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雑事が私を救う


「下手の考え休むに似たり」ということわざがあります。
意味は皆さまご存知と思いますが、いくら考えてもいいアイデアや案が浮かんでこないなら時間の無駄、ということです。

時間があれば時々ボーっとしてしまうのは、人間の常。
私なども、合間の時間に漠然といろいろなことを考えたり、ついネット検索をしたりして気がつくとずっと座ったままということが多々あります。

あとで思い出しても何を考えていたのかよくわからない。
強迫観念に悩んでいるかた、心配性のかたも、同じような時間が多いことと思います。
この場合、不安に感じていることがループ状に頭のなかを回っている。
新しい解決策を思いつくなどということは、殆どないと思います。

そんな時は、自分のまわり、部屋の様子を見ても何も感じない。
けれど、ちょっと立ち上がって、自分の机を見る。部屋にあるものを見る。
するとだんだんと見えてくるものがあると思います。

「なぜこんなものがここに置いてあるのだろう? 最後に使ったのは一か月くらい前だからもうしまってもいいはず」
「考えてみると、この並び方はおかしい。よく使うものを手前に置いたほうがいいのに」
「見ていなかったけれど、こんなに埃が・・・」
「これはもう捨てていい」

見えてきたものに、すぐ対処する。
こういう仕事は「雑事」と言われます。
軽く見られがちです。本筋の仕事さえちゃんとできていればいいと思われがちです。

しかし森田正馬の入院療法での作業は「雑事」を中心に構成されていたことを思い出してください。
「雑事」が私たちを救ってくれることがある。

「雑事」は現実、思考は実態のない蜃気楼。
むしろ雑事をしている時に、思考は現実と結びついて、いいアイデアが出ることもあるのです。

もちろん、ボーッと考えたり、心配してはいけないということではない。
考えながらでいいのです。
そのまま、埃を払い、ものを動かし、工夫していればいい。

ところが強迫的思考をするかたの特徴として、雑事がたまっていることに気づいたとしても、そこにまた別の思考が侵入してくる。
「めんどうくさい。明日でいいか」
「これをする前に、計画をたてたほうが効率的」
「こんなことより、大事なことがある」

果てしなくいろいろな思考がめぐって、身体は少しも動かない。
何も疲れ果てるまで雑事をしたほうがいいと言っているわけでもないのに、
それを「する」ことを考えただけでまた思考が重くなるという特徴があるようです。

「雑事」が私たちを救う、ということを実感するのは、実際に取りかかってみた時です。
頭で理解したときではありません。

と書きながら、これを読んだ人のなかに実際に雑事に手をつける人は何人いるだろうと、ちょっと悲観的になってしまうのです。

あき

往生する

「往生する」とは、なんとも古臭い言葉ですが、森田療法の用語です。

森田療法というのは、人間の心の微妙な状態を扱っていることが多いので、観念だけではなかなか把握できないことがあります。

私は一昨年、不整脈があると診断され、時々感じる息苦しさもそのせいでしょう、と医師に言われたことがあります。
ただ、服薬するほどのものではないということ。
軽い症状だったのですね。

ただ、そういうふうに言われた後、ある日、自分の息苦しさがとても気になったことがありました。
「嫌だな、息苦しい」と思っていると、どんどん息苦しさが増してきます。
そのとき、ふと思ったのです。
「不整脈があるんだったら、この息苦しさとは一生つきあっていかないといけないんだな。仕方ない」
そのとき、不思議なことにその息苦しさは瞬時に消えたのです。

とあるかたが、メールで同じ体験を語ってくれました。
このかたは「うつ的」になる症状がおありなのですが、こんなふうに言われています。

「うつな時に『自分を見つめないようにしよう』と努力すればするほど辛くなるので、『好きなだけ自分を見つめていいし、どこまで辛くなるか見てみよう』と思うようにしたら、急に『辛さ』がしぼむという体験をしました。『なんだこれ』と思いました・・・」
(ご本人の了解をとって掲載しています)

これは、森田療法で言う「往生」であり、「正受不受」の体験です。
「あるがまま」の体験でもあるでしょう。

このままの自分で(症状があるままで)生きるしかない、と心から納得することです。

「正受不受」という意味は、「正しく受ければ、受けないことになる」ということです。
つまり「苦しい、辛い」ことを、ただそのまま苦しむ、仕方ないと覚悟する。
そうすると、その苦しさは以前のようなものではなくなる(あるいは消える)ということです。

言葉で解説するとどんどん本来の体験から遠くなる気がしてもどかしいのですが、神経症というのは、特定の「不快感」から必死で逃げよう、それを無くそうとしたことから起こってきます。

そうすると精神交互作用が起こり、不快感はますます鋭く感じられるというからくりです。

その不快感から逃げない、感じたままでいようというのが「往生する」「正受」の状態です。

けれどこう説明すると、「そうやったら、症状が消えるのか、ではやってみよう」という方がいるでしょう。
それでは症状は消えません。

そこに「症状や不快感を消すためにやろう」という気持ちが少しでも入っていると、それは往生ではない。

心の底から「もう仕方ない、共存しよう」と覚悟したとき、この心境が体験できるのです。
本当に森田療法って心の微妙なところを語っているのですね。

空と海

「今、ここ」を生きる

考えてみると、私たちの意識はいつも「過去の経験」や「未来の予測」に満ちているような気がします。

たった今、目の前の仕事をしながらも、心はすぐにどこかに飛んでいってしまう。
特に、自分の自由になる時間だと空想、予想、反省、心配、不安などが頭のなかを行ったり来たりします。

先日、少しの時間でも「今、ここ」だけにフォーカスしてみようと思い立ちました。
まず玄関から出て、駅に向かう。
木々の下を歩いていると、緑の葉が生い茂っています。
新緑の頃から比べると、ずいぶん緑の色が濃くなったのだなぁと感じます。
樹の上から鳥たちの声も聞こえてきます。
あの鳴き声は雀じゃなさそう。

するとどこからか、おいしそうな匂いがしてくる。
なんだかこの匂いは、昔々、学校の調理室から漂ってきた給食の匂いに似ている・・・。

前方から小さな子たちを連れた保母さんが歩いてくる。
道をあけながら、このコロナの時代に子どもを預かる人たちも大変だと考える。

すると信号。
あ、あの人は赤なのに渡った・・・。
それにしても自粛の頃に比べると、道を歩く人の数は格段に増えている様子。
もうそろそろ駅だ、スイカ(果物ではない)を用意しなくては。

「今、ここ」にフォーカスすると、意識はさらさらと流れていきます。
どこかにひっかかったら、すぐにまた目の前のことに意識を戻す。

ともすると私たちは、哲学しながら日常生活を送っていたりします。
あるいは何事にも価値批判しながら、道を歩いていたりする。
「あれもけしからん、これもけしからん、自分もけしからん」

ただ駅までの道を歩いているのに、いやな気持、重たい気持になることすらある。

ただ、「今、ここ」に目を向けているだけなら、意識は流れ、あとには何も残りません。

リフレッシュしたいときには、こんなふうに「今、ここ」の時間を持つのもいいかもしれない。
これは、森田療法の技法のひとつでもあり、今流行のマインドフルネスの方法でもあるのですね。

あじさいT.H氏撮影

「恐怖」について

まだまだコロナ禍のこの頃。
地域によって緊迫感が違うと思いますが、東京の私の住んでいる地区では、「通り沿いのお弁当屋さんに陽性の店員さんが出てしばらく休業」「その向こうの病院では看護師さんが一人陽性になった」など、コロナはとても身近なものです。

なので患者さんの少ない地方のように、差別されたり、いやがらせされたりということは聞きません。
人数が多すぎますので、明日は我が身です。

先日スーパーに行ったら、防毒マスクをしている人がいました。なんの冗談かと思いました。
その向こうには口を大きくあけてガムを噛みながらレジに並んでいる人もいる。
人によって危機感がまったく違うようです。

年寄りや持病のある人にとっては、コロナにかかることは「恐怖」です。
不運な場合、死ぬこともあるのですから。

ところで神経症のかたにお尋ねすると、どうも「コロナより症状のほうが怖かった」というかたが圧倒的に多い。
これも不思議です。
だって症状では死なないけれど、コロナは死ぬ可能性がある。
なぜ症状のほうが怖いのでしょう。

確かに、たいていの神経症の症状の核心にあるのは、ものすごい「恐怖」です。
たとえ理性で、(体臭恐怖の場合)「自分の体臭がそんなに遠くの人まで届くわけがない」とわかっていても、理解しただけでは恐怖は去らない。
大抵の人は自分の思い込みの理不尽さに「頭では」気づいているのです。
けれど、どうしてもこの「恐怖」に動かされて、逃げたりはからったりしてしまう。

これは、自分の想像上の「悪い結果」についての恐怖です。
それが「精神交互作用」によって増幅されています。

核心が恐怖ですから、考え方にアプローチする認知行動療法などでは、少し遠回りになります。
殆どの神経症のかたは、自分の認知が少し歪んでいるとか、怖がっていることが起こるのは確率的に非常に少ないということは薄々気づいているのです。
しかし襲ってくる恐怖の前に、思考が無力になってしまう。

森田療法が「感情に対する療法」と言われるのはそこのところです。

ではなぜ本物の死の恐怖(コロナ)よりも症状の恐怖のほうが大きいのでしょう。
コロナは現実に起こっていることへの恐怖、症状は架空の恐怖です。

多分、症状にまでなった恐怖は、時間をかけて練り上げられたものだからこそ、大きいのかもしれません。

けれど、恐怖には現実も架空もないのかもしれない。
なぜならコロナの恐怖にしても、これは「かかるかもしれない」恐怖なのであって、実はまだ起こっていないことについての恐怖です。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の「幽霊」です。
「心配事」や、症状真っ最中の恐怖は、すべて森田療法で言う「予期恐怖」なのかもしれません。

「予期恐怖」ではない本物の「恐怖」というものがある。
それは、本当に危機に直面してしまったときの「恐怖」でしょう。

本当に病気にかかってしまった!
危機一髪の目にあった!
逃げ続けていた状況に直面せざるを得ない!

反応は人それぞれですが、その時の恐怖は、「予期恐怖」とは全く違うものであるはず。

この恐怖こそが「予期恐怖」ではない現実の恐怖。
現実の恐怖の前では、私たちは否応なく変化せざるを得ない。

このあたりが森田療法のキモなのかもしれないと、このごろ考えてみたりします。

新緑T.H氏撮影

先の見えない毎日ですが

引き続きコロナ禍です。

手を洗い、うがいをし、外出したら電車のつり革につかまらず、マスクをし、換気をし、ドアノブなどはアルコール消毒する。これだけやっていて、それでもコロナにかかるのならば、その時は運命とあきらめましょう。

都市圏に住んでいる人間としては、この人の多さは不安要因です。

神経質のかたがたは、さぞや不安だろうと思い、お話をお聞きするのですが、意外にあまり不安に思っていないかたが多いようです。
ただ、自分の健康が不安という症状をお持ちの場合、コロナへの不安は強烈なようです。
他の症状のかたは、そこまで心配していない印象。

コロナが強烈に不安でしかたがないかたは、コロナニュースを見るのを一日一回にするなどしたほうがいいようです。
こんなにニュースがコロナばかりだと、ただただ不安をあおられるだけになってしまいます。

私は、日本人特有の「人に迷惑をかけるのではないか恐怖」があるので、無症状でかかっていて相手にうつしてしまうこわさを感じます。
ですので、現在はマスクをしてカウンセリングをさせていただいております。

さてある意味、明日はどうなるかわからない毎日ですが、そんな時に森田正馬のこんな言葉を思います。
彼は、非常に身体が弱く、何回も死にかけて、絶えず病気と闘う身でした。

「その目的物が、明日失われようが、百年の後に滅びようが、それは問うところではない。ただその現在に執着するのが、人間の本性である。これが事実である。善いも悪いも他にしかたがない。私はいつ死ぬかわからないか弱い体で、しかもたえず読書し、いろいろのことを見聞して、自分の知識欲を充たし、欲張り貯えている。もし一朝にして死んでも、少しも残念はない。ただ生きている現在を欲張っているのである」

そう、私たちは皆(特にこんな病気が流行っている世の中では)明日にはどうなるかわからない身です。

けれど、明日はどうなろうと、私たちには「今、ここ」がある。
病気の恐怖におびえるのはしかたがないけれど、でも「今日」という時間を使って、やりたいこと、できることに力を注いでいく。

森田正馬の生き方は、いつも私たちの目を明るい方向に向けてくれるようです。

sakura

写真 T.H氏

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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