否定することも押しつぶすこともできません。

ところが人間は、ときとしてこれを否定しようとします。ちょうど軍国主義が「生きたい」という当たり前の欲求を否定したように。


私の例をあげましょう。
私は、昔から非常に原子力発電にこわさを感じていました。それで今回の原発事故はどうにも恐ろしくてたまらなかった。身体の調子を崩すくらいでした。
大げさですが、まるで地球がこわれてしまうくらいの感覚がありました。
笑われるかもしれませんが、それが私の感じであり、心の事実です。

しかし、これが「考え」になるとどうでしょう。「でも、日本の電気は原発がなければまかなえないのだろうし・・・」とか、「電力会社は安全だと言っているし」とか、「地元の雇用になっているし」とか、いろいろと考えて自分を納得させようとするかもしれません。

そういう論理で、他人を納得させようとする人もいます。
人が人を納得させるには論理で攻めるしかないと、私たちはそう教わってきたのですね。

論理ではどんなことを構築することも可能です。
議論をしているとわかると思うのですが、論理で論理を言いまかすことは簡単だし、それが事実とかけ離れた机上の論理だったらなおさらです。
どれだけ言葉を駆使できるかで、議論の勝ち負けは決まります。
一番強いのは事実にもとづいた論理ですが、大きな議論になると、このグローバルな世界で何が本当のことなのか、そのあたりもあやふやだということが起こります。


「感じ」と「考え」は違うのです。
いくら頭や論理で納得しても、感じが納得しないということは毎日いくらでも経験していると思います。
感じや感情は私たちの根源的なところに根ざしています。
いくら不愉快な感じであっても、それは心の事実なので、大切なものです。不愉快でも認めてあげないといけない。

でも「感じ」や「感情」だけ尊重すればいいというわけでもありません。
人間には「理性」もあります。
森田正馬は、人間は「感じ」と「理性」を調和させながら生きていると言いました。

相手の言葉にムッとした。しかしいくら何でもここで怒ったらまずいだろうと理性が判断して対応を考える。
その逆に、ここで言っておこうと理性が判断する場合もあります。
臨機応変です。
そういうことを私たちは日々、意識せずに行っているわけです。
その「感じ」と「理性」が臨機に動き、調和した状態で私たちは日々生活しています。


ところが感じが暴走することもありますが、理性が暴走することもあります。
冷静に考えればこうなのだから、その「こわさ」はおかしい・・・そういうことを言う人が時々います。
しかし、こわいものはこわい。
不安なものは不安。
いくら理性的に説得されても、それを否定することはできません。


こうやって自分のなかで、何かの違和感があっても、論理や理屈で自分自身を説得してしまおうとする人もいます。
そういうことを続けていくと、いつしか人間は自分の本当の感じを見失ってしまうこともあるでしょう。


感じを押し殺さず、自分のなかでしっかり受け止めることを、私たちはおろそかにしてはいけないと思います。
感じや欲求こそが私たちの根源的な「生」に根ざしたものであり、一番自然なものであり、良いも悪いもない、真実なのですから。
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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