弱力性と強力性

強力性とか弱力性などと書くと洗剤のことみたいですが・・・。

よく神経症(不安障害)になる人の性格特徴を言うとき、「強力性と弱力性」という表現を使うことがあります。
こういう矛盾したものが性格の中に同居しているので、それでその葛藤で悩みが深くなるのだと言われます。
(もちろん他にも特徴的な性格の要素はたくさんありますが)

具体的に言うと、神経症になるかたは、強烈な負け嫌いです。
つまり人より上に行きたい、人より優れていたい、もっといいものを手に入れたい、という心情があるかたです。

それ自体は、生きるエネルギーになるわけですから、あっても邪魔にはならない。
強弱の差はあれ、たいていの人が持っているものです。
けれど神経症になる人はそれが強い。

ところが、そのような「強力性」とともに、「弱力性」と言われるものもあわせ持っている。
その弱力性とは、ひとくちに言えば「気の小ささ」「小心さ」です。

強力性があるわけですから、自分のなかに潜むこの「小心さ」は、できれば見たくない。
小心さを自覚するだけで、負けたような気になってしまいます。

たとえば、誰よりも立派にプレゼンをしたいという強烈な欲求がありながら、そのプレゼンでの失態を死ぬほど恐れている自分もいる。
失態を恐れるというよりも、その失態から自分の気の小ささを垣間見られてしまうのが、死ぬほどいやなのです。

字を書くとき手が震えるのがいや(書痙といいます)で、人前で字が書けないという人も、手が震えるのが他の理由(たとえば筋肉が疲れているとか)なら自分を許せるのです。
けれど、手が震えるのを人に見られて「気が小さいなぁ」と心を見透かされるのがいやなのです。

たとえば、そこまで負け嫌いでない人は、「あぁ、自分は気が小さいなぁ」で終わってしまうでしょう。
でも、それをどうしても認めたくない。
その性格をなんとか直そうとする、あるいは隠そうとする。

自分の性格の事実を、違うものにしようとするわけですから、どうしても日常の言動が不自然になります。

少しぐらい強がったり見栄を張ったりすることは、誰にでもあります。
けれど、あえて一つのことに集中してそれを隠そうとするのですから、毎日がとても不自由になります。

上の例で言えば、人前でのプレゼンで緊張しないように努力する。あるいは、人前で字を書くとき震えないようにと思う。

自分の「強力性」と「弱力性」がそこでバトルを繰り広げているのです。

自分は気が小さいのだ。
こういう時は緊張するのだ。
そう認めてしまえば楽なのですが、それを認めるのが悔しい。

その悔しさもわかります。
でも、まったく小心さのない人などいないし、負け嫌いでない人もなかなかいない。

ただ程度の差だけなのです。

自分はそれほど特別小心なわけではない。
ごく普通の人なのです。(普通と言われるのはイヤかもしれませんが)

そんな自分の性格を、知っておくことで、すこしずつ自分の「ありのまま」でいられる方向へ進めるかもしれません。


あじさい

生き生きワークのお知らせ

お知らせです。

今年4月から「森田生き生きグループワーク」を開催いたします。

このグループワークは、全8回、4月から6月にかけて、日曜日を利用して行います。

内容は「ものそのものになる」「事実唯真」「純な心」などのキーワードを中心に、ご自身の体験を通して学び、もっと楽に生きる姿勢を体得していくことを目指します。

レクリエーションもまじえ、固定メンバーで、気軽な雰囲気で学べます。

以前の正式なワークをしてからもう10年以上もたちました。
今やらないともうできなくなるかもという、私自身のちょっとした危機感もあり、今年開催することになりました。

一度、ワークの場を体験してみたいとお考えのかた、ぜひお問い合わせください。

詳細は、お茶の水セラピールームのホームページをご参照ください。お茶の水セラピールーム

定員がありますので、締め切ってしまった場合はご容赦ください。




私だけではない

カウンセリングに通っていただいているかたが、時々このブログを読んでの感想やそれをもとに考えたことを語ってくださいます。

ブログには割合一般的なことしか書いていませんので、そのかたの例に沿って考えを進め、私もそのかたも共に深い森田的理解に至ることがあります。

そんなときに、私自身もいろいろな発見をすることがあります。

先日のかたは、ブログを読んで気づいたことがあるとおっしゃいました。
そのかたは「こんなふうに葛藤しているのは、私だけかと思った・・」「皆、自分と同じように葛藤していると、はじめてわかった」と言われたのです。

つまり、他の人の心は、こんな面倒くさい葛藤もなく、きれいに整理されて、すぐ決断ができて、すがすがしいものだと思われていたようです。

確かに「自分だけ特別に劣等だ」というのは、神経症のかた特有の考え方のようです。
こんなことを思っているのは、自分だけ。
こんなにいやなことを感じるのは、自分だけ。
こんなに心がすっきりしないのは、自分だけ。

それが心の中の「葛藤」というものも含め、自分のなかのあらゆることへの批判となって、自分を苦しめるのでしょう。

実は人間の心のなかというのは、それほど大きな差はないのではと思います。

そうでなければ、心理学の理論などできません。
心理学理論というのは、一般的な人間に共通に生じてくるものを法則化したものです。

神経質のかたの性格は、非常に似通っています。
もちろん、まったく同じということはありませんが、神経症になる心のからくりは、共通の性格があったからこそ生じてくるもの。

では神経質の人だけが、特別かというと、そうでもない。
神経質の悩みは、ただ「誰でも共通して感じる感覚」に、過剰に注目してしまったから起こってくることです。
つまり、基盤にある感覚は人類共通のものです。

それを問題視しやすいか、どうか。
ただそれだけのことです。

その根底には、人間のいろいろな性格特徴を「いい、悪い」と価値づけするという考え方があるのかもしれません。

葛藤する人間、優柔不断な人間、すぐ不安になる人間・・・そういう人間は一段下のように思っているのかもしれません。

そしてまた、その価値判断の根底には、自分にとってそういう性格が快か不快か、という感覚的な部分があるのかもしれませんね。



春日大社
春日大社

葛藤こそ大事

先日は、名古屋の一日学習会へ参加させていただきました。
熱気あふれる学習会でした。

「純な心」がテーマでしたが、どなたかが「純な心って、本当はすごく簡単なことなんですね」と言ってくださいました。
実際、「純な心」という概念はまったく難しくないのです。
でも、もしかしたら神経質者のかたが「純な心」に気づくのが難しいのかもしれません。

それはそうと、何人かのかたから、内容が似たお話しをいただきました。

「懇親会のときに、思い切って(私に)話しかけた。それはよかったけれど、話せなかった人に申し訳ない気がした」
「(私に)話したかったけれど、人の目が気になり、そばに行けず残念だった」

神経質のかたというのは(あるいは人間は誰でも)、いつでもいくつかの心が葛藤しているようです。
多分、欲求が多方面にわたっているからでしょう。

たとえば・・
「誰かに話しかけたい」
「でも、他の人もそうしたいと思っているのに、悪いかな」(場を乱したくない、目立たないでいたい)
「他の人がどう思うだろう」(人の目を気にする。いい人でいたい)
「話しかけてうまく言葉が出なかったらどうしよう」(恥をかきたくない)

そうやっていろいろな心が同時にあって、葛藤しているのです。

森田は、このように多くの心が葛藤している人ほど立派な人である、というようなことを言っています。

それはどういう意味でしょう?

もし葛藤のない心なら?

「こうしたい!」と思う心のまま、猪突猛進。周りのことなど目に入らない。人の迷惑も考えられない。
「気まずい」という心のままに、ひたすら引っ込んでいて、自分の欲求には気づけない。
人の目ばかりを気にしていて、身動きできない状態になる。
あるいは、いつも装ったような不自然な自分でいることになる。

森田療法は、欲望を大切にしますが、必ずしも「いつも欲望のままに行動しなさい」などとは言っていないと思います。
同じように「周囲に迷惑がかからないように」などとも言っていません。
そういう教条的な言い方はしないのです。

自分の欲望は大事。
けれど、その欲望を達成するにあたって、心の中に自然に出てくる様々な葛藤も大事。

その葛藤があるから周囲への気配りができることもある。
そうやっていろいろな葛藤のなかで「でも本当は何がしたいか」を感じていく。

その「誰か」と話せなかったことが、ずっと後悔のタネになるなら、その欲望はかなり強いものであるわけです。

それだったら、今回は思い切って話してみよう、という行動を選択してみる。

葛藤しつつ、選択していく。
そしてその選択の責任は自分がとる。

そうやっていつも迷う自分がイヤだ、とおっしゃるかたもいます。
けれど、葛藤して迷い決断していくのが、ある意味、心の普通の働きです。

この葛藤や迷いが不愉快でいやだから、消したいというのは、不可能なこと。

そういう高度で複雑な働きをしている私たちの心が、実は私たちを守ってくれているのです。

奈良の鹿

                          奈良の鹿

森田療法における欲望について その2

とうとう今年もクリスマスが近づき、大晦日が近づき、お正月が近づいております。
忙しくはないはずなのに、周囲にあおられるのでしょうか、なぜか用事が増えます。
自分のなかでも、これは大晦日までにスッキリさせたいという気持ちがあるのだと思います。

そんなわけでなかなかブログに手がつけられませんでした。

「欲望」のことです。
前回は、欲望を「かくあるべし」で押しつぶさないということを書きました。

今回は、欲望によって押しつぶされている話。

ときとして、いつまでも悶々と悩み続ける方のなかに、過大な欲望を追い求めている人がいます。

欲望はあっていいもの。
しかし、その目指すところが大きすぎると、かえって自分の足りなさが意識されて苦しむのです。

「理想が高い」という言葉で言い換えることもできますが、「理想」より「欲望」のほうが近い。
理想が変わればいいというものでもなく、何かもっとお腹の底から求めている感じです。

なぜ欲望がそこまで過大になるのか。
多分、その人のどこかに、深い劣等感があるのかもしれません。

防衛機制でいうと、劣等感を「補償」するために、心のなかで大きな理想像を描き、いつかはそうなる自分、皆を見返す自分を欲しているのかもしれません。

それはそれでいい。
しかしこのような過大な欲望が自分を苦しめることがあります。

そういった欲望は、大きすぎるために漠然としている場合が多い。
だから現実の世界では、努力もしているし、いろいろなことを成し遂げてもいるのに、「もっと、もっと」という焦りがいつもある。
実際は多くのことをしているのに、まだまだ劣等感に苦しめられる。

お腹の底から欲している、この「過大な欲望」にどう対処したらいいのでしょう。

まずは、前回のブログで述べたように、これを否定したり抑圧したりしないことです。
欲望は「あっていいもの」ですから。

そして、それを持ちながら、そこに到達するまでの道のりを「具体的に」考えてみる。

イメージしてみると、その道のりのどこかで、ものすごいジャンプが必要になってくるような感じがすると思います。
自分の、欲望達成への道のりが漠然としていることを認識しましょう。

そして、ノートなどを広げて、その達成のために必要なことをひとつひとつ書き出してみる。
必ずや「中間目標」のようなものが出てくるでしょう。
たくさんの通過地点を通らないと、そこまでいけないこともわかるでしょう。

過大な欲望を持つ人は、その「中間目標」すらも達成できない自分を考え、また劣等感へと引きこもってしまうのです。

そんなときには、自分が今まで成し遂げたことも、ひとつひとつ書き出してみましょう。
「こんなこと、くだらない」と思っても、実はたくさんのことをしてきたはずです。

森田療法では「具体的に」ものごとを考えることが大事と言います。

「中間目標」すら達成できないとわかれば、もっと目標を低くする。

時としてそれは、自分の自尊心を傷つけることかもしれませんが、人はそこからしか出発できない。
苦しくても、現在の自分を認める(あるがままの自分を認める)ことによって、何から手をつけたらいいか、わかります。

そうしたらあとは簡単。ただ目の前の身近な目標を辛抱強く達成し続けるだけです。

確かに大きな目標を持ち、野心を持つことは、人を鼓舞します。
しかし時として、それをあまりにリアルに求めすぎるがゆえに、自分が傷つくこともあるのです。


紅葉3


劣等感のお悩み、ご相談ください お茶の水セラピールーム
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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