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先の見えない毎日ですが

引き続きコロナ禍です。

手を洗い、うがいをし、外出したら電車のつり革につかまらず、マスクをし、換気をし、ドアノブなどはアルコール消毒する。これだけやっていて、それでもコロナにかかるのならば、その時は運命とあきらめましょう。

都市圏に住んでいる人間としては、この人の多さは不安要因です。

神経質のかたがたは、さぞや不安だろうと思い、お話をお聞きするのですが、意外にあまり不安に思っていないかたが多いようです。
ただ、自分の健康が不安という症状をお持ちの場合、コロナへの不安は強烈なようです。
他の症状のかたは、そこまで心配していない印象。

コロナが強烈に不安でしかたがないかたは、コロナニュースを見るのを一日一回にするなどしたほうがいいようです。
こんなにニュースがコロナばかりだと、ただただ不安をあおられるだけになってしまいます。

私は、日本人特有の「人に迷惑をかけるのではないか恐怖」があるので、無症状でかかっていて相手にうつしてしまうこわさを感じます。
ですので、現在はマスクをしてカウンセリングをさせていただいております。

さてある意味、明日はどうなるかわからない毎日ですが、そんな時に森田正馬のこんな言葉を思います。
彼は、非常に身体が弱く、何回も死にかけて、絶えず病気と闘う身でした。

「その目的物が、明日失われようが、百年の後に滅びようが、それは問うところではない。ただその現在に執着するのが、人間の本性である。これが事実である。善いも悪いも他にしかたがない。私はいつ死ぬかわからないか弱い体で、しかもたえず読書し、いろいろのことを見聞して、自分の知識欲を充たし、欲張り貯えている。もし一朝にして死んでも、少しも残念はない。ただ生きている現在を欲張っているのである」

そう、私たちは皆(特にこんな病気が流行っている世の中では)明日にはどうなるかわからない身です。

けれど、明日はどうなろうと、私たちには「今、ここ」がある。
病気の恐怖におびえるのはしかたがないけれど、でも「今日」という時間を使って、やりたいこと、できることに力を注いでいく。

森田正馬の生き方は、いつも私たちの目を明るい方向に向けてくれるようです。

sakura

写真 T.H氏

興味の偏り

コロナウィルスのニュースばかりのこの頃、恐怖心が日に日にあおられます。
昨日は私も空咳が出て、喉が痛く、風邪みたいな症状・・・とうとうコロナかと思ったのですが、自分には花粉症があるということを思い出しました。
花粉も飛び始めているのですよね。

外に出てみると、まったくマスクなどつけていない人も多い。
もちろんマスクが手に入らないということもありますが。
予防効果はないという科学的な説を信じて、断固装着しないという人もいるでしょう。
日本でたった140人程度(今のところ)。
自分はうつるはずがないと信じて、気にならない人もいるんでしょうね。

不潔恐怖のかたは、こんなときどうなるのでしょう。
空想上の黴菌が、現実のウィルスになったのです。
闘う相手が明確になったわけですが、行かれないところが広がり、清潔儀式が煩雑になっていくのでしょうか。
今までの自分の手洗いで充分と感じてそのままでいるのでしょうか。

神経症のかたでも、あまり気にならないというかたもいらっしゃると思います。
同じ神経症でも気になる方面は人それぞれでまったく異なります。
自分の頭のなかの観念に夢中で、自分が病気にかかることなど心配もしないかたも実際にいらっしゃいます。

「気になり方」の偏りは、人それぞれで本当に興味深い。

もちろん症状を掛け持ちしているかたもいて、そういうかたは多方面のことが気になります。
けれど、自分の強迫観念が気になるあまり、対人関係のことなどまったく気にならないかたもいらっしゃいます。
たとえば、しつこく人に確認を要求したら、相手は自分のことを変に思うし迷惑だろうということに、その時は思い当たらない。
ひたすら確認して自分が安心することだけを目指してしまうのです。

一方で対人関係が気になるあまり、病気のことなど気にもかけないかたもいらっしゃいます。
あんまり怖く感じられないのでしょうね。

とにかく神経症の時期は、その人の関心の焦点が非常に狭い範囲に偏るということは言えます。
でも人間の常として、自分の関心の範囲が偏っているということには気づかない。

私はよく、カウンセリングの初期に「お仕事を丁寧になさってください」的なことを言います。
するとたいていの神経症のかたは「私はちゃんとやっています」と言われます。

けれど症状的なことが頭を占める割合が少なくなってくると、本当は自分の仕事のしかたが効率的ではなかったとか、全体のことを考えていなかったとか、わかるようになってきます。

すこしずつ客観的な現実が見えるようになってくると、自分の偏りも見えるようになってくる。
そうなってくれば、症状にはもうそれほど煩わされない境地になっているでしょう。

もちろん神経症でなくても、人によって興味関心の偏りはあります。
偏りがあってはいけないということではなく、時々、自分の現実を客観的な目で見直してみることは、誰にとっても必要なことでしょう。


梅

自分だけではない

先日、練馬集談会の500回記念会にお招きいただき、「生き生き森田ワーク」をさせていただきました。なんと50人のかたが集まってくださってびっくり。
九州から名古屋から関西、関東近県から来てくださったかたもいて、本当にありがたいことです。

さてその時にも話しましたが、この「純な心」を体得するワークの目的のひとつは、平等観を得、他者と共感的に交流できるようになることです。

とにかく神経質症のかたが持っている根源的な不安のベースには「自分は何か特別に変な部分がある」という疎外感にも通じるような感覚。
これがとても強烈なのです。

こんな悩みを持っている自分は、全人類(!)のなかでも特殊中の特殊、奇妙な人間で劣等であると信じ込んでいる。

だからこそ、同じ症状の人が集うグループに行くとホッとするのですが、今度はそのグループのなかでも「自分が一番症状がひどい」とか「私と同じ症状の人はいない」などと悩むことになるのです。

森田療法では「症状の発端」は「誰もが感じる感覚を異常と思い、それをなくそうとすることによってそれに執着してしまった」と解説しています。
つまり「誰もが感じる感覚」がもとにあるのです。

「プレゼンのときに声が震える」「狭い空間で息苦しく感じる」「病気になるのがこわい」「人に変に思われている気がする」「人のことが憎いと感じる」
実はそういう感覚は全部、誰もが持っているものです。
ただ多い少ないの差があり、フォーカスしていることが違うだけなのです。
神経症のかたはそれにとらわれてしまっただけです。

グループのなかで、そういう根源的な感覚を言葉に出し合うことで、「なんだ、自分だけではなかった」と思うことは、大きな気づきにつながるのではないかと思うのです。

ただもっと広い視野で考えると、神経症のグループのなかで「自分だけではなかった」と思ってそこに留まるのではなく、世間一般の人も同じように感じているだろうと推測することも大事かもしれないとこの頃思います。

グループのなかで固まっていると、まだまだ「自分はこのグループにはいられるけれど、世間ではのけ者」「世間の人はこわい」と思うこともあるかもしれません。
「やはりこのグループのなかだと安らげるわ」と思うかもしれません。

でも思い出してください。
「誰もが感じる感覚」なのです。

森田正馬が言ったように「目上の人の前では緊張し、好きな人の前では恥ずかしい」のが人間なのです。

世間の人は、それを「当たり前」と思って、そのまま生きているだけ。
神経症の人と同じように嫌なものは嫌なのです。
その感覚をコントロールしようとしなかっただけ。

けれどフォーカスのしかたが異なると、他の人の感情を聞くときに「えっ、そんなことを感じるの?!」と思ってしまうこともあります。
「誰かに猛烈な嫉妬を感じる」と言われた時、「え、私にはそんなことないなぁ」と思う。
しかし、本当は気づいていない、あるいは自分から隠しているだけだったりするのです。

よくよく考えてみると、実は一瞬だけでも感じていたりする。
すぐに次のことにフォーカスするので、それに気づかない。
たとえば「いいなぁ」と感じたら、自分のほうに返ってきて「くやしい。私のほうが劣等だ」とグルグル考えるのではなく、「どんなことをしてそういう結果になった?」⇒「では、私が真似できるところはどこ?」あるいは「いや、それは私には無理だから、何か他のこと(方法)に焦点をあてたほうがいい」等、現実検討へと向かっていけば、素直にその人のことを祝福できたり賞賛できたりするのです。

決して感情を無理やりねじ曲げる必要はない。

「純な心」は、症状を持っている・いないに関わらず、誰でもが持つ感じ。
それは神経症の人に限らないのです。
他の人はそれを目の敵にしていないだけなのです。

ゆしま2

「どうしたらいい?」の謎

遥か昔の話です。
森田療法の学習団体「生活の発見会」で、とある高名な心理学の先生をお招きして講演を伺ったことがあります。
そのかたは、森田療法家ではなく、女性のかたでした。

お話が終わったあと、質問の時間になり、会場からは質問が結構出ました。
ところがその質問が、ほとんど「どうしたら治りますか?」「どうしたら○○な状態になれますか?」「どうしたら・・・?」という形のものばかりだったのです。

温厚な先生でしたが、あまりにそういう質問が続くので、最後は明らかにイラッとした感じになり、「皆さんは、どうしてそんなに簡単な解決法ばかり望むのでしょう」というようなことをおっしゃいました。(正確な言葉は覚えていませんが)
じっくりと時間をかけて対話をし、自分を見つめていくというカウンセリングの定石を熟知し実践なさっているかただからこそ、いつもと違う反応に面食らったのかもしれません。

帰りにお見送りする役目だった私は、その先生と一緒にエレベーターに乗りましたが、先生は「私としたことが、つい・・・」と、ご自身の発言を恥じていらっしゃいました。
無理もないことです。
神経症(不安障害)の人と、あまりお会いになったことがない人は、「どうしたら?」という質問を浴びせられたこともない。
きっと意味がわからなかったと思うのです。

しかしこの「どうしたら治りますか?」という質問は、神経症のかたに特徴的な質問です。
カウンセリングにいらっしゃる他の悩みのかたがたは、「どうしたら?」というよりむしろ、「どうしてこんなふうになってしまったのでしょう」的な質問をすることが多いようです。

私自身、この違いをはっきりとわかっているわけでもないのですが、「どうして?」という質問には悩んでいる主体である「私」が含まれているような感じがします。
一方「どうしたら?」という質問は、症状を何か「おでき」とか「異物」のように思っているニュアンスがあります。

この苦しみは「病気」あるいは「異常」だから、治すべきものだというような感じです。
そして、何かの「方法」を適用すれば、この異物が取り除けると信じているきらいがあります。
それだけ苦しいのだということも理解できますが。

このような思考方法が、いわゆる「症状」を作り上げ、悪化させるものであることは、森田療法をよくご存じのかたには、おわかりと思います。

いわゆる「症状」や「不快感」を「どうにかして」取り去ろうとすること自体が、症状の原因でもあるわけです。

それにこの言葉は、神経症の人たちの功利性を表しているかもしれません。
じっくり自分を見つめるというより、最短コースで楽になりたい、そういう表現であるかもしれません。

「どうしたら?」はまた、神経症の人たちのコントロール欲求を如実に表しています。
コントロール欲求は、自然なもので、悪いわけではないのですが、それが向かう対象がコントロール不能なものである場合、空回りの悪循環になってしまいます。

つまり、(急に結論に入ってしまいますが)このコントロール欲求が、コントロール可能なものに向かい始めた時に、不可能なものに向かって空回りして「症状」になっていたものから解き放される。

「どうしたらいいんですか?」という質問は、自分の行動や仕事のやりかた、遊び方、楽しみ方、人とのコミュニケーションのしかたのほうに向かえばいいのではないでしょうか?

おせっかいですが、コントロール不可能なもののなかには「他人」も入ります。
そのあたりはお気をつけて。

ラクア

森田療法が誤解される理由 その2

なんだか、ようやく気候が安定してきた感のある今日この頃。
こうやって毎年、天候のことを心配しなくてはならない時代になってしまったのですね。

さて、誤解される理由・後編です。

今回は、森田療法を学ぶ側の思考のクセについて。

森田療法を学ぶ神経質のかたは、たいていの場合、知的なかたです。
知的ということは、言語や観念での理解には長けているということ。
頭脳が発達しているかたと言っていいでしょう。

そしてどちらかというと、ややこしい考え方をする(というより「してしまう」)のですね。
たとえば、何かを思うとすぐにそれと反対のことを思う、あるいはすぐに反証してしまうとかいうこと。(精神の拮抗作用)
誰にでもあることですが、それが特に多いし、なおかつそれをつかまえる。
だから頭のなかがいつも忙しいわけです。

そんな人たちが森田正馬の原典を読むと、それを自分の思考形態に合わせて解釈することになります。

原典の森田の言葉は、非常に具体的です。
むしろ森田正馬は、話が抽象的にならないように細心の注意を払っています。
抽象的になった場合は、わざわざ謝るぐらいに気をつかっています。

それは彼が、神経質者の観念性、教条性を非常によく理解していたからではないでしょうか。
ときたまお弟子さんたちを叱るときも、「森田のいうことを観念化する!」とか「教条化する」とか指摘していました。

つまり神経質者は、言葉が達者なだけではなく、言葉にとらわれる人たちなのです。
まず言葉が先にくる。
それをもとに、そこから行動をする。

「森田療法は日常実践」という言葉を聞くと、「実践する」⇒「実践しよう」⇒「実践しなくてはならない」というふうに脳内変換していく。
そうしてからものごとにとりかかるのですから、もうそこに「しなければならない」に伴う「嫌な感じ」が出てくる。
そして「森田の実践は苦しい」という観念ができあがる。

余談ですが、とある初心者がグループに出席したところ、年長者のかたに「森田療法はそんな甘いものじゃない!」と一喝されたそうです。
こういう年長者のかたも、「しなければならないこと」を刻苦して実践していくというのが森田療法、という観念が出来上がってしまっているのでしょう。
初心者にとっては、残念なことです。

「実践」と言われたときに、「あぁ、そうか」と納得してすぐに動き始める人が「素直な人」で、森田正馬は「素直な人は早く治る」と言っています。

動いてみれば、何かの感じが出てくる。
そしてその感じがまた身体を動かす。
そこから実際の興味・関心が湧いてきて、実践をしていくことがなんら苦痛ではなくなっていく。

現実の世界で動いていくことが、その人の現実的な成果になり(たとえささやかなものでも)、またその人を前に動かしていく。
その境地に行きつくのを助けるのが森田療法。

でもね、それでは「こういうふうになろう。どうしたらなれるか」と考え始めると、同じところに戻ってしまうのですよ。
そこが「言葉人間」にとっての森田療法のむずかしさ。

グループなどで、自分のしたこと、具体例で森田療法を伝えられればいいのですが、観念化したり教条化した森田を伝えることが多いと、森田療法がどんどん誤解されていくのかなと思います。

すすき



森田療法についての疑問などもお気軽にご相談ください ⇒ お茶の水セラピールーム
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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