fc2ブログ

「森田教」にならないために

今年はお正月から暗いニュースばかりでした。
能登地震で被害に遭われたかた、今も避難中のかたがたにお見舞い申し上げます。
私にできることは義援金寄付ぐらいなのですが、寒い中電気も水もなく不自由な生活をなさっているかたがたがまだ多いとか。一刻も早くインフラ回復してほしいですね。

さて気を取り直して、ずっと書こうと思っていた少し刺激的なテーマを書いていこうかと思います。

私の今までの体験では、森田療法は、治療者の間でも悩んでいる人の間でも、なんとなく敬遠される雰囲気があるようです。
日本人は海外の治療法のほうが好き。
あるいは森田療法は名前からして古臭そうでなんだか胡散臭い。
そういうことも原因としてあるでしょう。

しかしもうひとつ、忌憚なく言わせてもらえば、森田療法をとりまく一部の人たちの雰囲気に、若干の違和感があるという意見もあるのです。
傾倒しすぎというか、「森田教」を信仰しているような雰囲気があってイヤだという感想も聞きます。

確かに、森田療法は精神療法であって宗教ではないのに、何か宗教的な匂いがしてしまう。
なぜなのでしょう。

たとえばこんなことがあります。
あるかたは、森田療法を学んだクリスチャンなのですが、キリスト教についてのブログを書くときに「これは森田療法の考え方と一見異なるかもしれませんが・・」などという一言を入れます。
けれど、森田療法は宗教ではないのですから、各々のかたの信仰とはまったく別物です。

あるいはこういう例もあります。
森田療法を実践なさっているかたに、たとえば「マインドフルネスの実践も役に立ちますよ」といっても、殆んど興味を示さない。
他の考え方、精神療法、人生論、ハウツーものにもあまり興味が持てない人が多い。
意識的ではありませんが、どこか森田療法を学んだら、それでこれからの生き方すべてをカバーできるような考えを持ってしまうようです。

繰り返しますが、森田療法はただの精神療法です。
それもオリジナルは「不安障害」に特化した療法です。
森田博士自身は弟子がヒステリー(今の転換性障害、解離性障害)に森田療法を応用しようとしたときに、それを許可しませんでした。
そして彼は言っています。
「私にはごく限られたことしかできません」
もちろん現在では、いろいろな症状に森田療法の応用がされています。
ただ森田自身は、自分の治療法の応用範囲を厳しく限定していたのです。
科学者の態度です。

これだけ古い治療法が現代にまで活用されているのは、この療法が(推論でなく)人間の心の事実に基づいた(つまり科学的な)方法だからです。
そしてまた、森田博士が生まれた時代は、明治政府が近代化という名のもとに日本の土俗的なものを薙ぎ払っていた時代です。「前へ前へ」の時代です。
そういう時代背景の限界も考えて学ぶ必要があります。

生き方・考え方の基盤は森田で学べます。
しかし当然のことながら、人生の問題がすべて森田で解決できると思うのは錯覚でしょう。

不安障害が落ち着いたら、今まで自分のことばかりにかまけて学んでこなかった人間関係の機微、コミュニケーションのしかた、成功哲学、ライフハック本など何にでも手を出して学べばいい。
哲学、アート、芸術、旅行などの体験で自分の幅を広げていくことも楽しいことです。
そうすれば、自分の豊かさにもつながり、周りから見ても魅力的な人間になっていくと思います。

森田博士はこんなことも言っています。
「自分の苦痛を客観的に取り扱うようになればよい、歌、文章、心理研究、皆それである」
「この主観を離れ、先生を思わなくなった時、真の健康なる独立心ができる」
(注:「根岸症例」の前半、森田博士が根岸青年に言った言葉)
(森田正馬全集第一巻「神経質及神経衰弱症の療法」416頁)

5240

礫川後楽園

今年もお世話になりました

あっという間に今年最後の日になりました。

今年はコロナ明けのせいか、何かいろいろ気ぜわしく過ごした気がします。
直接ご来室なさるかたも増えました。
学会なども、今までオンラインだったのが、以前通りの皆が集まる開催形式に戻ったり・・。
外出して人と会うことも増えました。

今年はカナダ・バンクーバーで国際森田療法学会が開催されました。
残念ながらバンクーバーまでは行けませんでしたが、オンラインで参加、発表させていただきました。
そうやって森田療法を考える機会を与えられ、今年森田について個人的に、改めて強く感じたことがあります。
当たり前と言われるかもしれませんが、森田療法って徹底的に「事実」に基づいているんですね。

「事実」と言っても、非常にベタな事実です。
「私は身長〇センチで、人前で固くなる」という例を森田はあげています。
自分としてはこんなに背が低いのは心細い、だからせめてもう少し背が高いと思いたい。
あるいはこんなに気が小さいと認めるのは浮かぶ瀬がないので、せめて朗らかにふるまえば、いいのかもしれないと思う。(全集5-600頁より意訳)

つまりここでいう「事実」とは、自分ではどうすることもできないもの。
自分ではコントロール不可能なものなのです。

コントロール不可能なものは、そのまま認めるしかない。
しかし、人間として限られた範囲ですが、コントロール可能なものがある。
それは「動き」「行動」です。
だから人間はそこに注力していくしかない。

たとえば、「前向きな行動をしていれば、気持ちも前向きになりますよ!」と言うのも、厳密に言えば、違いますよね。
前向きな行動はできるけれど、それで気持ちが前向きになるとは限らない。
よく読むと、森田はそんなことは言っていない。
どんな結果になるかわからないけれど、私たちにできるのは、行動していくことだけ。
それを森田は「努力即幸福」という言葉で表しました。
結果はどうなるかわからないけれど、目標に向かって努力していくことが、私たちのできることであり、その努力のなかにこそ生きている感覚がある。

試験には落ちるかもしれない。(これは自分のコントロールの範囲外)
しかし合格しようと一生懸命努力したことは、自分の人生に残るのです。

「自然に服従し、境遇に柔順なれ」もそういうことかもしれません。
自分のコントロールできないものについてはそのままに、自分の周囲の状況には臨機応変に対応していく。

ここで重要なのは、何がコントロール可能で、何が不可能かということです。
そこを見極めることが大事。
(何もかもコントロール不可能だから、すべてあきらめる、ということではありませんよ!)

これはちょうど、AA(アルコホーリクス・アノニマス)で唱えられる「平安の祈り」と同じです。

「神様、私にお与えください
自分に変えられないものを、受け容れる落ち着きを
変えられるものは、変えてゆく勇気を
そして、二つのものを見分ける賢さを」


今年もありがとうございました!

5322


雑司ヶ谷・鬼子母神境内

目指すところが違う

時々対人恐怖のかたのお話をお聞きしていて、あれ?と思うことがあります。

例えば「親しい友人ができない」「皆は楽しそうに集まっているのに、私だけひとり」。
そんな訴えをよく聞きます。
そういう言葉を聞くと「じゃ、こういうふうにしてみたら?」と言いたくなるのが、人の常。
こちらからそういうお話も、もちろんします。

けれど、よく考えてみると、これは微妙に違うような気がします。
「人と仲良くなる」「友人をたくさん作る」のが大目標になっている。
普通、人は「友人を作ろう」と思って人と付き合うのではないような気がします。

友人や親しい人は、社会生活をしていると「自然に」できるものではないでしょうか。

そういうと、対人恐怖のかたは「私は自然に友人ができたことなんかない」と絶望するかもしれません。
それは、あまりに「作ろう」と意識しすぎるからかもしれませんね。
そういう考え方になると、どうも主体は「自分」になってくるようです。

つまり、自分が仲間になろう、自分の友人を獲得しよう、そういう指向です。

あなたは何のために「その場」にいるのでしょうね?
仕事をスムーズに進めるために職場にいるのでしょうし、グループにいるときは人の話を聞くためです。
皆が仕事や、相手の話に集中しているときに、自分だけ自分のことばかり考えている。
そうしたら、人と「一緒にいる」感覚がなくなるのも当然です。

つまり、その場での「目指すところ」が違うのですね。
仕事は仕事の遂行のためにあるのであって、自分のためにあるのではありません。
集いにはその場の目的があり、関心を向けあうという雰囲気があり、必ずしも自分のためにあるわけではありません。
他の人と一緒に「その場での目標」に目を向けたら、おのずから、人と仲良くなれるし、人との一体感も経験できるのです。

「目指すところが違う」のは、対人恐怖の人にだけ当てはまるわけではありません。
たとえば強迫神経症にしても、こだわっているところは、実はまったく見当はずれなのです。

自分が安心して楽しく幸せに暮らしたい、仕事で活躍したい、もっといい仕事をしてステップアップしたい。
それなのに、見当違いのところが気になって、それにとらわれてしまった。
その根底には(あるいは発端には)人生に対する向上欲求、幸福追求の欲求があるのです。
それがなければ、神経症(不安障害)にはなりませんから。

今、自分が一生懸命解決しようと努力している問題は、少しピントがずれたところを目指しているのかもしれない。
とりあえず今現在の自分の環境、境遇のなかでの役割を果たし、その目的を周囲と共有することで人との融和も達成されるし、果たした仕事の達成感も得られる。

そのプロセスのなかで、神経症的な悩みは自然に消えてゆくのだと思います。

5026

「変」って何?

面白い新聞記事を読みました。
最近の話です。

アフリカで開催されたとある会議。
この会議の主催国は日本だったそうです。

各国の代表団がいるなか、日本代表団だけが全員マスクをしていたそうです。
そしてそれを見たまわりの人たちは笑い、スマホで写真を撮る人もいたとか。
(この記事のテーマは他にあって、日本の影響力の低下だったと思いますが。)

さて、これを読んであなたはどう感じたでしょうか?
そしてご自身だったらどうしますか?

神経症になるかたたちは、自分が「変」であることを極度に恐れています。
こんなことを気にしているのは、世界中で自分一人だけだと思い、その自分の特殊さに恐怖するのです。

ですから、なるべく「変」でないように振舞おうと思い、かえって緊張し、不自然な態度になってしまうのです。

神経質の人たちの集団で、よく囁かれる陰口は「あの人、変よね」というもの。
同質であることで安心するので、ちょっとでも違う人は「変」という、自分が一番言われたくない表現でけなす。

ところが、この「変」であることを嫌う心性というのは、実は「特別でありたい」という心性と同根です(一元論ですよね)。
ですから、本当は(人から認められる形で)目立ちたいという気持ちもあるのです。

さて、変か変でないかという価値基準は、その属する集団によって違ってきます。
「自分は変」と感じさせる多様な人のいる集団では緊張し、同質の集団ではリラックスします。

ですから、自然と行動は内向きになりますね。

けれど、本当はそんな価値観から自由になりたいと思っている人が多いのではないでしょうか?
でも、どうしていいかわからない。

ここでちょっと考えてみましょう。
森田正馬は生前、人から見たら「変」と思われることをした人でした。
もちろん、その行動は奇矯であっても、「合理性」に基づいたものでした。
医学博士であり、大学教授なのに、こんなことする?――という類のことです。
ただ、なんだか「あえてやっていた感」も漂っています。
入院生に見せるという目的もあったのではないかと、私は思っています。

自分の行動を他人の価値観や、他人の目にゆだねないという覚悟でしょう。
それを表した森田の言葉に「唯我独尊」というものがあります。
結構むずかしい言葉だと思いますし、いろいろな解釈ができそうです。
「自分の思惑を人と比較する必要は少しもない」(全集5巻292頁)
つまりどんなことを思い悩んでも、迷っても、それでいい。そこから自分独自のものが生まれてくる、ということでしょうか。
意訳すれば、「自分の頭で考えましょう」とも言えます。

ここで冒頭のマスク集団の話にかえりましょう。
彼らはその後、どんなふうにふるまったのでしょうね? 
コロナの状況をふまえて、あるいは自分の帰属する集団に忠実であるためにマスクをし続けたのか、笑われるのがいやではずしたか?
一方で、自分たちと違う集団のことを「変だから」と笑ったり、写真をとったりすることも、やはり「変である」ことにとらわれている行動ではないかなと思うのです。

白い彼岸花


白い彼岸花、変種でも美しい

日常的な「思想の矛盾」

どなたか調べたところによると、森田正馬全集5巻(形外会の記録)で、森田自身が一番使用している森田用語は「思想の矛盾」なのだそうです。

それだけ、森田にとっては大切なワードだったんですね。

私もこのところ、この「思想の矛盾」を自覚することが、「神経質性格の陶冶」に必須のことなのではないかと思うようになってきました。

「陶冶」というのは、その性格を成熟したものにしていくという意味だと思います。
たとえ症状を克服しても、それですべてOKというわけではない。
長い間、ひとつのことに集中して、自分のことにばかりかまけていたわけですから、知らないこと、気づいていないこと、社会に適応できていないことなど多々あるという自覚は必要です。

その一つが、「思想の矛盾」です。
「かくあるべし」とも言い換えられます。
神経質の中でも、性格に様々なバリエーションがありますが、この「かくあるべし」が非常に強いかたもいるようです。

これは言い換えれば「自分のなかの規則」です。
私が度々出す例ですが、とある人が、「待ち合わせには必ず10分前に行かなくてはならない」という「かくあるべし」を持っていたとします。
自分がこれを守っているぶんには、それはそれでいいと思います。

けれど、こういう人は、他の人もこれを守るべきだと(無意識に)思っています。
だから相手が遅れてくると、口に出さないまでも、ものすごい怒りを感じる。
本当は、「純な心」的には、相手が遅れたら、心配が先にきていいはずなのです。
「どうしたんだろう?」「交通機関が遅れたかな?」という感じがあるはず。

ところが、「こんなに人を待たせておいて、非常識だ」という怒りがきてしまい、その後、相手につんけんした態度をしてしまう。

待ち合わせの時間などもケースバイケース。
大事な会議、会合、飛行機の時間などはもちろん遅れないように気をつけるべき。
場によって厳しさや緩さは違っていいはずです。
別に法律で決まっているわけではない。

「出された食事は全部食べるのが当たり前」と言われて育った人は、たくさん残す人を「無作法」と感じるでしょう。
だから相手が食べたくもないのに、「まだ残っているよ」と強要したりします。
(ちなみに、私自身は小食でなおかつお腹が弱いので食べられないものがたくさんあり、この手の強要に、辟易したことが多々あります。)
これだって、その家の文化というだけで、誰にでも共通するものではありません。

その人にとっての「かくあるべし」はたくさんあり、たくさんあればあるほど、その「かくあるべし」を守らない相手に対して怒りを感じることが多くなるでしょう。
非常に厳しく相手を裁くことになりがちですし、たとえ口に出さなくても、厳しく見られた相手は、息苦しさを感じるでしょう。

神経質の人が、なんとなく人と親しめないと感じるのは、こんな部分もあるのではないでしょうか?
つまり、自分に厳しいだけではなく、その「かくあるべし」を守らない人々にも反発を感じる。

その「かくあるべし」を緩めていくのは、やはり「相手の身になって考える」「相手に共感する」ということを重ねていくことではないかと思います。
(神経質の人だけでなく)いろいろな人と交わって、その人たちのやることを見てみる。

そして、世間は自分が考えているほど厳しいところではないと、実感していくことです。

akinohana

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
    ↑ 悩んでいる人のための森田療法解説書                           
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR