「自慢する」ということ
ずっと以前、ある対人恐怖の男性が、今さっき席を立って帰って行った人のことを、強い調子で「あいつ、自慢しやがって!」と吐き捨てるように言ったのを目にしました。
この時は、この人にとって「自慢する」というのはそこまで「してはいけない」ことなのだとびっくりしました。
きっとこの人は、自分も自慢したいのにそれを「はしたない」と思って我慢しているので、相手が臆面もなく自慢話をすることが許せなかったのでしょう。
これは「投影」という防衛機制だと思います。
自分が我慢していることを相手がすると、なぜか人間は怒りを感じてしまうものなのです。
さて、こんなふうに日本の社会では堂々と自慢するのは、洗練されていないこととされているようです。
ここでいつも疑問に感じるのは、謙虚さが美徳である社会のなかで、人は自分のことをどうやってアピールしていくのか、ということです。
よくアメリカのテレビドラマなどでは、職場のボスに向かって「自分を昇進させてください。自分にはこれだけの功績があって・・」などと掛け合う場面が出てきます。
これを日本でやったらどうなるでしょう?
ボスはとまどうでしょうし、同僚は「アイツ、空気が読めない」と変人扱いされるでしょう。
同じようにアメリカの人の「職務経歴書」のようなものを見たことがあります。
あまりに詳細で、「私ならこんなことまで書かないわ」という種類の自分の実績が羅列されていました。
私はやはり日本に育っているので「謙虚であること」が行動規範になっているところがあり、初めて目にしたときには驚きました。
今では日本でもこういう職務経歴書が一般的になっているようです。
そうでなければその人をきちんと評価することはできません。
しかし、歴史的に見ると、日本の社会のなかでは結局、「他人によって評価される」ことでしか評価されなかったように思うのです。
「他人による評価」あるいは「地位、役職、名誉」による評価です。
そうすると結局、人は「他者の視線」を強く意識することになる。
他の人に良く思われることが、とても重要になってくるということです。
「他の人がどう思うか」ということが評価に大きな影響を与えるということなら、人の視線を意識するのは、自然なことになります。
よくネットニュースやテレビ番組などで、「外国人は日本のここを良いと思っている」というタイトルがありますが、あれを見て恥ずかしいと思うのは、私だけでしょうか?
自分でちゃんと「ここがいい!」と言えばいいのに、なぜ外側の人の評価であんなにも喜ぶのでしょう。
(私だって少しは嬉しい気もしますが、「ね、ね、いいでしょ?」的な押し付けがましさは、いただけません)
他の文化のことは知らないのですが、日本社会では自分自身による自分の評価、自分の価値観による他者への評価、というものがあまり力を持たなかった社会のようです。
これは今の同調社会ともつながってきますね。
他の人が「いい」というものなら、安心して「いい」と言えるわけです。
文化というものは、深いところに根差しているものなので、ここでどうこうは言えません。
しかし時として、「なぜそんなに自分を卑下してばかりいるの? 少しは自慢してもいいんじゃない?」と言いたくなる時があります。
(もしかしたらSNSでの発信やオタクと言われる人たちの趣味はもうそこを脱しているのかもしれませんが)
洗練された「自慢(自己アピール)」は「してもいい」ことだし、それは自分の自己肯定感を上げていきます。
他人の視線が自分を決定するような生き方は、もうやめてもいいのではないでしょうか。
この時は、この人にとって「自慢する」というのはそこまで「してはいけない」ことなのだとびっくりしました。
きっとこの人は、自分も自慢したいのにそれを「はしたない」と思って我慢しているので、相手が臆面もなく自慢話をすることが許せなかったのでしょう。
これは「投影」という防衛機制だと思います。
自分が我慢していることを相手がすると、なぜか人間は怒りを感じてしまうものなのです。
さて、こんなふうに日本の社会では堂々と自慢するのは、洗練されていないこととされているようです。
ここでいつも疑問に感じるのは、謙虚さが美徳である社会のなかで、人は自分のことをどうやってアピールしていくのか、ということです。
よくアメリカのテレビドラマなどでは、職場のボスに向かって「自分を昇進させてください。自分にはこれだけの功績があって・・」などと掛け合う場面が出てきます。
これを日本でやったらどうなるでしょう?
ボスはとまどうでしょうし、同僚は「アイツ、空気が読めない」と変人扱いされるでしょう。
同じようにアメリカの人の「職務経歴書」のようなものを見たことがあります。
あまりに詳細で、「私ならこんなことまで書かないわ」という種類の自分の実績が羅列されていました。
私はやはり日本に育っているので「謙虚であること」が行動規範になっているところがあり、初めて目にしたときには驚きました。
今では日本でもこういう職務経歴書が一般的になっているようです。
そうでなければその人をきちんと評価することはできません。
しかし、歴史的に見ると、日本の社会のなかでは結局、「他人によって評価される」ことでしか評価されなかったように思うのです。
「他人による評価」あるいは「地位、役職、名誉」による評価です。
そうすると結局、人は「他者の視線」を強く意識することになる。
他の人に良く思われることが、とても重要になってくるということです。
「他の人がどう思うか」ということが評価に大きな影響を与えるということなら、人の視線を意識するのは、自然なことになります。
よくネットニュースやテレビ番組などで、「外国人は日本のここを良いと思っている」というタイトルがありますが、あれを見て恥ずかしいと思うのは、私だけでしょうか?
自分でちゃんと「ここがいい!」と言えばいいのに、なぜ外側の人の評価であんなにも喜ぶのでしょう。
(私だって少しは嬉しい気もしますが、「ね、ね、いいでしょ?」的な押し付けがましさは、いただけません)
他の文化のことは知らないのですが、日本社会では自分自身による自分の評価、自分の価値観による他者への評価、というものがあまり力を持たなかった社会のようです。
これは今の同調社会ともつながってきますね。
他の人が「いい」というものなら、安心して「いい」と言えるわけです。
文化というものは、深いところに根差しているものなので、ここでどうこうは言えません。
しかし時として、「なぜそんなに自分を卑下してばかりいるの? 少しは自慢してもいいんじゃない?」と言いたくなる時があります。
(もしかしたらSNSでの発信やオタクと言われる人たちの趣味はもうそこを脱しているのかもしれませんが)
洗練された「自慢(自己アピール)」は「してもいい」ことだし、それは自分の自己肯定感を上げていきます。
他人の視線が自分を決定するような生き方は、もうやめてもいいのではないでしょうか。
T.H氏撮影