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練習ではなく実際

森田療法の大筋の技法を把握していらっしゃるかたは多いと思います。

けれどこの療法のなかには、大筋だけではなく、さまざまな人間の感情、心理を理解しながら、それを症状回復のために利用し、その人の生活を前向きにしていく技法がたくさんあります。

ひとつの面白い例で言えば、森田正馬の入院療法は当時からすれば、非常に高いお金をとったのだそうです。
それで入院中は作業をするのですから、高いお金をとってこき使われるという悪評もあったようです。

しかしこの高額な料金も、これだけ高いお金を払ったのだからと、皆が真剣に最後まで取り組むようになるということを念頭においてのことだそうです。
確かに、料金が安かったり、ただだったりしたら、私たちの心はそこまで真剣にはなりませんね。

人間の心理をよく理解し、それをうまく利用して治療を軌道にのせる方向にもっていったわけです。

たとえば、よく「練習でなく、実際」と言われます。

具体例として言えば、不安症状のために電車に乗れない。
それを克服するためには、まず電車に乗ってみようと考えるのは普通です。
しかしここで「練習でなく、実際」と言われます。

つまり症状を克服するのを目的にして、乗れるかどうか試してみよう・・・というのが「練習」です。
「実際」というのは、何かの目的があってその電車に乗る時のことです。
どうしても約束がある。入社試験があるから、その電車に乗らなくてはならない。
これが「実際」です。

行為としては同じじゃないか、だから練習でもいいではないか、と思われるかもしれません。
しかし心理としては全く違うのです。

不安発作を起こさずに乗れるか確かめている時は、自分の注意は「症状をはかる」ほうに向きます。
発作を起こさずに乗れたかどうかが大事なポイントになります。
結局のところ、「症状本位」「気分本位」の行動ですね。
自分の心はまだ症状があるかないか、症状が起こるか消えたか、それをテーマにしていることになります。

でも、きちんとした目当てがあって乗る時には、その目的を達成したかどうかがポイントになります。
たとえ症状が起こっても、きちんと用事ができたことが大切。
これが「実際」です。
「ものごと本位」の行動です。

この差はとても微妙に見えます。
でも森田療法の実践という点から見たら、大きな差異があるのです。

森田療法というのは(あるいは森田正馬は)、そういう人間心理の機微をうまく利用するというところに長けています。

別に他の治療法を悪く言いたくはないのですが、行動療法での治療で、ひたすら恐怖突入をしても、いっこうに症状が良くならない人がいるのは、こういう点が違っているのです。

症状を治すことを目的とした行動は、いつでも練習ということになるのです。

大事なのは、本当に人生を生きること。
瞬間瞬間を真剣に事実に添って生きることなのでしょう。


シクラメン


自分を欺くことと自分を知ること

私は、自分がかつて書いた記事などを忘れてしまうことが多く、手元に持っていないことがあります。

先般、高知の墓前祭で出会ったかたが、私の15年前(!)に「生活の発見」に書いた記事を読んでいると言ってくださいました。
どうもその記事をとっておいた記憶がないので、ご無理を言って送っていただきました。

なんと彼女は、自分のものが赤線だらけなので、書き込みのないものを持っている知り合いを探し、それをコピーして送ってくれたのです。
本当にありがたいことです。

で、自分で読み返してみて、「あら、今読んでも全然通用するわ」と思った次第。
今よりも書き方が少しストレート。
オブラートに包んでいません。

以下、自分の気に入っているところを少しだけ抜粋し、下記します。

「とにかく私たちは『他人の視線』あるいは『自分を裁く自分の視線』という鏡を前に、自分のなりたい人間を演じてしまうことが多いのです。けれど、鏡に映らない自分のほうが人の目に触れる機会は多いのです。私たちは、鏡に映した部分がきれいであれば、映らない部分もきれいだと思いたいのでしょう。無防備な部分は自分にはないと思いたいし、周囲だって自分の把握できるものであってほしいのです。

 ところが、そんな思惑はたいていの場合、無駄です。なぜかといえば、他人から見たら、『私』はいつも『私の全体』だからなのです。他の人は一生懸命化粧したところだけ見てくれているわけではありません。どんなに飾っても、装っても、偽っても、『私』は『私の見られたい私』ではなく、私の気づかない部分も含めた『私の全体』として見られているのです。

 つまり、私たちが『あるがままであろう』などと努力しなくても、他人にとっては、私は『あるがまま』の私なのです。
 そして、なによりも一番大切にしなければならない認識は、その『私の全体』のほうが、磨き上げ、飾り上げた『私の部分』より、ずっと魅力的だということなのです。」
「自欺(自分を欺くこと)と自覚(自分を知ること)」より

この文章の副題は「自分の自然にまかせよう」です。

確かに「人に良く思われよう」とあえて努力することをしなくなると、生きていることが本当に楽になります。

「あえて」と書いたのは、周囲の状況に応じて、私たちはそれなりにふるまうので、人によく思われようとすることだってあります。
そういう自分は許してあげる。

こういう文章を読むと、逆に、わざと「人によく思われようとしない」ようにしようとする人もいるからです。

うろたえるのも自然、驚くのも自然、恥ずかしいのも自然。
そんな自然な自分は、ちっとも恥ずかしいものではないのです。

*ご来室のかたで希望者にはこのコピーをお渡ししています。ご希望のかたはお申し出ください。

紅葉

人の関心事、自分の関心事

いろいろなかたのお話を聞いていると、人が興味を持っているもの、関心を持っているものは、面白いほど異なっているのだなぁと思います。

ある人の一番の関心事は、自分の健康のこと。
またある人の関心事はお金のこと。
あるいは、どうしたら仕事で成功することができるか、どうしたらいい役職を手に入れることができるかに集中している人もいます。
旅行が大好きで次の休みにはどこに出かけようか、いつも考えている人もいる。
食べることが大好き、音楽が大好き、絵を描くことが大好き・・・・人の興味の対象は各方面に無数にあります。

それは、ごく普通で、健康的とも言えます。
けれど神経症的になると、他の人から見たら「なんでそんなに細かいこと?」と思うことに興味・注意が限局的なものになります。
そして、それ以外のことに殆ど注意が向かなくなります。

自分の視線が気になり、だから他人の目の動きにも過度に敏感になる人。
自分の匂いが気になる人、自分の手や声が震えると思ってそこに注意が集中する人。
容姿が気になり、他の人の容姿と自分を比べ、整形しようかと迷う人。
顔の表情が気になる人。集団の中にいる時だけ自分の言葉や一挙手一投足がぎこちなくなる人。
身体が揺れると気にする人や、呼吸がいつおかしくなるかと気にする人。

これらは全部自分のことですが、自分以外のことに集中することもあります。
自分の周りのひとつの音にだけ集中する、あるいは手についた(と思われる)汚れにだけ気が向く。
嫌いな人がそばにいると、気になって何もできなくなる。

ひどくなると、自分の世界がそのことだけをめぐって展開するようになります。

これは、高良理論(森田正馬の弟子・高良武久が理論化した森田療法)によると「部分的弱点の絶対視」ということになります。
ささいな欠点を重大なことのように思ってしまうということです。

そしてこの欠点さえなければすべてうまく行くと考えてしまうのが「防衛単純化」。
なぜそうなるのか?
その背景には、その人にとって、本当は現実に不安のタネがあり、それに対して自分は立ち向かうことができないから、敵を細かいことに絞るという無意識の心の動きがあります。

そしてその結果、「手段の自己目的化」ということが起こります。防衛単純化で作り上げた「敵」をやっつければ、自分はきっと幸福になれる、すべてうまく行くと考えてそれに邁進する。

たとえば、自分の視線を「普通」にしようとするとか、自分についたばい菌をすべて洗い流そうとする。
頭で考えれば不可能とわかっていることを、それでもやってしまうのは、自分のなかに大きな不安があるからです。

そういう細かい部分にとらわれて、にっちもさっちもいかなくなっているとき、「他の人はまったく違うことに関心があるのだ」ということを思ってみるのもいいかもしれません。

なぜなら、こういうふうにひとつのことにこだわっている時、その人は周り中の人が自分のこの弱点を見ているような気がしている。
見透かされているような思いがあるのです。

けれど人の興味は千差万別。人の生き方も千差万別。
誰もあなたの視線など気にしていないし、あなたの表情を一生懸命見てなどいない。
他の人には他の人の興味の対象があるのです。

そして日常、たいていの人の興味の焦点は、いつもあちらからこちらへと移っているのです。

もしあなたの興味がそうやって、軽くあちこちに行くようになったら、自分の心のとらわれから抜け出す第一歩。

そのまま心を遊ばせていれば、「好奇心」という眠っていた資質が目をさまし、それが「とらわれ」からの脱出へと導いてくれるでしょう。

コスモス

思うようにならないこと

しばらくブログが滞ってしまいました。

それにしても、今度は北海道で地震。
北海道のかたがた、地震や停電、おそろしかったことでしょう。
お見舞い申し上げます。

日本に住んでいるなら、いつどこで地震や洪水にあってもおかしくない時代になってしまいました。

天災に遭う遭わないなんて、本当に「運命」としか言いようのないもの。
 
「運命」というと、「運命は切り開くもの」なんていう言葉を思う人もいるでしょうが、私はこんな森田の言葉を思い出します。

「成るべきになり、成らざるべきに成らない処の自然の運命に素直に服従して、余は余の天職のために、柔順に生き抜かなくてはならない」(久亥の思い出)

これは妻の久亥に先立たれたときの森田正馬の言葉です。
つまり「自分の思うようにならない自然の運命に素直に服従して、天職(医師)のために柔順に生きていこう」ということだと思います。

思うようにならない運命に服従するって、一見消極的に見えますが、この姿勢は大切なものですよね。
なぜなら、神経症になる人は、「思うようにならないこと」を思うようにしようとする部分があるからです。

他の人たちが「いやだなぁ、苦しいなぁ、でも仕方ない」と我慢していることが、「いやだ、いやだ、なんとかしないと我慢できない」というふうになるのです。
それでいろいろなことをするので、ますます事態は悪化していくということです。

たとえば、友人や周囲の人にちょっとイヤなことを言われる。
そんなことは自分の問題ではなく、相手の問題で、生きていれば必ず起きてくることです。
でも、それが許せない。
だから、そんなことを言われないようにパーフェクトな自分になろうと強迫的に努力する。

たとえば子どもを思うようにしたい親は、子どもが少しでも自分の意に反したことをすると、それが不安で我慢できない。 
なんとか、子どもをコントロールしようとする。

あるいは自分に何かの違和感を覚える。
自分の顔が赤くなる。顔が変だと感じる。人前で手が震える・・・。
そうすると、その違和感をなんとかなくそうと工夫する。

そんなことは、誰でもふとしたときに感じて、でも持ちこたえて、しかたなく我慢したり、あきらめたりしているものなのです。

「思うようにならないこと」は、私たちの周囲に満ち溢れています。
それをひとつひとつ不満に感じていて、闘っていたら、私たちはいつもイライラしていなくてはならない。

世の中は自分の思うようにならないことのほうが多いのかもしれません。

そんなときは、前掲の言葉を思い出してみましょう。

ちょっときつめの言葉で意訳すれば・・・・
「思うようにならないことには、しかたなく服従して、この世で自分のするべきことのために耐えて生き続ける」

地味だけれど、当たり前のことなのかもしれません。


レンガ倉庫

「かくあるべし」で疲労困憊

ご相談にいらっしゃるかたのお話を聞いていると、時々、「そこまできちんとやらなくてもいいのになぁ」と感じることがあります。

特に家事をまかされている主婦のかたに、そんな感じを持ちます。
家事には終わりも基準もありませんから、やろうと思えばいくらでもていねいにできるものです。

それに神経質的な「かくあるべし」が加わると、「必ず~しなくてはならない」「主婦としてこれははずせない」という感じで、誰も頼んでいないのに、自分の頭のなかで考えたパーフェクトな家事スケジュールをこなしてしまう。
そうすると、自分のなかで「やった!」という感じがして気持ちよい部分もあるのかもしれません。

ところがそれをやり続けると、母親がこれだけやってくれるものという観念が、家族の「当たり前」になり、母親に当然のことのように頼るようになる。
家事はますます大変になる。
疲労困憊してしまいます。

若いうちならいいのですが、歳をとると、限界がやってきます。
夫は定年退職できても、妻の家事には定年がありません。
かえって、夫の食事を三食用意しなくてはならなくて、悲鳴をあげるということが起きてきます。

「こうしなければならない」という完全主義は、ただ苦行のように達成を目指すだけのものではなく、そのなかに「達成できたときのスッキリ感、充実感」をねらう気持ちがあります。

「やった!」という快感ですね。

しかし、他の人の家事のことだと「そこまでやらなくても」と思えるのに、自分を振り返ると、私にもそういう完全主義があって、それは仕事に対して発揮されます。
しかし家事にはまったく発揮できないので、きっとこれは各々の価値観のあるところに出てくるのでしょうね。

自分では「かくあるべし」だと思っていない。
むしろ「これくらいやるのは当たり前でしょ」ぐらいに思っている。
ところが、あとになって自分の仕事を振り返ってみると、「あそこまで時間かけてこの程度?」と思うことが多いのです。

そんなふうに一生懸命になるのは、あるいは安心したいのかもしれません。
誰からも批判されたくない、などという「不可能」を目指している部分もあるかと思います。

でも、批判されようが、他人からどう言われようが、私は私。
今、この時点でできることはこの程度でしかない。
妥当な批判は受けるし、不当な批判は無視すればいいだけです。

森田の言葉のなかには「完全欲はますます発揮したほうがいい」という趣旨のものがあります。

ただ、これは自分の気分をすっきりさせるための完全欲や、現実を無視した完全欲ではありません。

あくまでも「現実にそった」「自分の実際の能力にそった」完全欲であって、理想の状態をつくるためのものではありません。

今、「やらなければならない」と思っていることは、現実の世界で本当に必要なことでしょうか?
自分の気分や他人の視線を気にした「かくあるべし」ではないでしょうか?

一度、自分の仕事ぶりを振り返ってみることが、もっと「自分を大切にした生き方」へと通じていくかもしれません。

ひまわり

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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