カウンセリングでは、強迫タイプのかたの心の動きをお聞きすることがままあります。
とても独特な考えかたで自分を抑制しているかたが殆どです。
強迫神経症のかたは、あとで「イヤな感情」を味わわないために、今の自分の心や行動をコントロールしようとします。
手を洗ったあとに「汚い」感覚が残るのはイヤだから、今十分に洗っとこう。
あとでカギをきちんと閉めたか不安になるのがイヤだから、今カギを確認しとこう。
とにかく将来(あるいは近い将来)こわいことが起こるのがイヤだから、自分だけの儀式をしておこう(縁起恐怖)。
これは神経症的な行動のみでなく、どうも日常的にいろいろなところにあって、積極的な行動を滞らせているようなのです。
将来イヤな感じを味わうことがないよう、現在の様々な行動を抑制しているかたが多いようです。
それが行動のみでなく、自分の気持ちにも向かっている。
期待すると、あとでがっかりするから、あまり期待しないようにしよう。
このレストランに行きたいけれど、期待していたのと違うとショックだから行かないでおこう。
旅行に行きたいけれど、現地の景色が思ったほどでないと、出費が無駄になるからやめとこう。
期待はずれになったり、がっかりすることがイヤで、それをやめてしまう。
特徴的なのは、それが自分の「感情」に向かっていることです。
なにがなんでも「イヤな思い」をするのを避けたい。
たとえば「あまり糖分をとると身体に悪いから控えよう」ということは、普通に聞く言葉です。
けれど「あのチームのファンになりたいけれど、優勝しないとがっかりするからやめておこう」という言葉は、どこか不思議な気がします。
自分の未来のまた未来まで感情をコントロールしようとしているようですね。
もうひとつ不思議なのは、コントロールしようとするのは、必ず「イヤな感情」であることです。
私は時々、週の仕事が全部終わった休日前、浮き浮きするような開放感を味わいます。
「仕事は片付いた。さぁ、自由時間だ」という感じです。
妙な言い方ですが、この解放感があるから仕事を続けていたいとさえ思います。
毎日が日曜日だったら、この快感は味わえません。
他の人だったら、「ビールがうまくなるから運動しとこう」ということになるかもしれません。
この場合、「快」の感情を味わいたくて、ちょっと我慢して何かをするわけです。
どうして強迫傾向の人は「不快」にだけこだわって、あえて「快い感情」を捨てるのでしょう?
そのチームのファンになったら、観戦が楽しいだろうに、負けたら「イヤ」ということを予期して、その楽しさを捨てる。
これでは、人生の様々な楽しさ(快)を自分で放棄しているようなものです。
原理的に言えば、感情をコントロールしようとしたことで「精神交互作用」を起こし、神経症(不安障害)になるというのが、森田療法の病因論ですが、この「感情」は必ず「不快な感情」です。
不安が強いから不快な感情に着目するのでしょうか?
もしかしたら「快」の感情を過剰に追求しコントロールしようとしていったら「依存症」的になるのかもしれません。
だから「快」を追求するのが、絶対的にいいとは言えません。
(強迫行為にも「快」を追求する側面がないとは言えません)
「快」に執着するか、「不快」に執着するかで、性格も生き方もずいぶん変わってくるのですね。
それはただ生まれつきの性格からきているものなのか?
雑な論考ですみません。
また考えてみたいと思います。
以前に書きましたが、神経質の人たちは、なかなか「素直」になれないという面があります。
それはなぜかなと考えてみました。
実は、カウンセリングをしていても、神経症のかたがたと、他のお悩みのかたがたと、接するときの感触は微妙に違います。
もちろん性格が違うので、当然なのですが、神経症のかたにはなかなか言葉が入っていかない(感覚的な表現ですが)気がします。
ですから神経症のかたへの対応に慣れていて、他の性格のかたと相対したときに、あまりにこちらの言葉がすんなりと受け入れられるのにとまどうことがあります。
お豆腐に手を突っ込んでしまった感じ。
そのときには、「しまった」と瞬時に反省することになります。
相手を見極めないといけないのです。
それがなぜなのか。
つまり神経質性格のかたは「精神の拮抗作用」が、他の性格のかたより強いのです。
「精神の拮抗作用」というのは、森田療法独自の用語かもしれません。
何かを考えるとき(あるいは感じるとき)瞬時に、それとはまったく反対のことを考える傾向があるのです。
これは誰にでもあることなのですが、神経質は特にそれが強いのかもしれません。
「拮抗作用」が少ないと、相手の言葉を額面通りに受け取って詐欺にあうこともある。
拮抗作用があることで、盲信せずに、理性的な思考ができることになるのかもしれません。
それにしてもやはり、何でもほどほどでないと苦しいことがあります。
人にほめられた場合、素直に「うれしい!」と言えればいいのですが、かならず「いえ、そんなことありません」と否定する。
あるいは否定しないまでも、「これは絶対にお世辞に違いない」と心で思う。
それは拮抗作用で他のことを瞬時に思ってしまうからです。
何か新しい考え方に接したときに、「そうか」と思ったそばから「本当にそうかな」と思う。
「これ素敵だな」と思った瞬間に、「いや、他にもいいものはあるだろう」と思う。
対人関係においては、人に何かを勧められても、「なるほど、そんなにいいものなんだ。自分もそれを試してみよう」とは、あまりならない。
特に対人関係では、神経質は損得勘定、負け嫌いなどの要素もあって、なかなか相手の言うことをそのまま受け入れられない。
すぐに「本当かな?」と疑うし、素直に受け入れると負けたような気がして結果的に相手の言葉をスルーしてしまう。
「自分は疑い深い」「誰も信じられない」と言うかたが神経質には多いようです。
そうやって他人を信じられないということは、結局は自分を信じられないということに通じます。
何か思ったり、感じたりしても、拮抗作用でそれを否定して別のことを考える。
それをやっていると、自分が本当は何を感じ、考えているのか、あやふやになってくる。
自分があやふやだと、今度は外側の「皆がいいと言っているもの」や「有名なもの」「権威のあるもの」を頼るようになります。
そういうものを基準にしがちな面もあります。
(昔の森田療法は権威的と言われたことがあったのですが、以上のことを考えると、権威的であることが効果的な面もあったのかもしれません。時代は変わっているので、現代ではあまりに権威的だとかえって反発されることになります)
別に「精神の拮抗作用」が悪いわけではなく、それはただの自然な事実です。
ただあまりに強すぎる場合、やはり最初の感じ(純なこころ)をとらえる必要が出てくるのではないかと思います。
ほめられたら、最初の「うれしい」を感じ、ただそれだけにとどめる。
信用できそうな人が何か言ったら「なるほど」といったん受け止める。
反発は自然にあとから出てくるのですから、それは出てくるにまかせて、最初に聞いたことをまずは心にとどめる。
「精神の拮抗作用」は、神経質症状の形成にかなりの役割を果たしているような気がします。
またの機会に、もっと考察してみたいと思います。
神経質のかたは、「イヤ」とか「嫌い」とかいう感覚に悩まされることが多いようです。
イヤならイヤ、嫌いなら嫌いでいいのですが、どうもこの感覚が強烈すぎて、嫌っている側なのに、自分のほうが苦しんでいるような感じになります。
強迫神経症のかたにとても多いお悩みなので、書いてしまいますが、周囲(職場とか仲間とか)の「誰か」のことがとても気になってイライラするというかたがいます。
その「誰か」にハラスメントをされたとか、嫌なことをされたとか、それなら嫌いになるのもわかります。
それは当然のことだと思います。
ところが別に何の利害関係もない人なのに、嫌いなのだそうです。
それも、ちょっと「イヤ」どころではなく、その人が部屋に入ってくるだけでも不愉快になるという強烈な嫌悪感。
なぜなのかお聞きすると、その人の話し方がイヤ、咳払いがイヤ、笑い方がイヤなどの理由をあげられます。
わからないでもない。
けれど、それだけでそこまで人が嫌いになるものだろうかと、不思議な気にもなります。
あるいは人間だけでなく、嫌いなもの、苦手なものがテレビに映るだけで、チャンネルを変えてしまう、テレビを消す。
そんなことがあるので、面白いドラマやいい映画を見られなかったりします。
たとえば、手術シーンがあるから、医療ドラマは見られないとか・・・。
誰にでもあることかもしれませんが、そういうことが極端な気がします。
そうなってくると、それがどんどん広がり、イヤなものから逃げるために自分の知識の範囲や生活範囲を狭めたりすることになります。
症状だって、もとはそういうことから始まっているのですが、症状に限らず、生活全般にそういう傾向があります。
お話をお聞きしていると、その嫌悪感は、どうもちょっとやそっとのものではなさそう。
鳥肌が立つくらいの嫌悪感とおっしゃるかたもいます。
つまりはその嫌悪感のために、自分が一番苦しむのですね。
なぜそうなるのでしょう。
最初にちょっと感じた「イヤさ」は、多分他の人と同じ程度なのだと思います。
ところが、(これは無意識のうちに行われることですが)その「イヤさ」に気づき、そしてその不快感を避けようとし、そのために精神交互作用が起きて、ますますそのイヤさを増幅させてしまったのだと思います。
神経質のかたの感覚の鋭敏さには、こういう側面があります。
かといって楽しい感覚が増幅されるかどうかはわかりません。
イヤな感じだからこそ、そこに注目してしまうのでしょう。
では、どうしたらいいのか? お決まりの問いです。(笑)
多分その答えは前回のブログに書いたことと同じになるかもしれません。
何においても「全体」「目的」を見る努力をしてみる。
その人の声が嫌いだけれど、職場でその人とはどういう目的で接しているのか。
その人は職場でどんな役割の人なのか。
ちょっと苦手なものが出てくるけれど、この映画のテーマは何なのか?
その部分さえ我慢すれば、結構面白い映画だったり、心に残る映画だったりすることもあるのです。
イヤなものを避けてばかりいると、どんどん世界が狭くなります。
神経質の人には苦手なことかもしれませんが、ちょっとは我慢して、あえて全体を見る、目的を見る、テーマを見ていくと、今までよりもう少し楽な気持ちでいられるようになるかもしれません。
相談室からのスカイツリーと満月の眺め
神経質性格の特徴のひとつは、「弱力性」と「強力性」とが共存していることです。
森田正馬は、「弱力性と強力性」という言葉を使っていなかったと思います。これを使い始めたのは高良先生かと思いましたが「森田療法のすすめ」(高良武久著)のなかには見つけられませんでした。
もちろん森田正馬は、それと同じような意味のことを、対人恐怖を定義する言葉として述べています。
「恥ずかしがることをもって自らふがいないことと考え、恥ずかしがらないようにと苦心する負け惜しみの意地張り根性である」
つまりここでは「恥ずかしがる」のが弱力性です。
受動的で内向的、過敏な性格傾向ですね。
しかし神経質はそれだけではすまない。その「恥ずかしがる」ことを悔しく思い、それを他人に見せないようにして、むしろ大胆な性格を装います。
これが強力性です。強気で、優越欲があり、立派に見せたいという部分です。
つまりこの弱力性と強力性のぶつかり合いが激しいから、神経症の葛藤が生まれてくるのでしょう。
確かに、私が今までお会いしてきた神経質の方々は、一見物静かでありながら、強烈に負け嫌いのかたが殆どでした。
内心負け嫌いなのに、外面では「おとなしそう」に見える、というのも気に入らないポイントのようです。
ちなみに、ほとんどの神経質のかたは「おとなしい」と形容されることを死ぬほど嫌います。
このあたりも、強気な自分が弱気に見えるということを悔しいと思う心情の表れなのでしょう。
さて、弱力性と強力性がせめぎあった性格を、ではどうしたらいいのかということですが、森田療法的結論で言うと、どうする必要もない。
自分のなかにあるものは「そのまま」でいるしかしかたがない。
そしてまた、「自分のなかにあるものは生かす」という方向性も大事です。
強力性があり、負け嫌いならば、それは努力して成果をあげる原動力になるでしょう。
弱力性があり、過敏であることは、危険を避ける、慎重であるという利点になります。
だから、そのままでいいのです。
けれど、自分に優越欲があり、そのため人との比較でいつも苦しくなるというかたがいる。
何をするにも不安で、気の休まる暇がない、と嘆く方もいるでしょう。
大丈夫。
人間は変化します。
経験を積み、そのなかで自分の体力や能力の「あるがまま」を知る。
そして覚悟して「そのままの自分」から出発しようと思えるようになれば、もはや人との比較で一喜一憂することもなくなります。
むしろ、自分の変化や、外側の物事のなりゆきのほうに興味が湧いてくる。
無理して優越欲を満たす必要はなくなって、自分のやりたいことができればそれでいいと思えるようになる。
また経験を積んでいくと、今までいろいろなことが不安だったけれど、だんだん「できること」が多くなっていく。
不安がまったくなくなることは、この人生ではあり得ないけれど、でも知識や経験が不安を軽減してくれることも多いのです。
弱力性や強力性は、自分のなかに残るけれど、そんなことは問題にならない世界が開けてくる。
ただ、現在の葛藤はそのままに、欲望を自覚して「今、ここ」を生きていればいいのです。
森田療法は誤解されやすいと、よく言われます。
森田療法を誤解したまま嫌いになる人の話も聞きます。
確かに森田療法は誤解されやすいと、私も思います。
カウンセリングの過程でも、最初の「まず身体を動かしましょう」的なところを森田療法の全体と思ったまま中断してしまう人もいて、なかなか「感情」に対する癒しや平等観までたどり着かない。(これには自己洞察が伴うことも必要なので、むずかしいですね)
森田カウンセリングの難しさを感じるところです。
誤解されやすい要素のひとつに、森田療法の考えを「かくあるべし」でとらえてしまいがちな人が多いからということもできます。
森田正馬は自分の治療法をあまり理論的に語りませんでした。
それに比べると、海外の新しい認知行動療法などは、実に微に入り細にわたり理論を言葉にし、マニュアル化しています。
森田全集第5巻を読むと、しかし森田自身は極力、理論化(理屈に偏る)ことを避けているように読み取れます。
それは、彼が「神経質性格」の特徴を熟知していたからだと思われます。
神経質は「言葉」「観念」が先行する人たちです。
神経症の人が、必ず「治るにはどうしたらいいんですか?」と最初に問うのも、きっと「一番早くて近い道(マニュアルや公式)」がどこかにあるはずで、それに従っていけば治るはずだという考え方があるからでしょう。
この場合、自分の事実を真摯に見つめて、人生を再構築していこうなどという考えがないことが多い。
ですから、何か自分に納得できる言葉が見つかると「森田では~~すべきなんだ」と解釈して、それをひとつのポリシーのようにして遵守する。
それを仮に「かくあるべし」変換と呼んでみましょう。
もともと「かくあるべし」に悩まされて症状に至ったはずなのに、森田療法を学んで新たな「かくあるべし」が積み重なっていくという事態になります。
ルールを守るとか、決まったことに従うというのは得意なので、「苦しくても行動しなくてはならない」「とにかく努力しなくてはならない」「欲望を見つけなくてはならない」という「かくあるべし」に従って、どんどん苦しくなっていく。
これを森田正馬は「教条」と言いました。
この教条化を防ぐために、彼は比喩や具体例を多用して、真髄を伝えようとしたのです。
「~~しなければならない」というのは、森田療法ではありません。
大事なのは、行動してみたときに生まれる自分のなかの生き生きした感情、新しい発見、自分の心が動いていくこと。
それはマニュアルのように「こうしたら、こうなる」というものではありません。
予期せず、自然に自分のなかに生まれてくるもの。
意図して生みだすものでもありません。
「こうしなくてはならない」という形だけを追うのではなく、いいかげんでもいいから試してみて、内側に湧いてくるものに気づく。
森田療法はもっと自由なものであるはず。
森田を学んでいるかたは、自分のなかの「かくあるべし変換」がないかどうか、一度洗い直してみるのもいいかもしれません。
パンダツリー、上野松坂屋