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逆説療法としての森田療法

先日、メンタルヘルス岡本記念財団の体験フォーラム(ZOOM開催)で、森田療法が「逆説療法」という話をしました。

もちろん森田療法が「逆説療法」であることは、いろいろな書物で見聞きされていることと思います。
そもそも「症状を治さない」こと自体が逆説ですけれどね。

森田は時として(「いつでも」ではありません)診察で、患者に対してこんなことを言います。
不眠の人には「試しに今夜は眠らないでいてください」。
心臓神経症の人に対して「今夜は一番発作が起こりやすい姿勢で寝て発作を起こし、それを観察して報告してください」。

もうおわかりと思いますが、こう指示された患者は、その夜はぐっすり眠れ、心臓神経症の発作は起こりません。

これと同じような「逆説療法」を、ミルトン・エリクソンもやっています。

けれど現代では、こういう直接的な逆説療法はむずかしい。
なぜなら、治療者は昔ほど権威的ではなく、患者はインターネットなどであらゆることを検索して知識を蓄えてやってくるからです。

もし同じような指示を出されたとしたら、きっと「そうか、それをすれば症状は治るんだな!」と考えるに違いないと思います。

そうして眠らない努力をしながら「きっと眠れる、眠れる!」と思うのではないでしょうか。
そうするとどうなるか?
当然、症状に注意を集中しているので、眠れません。
「なんだ、眠れないじゃないか」ということになります。

なぜ眠れないのか?
それはこの人が「症状をはかっている」からです。
症状をはかるとは、何かを実践しながら「もう治ったかな?軽くなったかな?」と自分の症状を観察すること。
それは、「精神交互作用」を増進し、症状はまだまだ苦しい状態のままとなります。

作業や仕事をするときもそうです。
「これで治るかな?」と作業をしていれば、同じように症状をはかっているので、苦しいままです。

だから症状を注視して、その苦痛を減らそうとする正攻法は、逆に症状に注意を集中することなり、神経症にはあまり効果がないのです。

作業する、仕事をする、楽しむ。
森田療法ではよくそう言われます。

しかし、これが森田療法の治療のプロセスだととらえて実行していたら、きっと苦しさは長引きます。

行動をしていくなかで「ものごと本位」になっているか?
好奇心を持ち、工夫できているか? そしてそれを楽しんでいるか?
周囲の人々への気遣いや配慮、優しさを持てているのか?

自分の人生を充実させるために症状を克服するのではない。
自分の人生が充実してきたら、症状は自然に消えるのです。

これが森田療法の大きな逆説です。

野の桜

T.H氏撮影

花冷えの日に

桜は満開なのに寒い毎日です。
先週でしたか、あの大きな地震のあと、関東地方では電力不足の警報が出ました。
つまり火力発電所が地震で故障してしまったのに寒くなったので、電力が足りない。
使用を控えてくれ、というお達しでした。

東京近郊などの集合住宅では、石油ストーブが使用できないところが殆ど。
ガスは湯沸かしにしか使えません。
火事を防ぐためにオール電化に近い生活を強いられているのに、こんな寒い日に電気が使えないというのは、どういうことでしょう。
電力不足をアピールして原発復活をねらうのでしょうか?

今回のロシアの侵攻を見ても、原発を持っていること自体がこわいことのように思います。
だってロシアは真っ先にチョルノービリを占拠した、つまり核燃料がほしい?
(幸い今は撤退したようですが)

まぁ、そんなこんなで、あろうことか戦争も始まってしまい、おまけに各地で地震が頻発し、春なのに異様に寒く、なんだか先行きがわからない昨今です。

さて、その夜は、警報に従ってエアコンは切り、寒い中コタツにしがみついていました。
そうすると、あまりに寒くて(寒がりです)、身動きするのもおっくうになってきます。

頭のなかに「この時間はもったいない。何かできることがあるんじゃないか」という声が聞こえてきます。
おまけに「活動が人生である」というような森田正馬の言葉を思い出してしまいました。
多分全集の第七巻あたりにあった言葉のような気がする・・・。
調べてみたいが、全集を本棚から出して開くのもおっくう。

葛藤が始まります。
「こんなことしていないで、コタツのなかでできることでもしなくちゃ」
「確かに、動かないと、それは生きていることにならないのかもしれない」
「森田先生は病気のときにも本を読んでもらったりしていた。あれが活動するということなのか。だったら、寒いくらいでコタツにしがみついて何もしないのは、どうなのだろう?」

これが、森田療法が「かくあるべし」に変換される瞬間です。
「こうしなければならない森田」です。

そうこうしているうちに葛藤はますます深まります。
「しなければならない」と「したくない」との葛藤です。
神経質は欲求が大きいので、両方あきらめられない。
どちらかに決められない。

葛藤が大きくなると、今度はこの葛藤自体が不快になります。
葛藤することがイヤ、だからこの葛藤をなんとかしようとする。
頭のなかはますます混沌としてきます。

脳内の闘いが続くと「しなければならない」という気持ちも大きくなり、「したくない」という気持ちも大きくなります。
脳内膠着状態。
不快感だけが増していきます。
これが強迫神経症のかたの頭のなかかもしれません。

ここで「では、どうしたらいい?」と問うと、また脳内が混沌化します。

葛藤も混沌もそのまま放置するしかない。
大体、思考や脳なんて、混沌としているものです。

その晩、しばらくたって「もう、停電はなさそう」という時間になりました。
とにかくあまりに寒く、私はどうにもしかたなく、お風呂で温まり、ついでに食器洗いをし、布団にもぐりこんだのでした。
たいした行動はできなかったけれど、風邪をひかずにすんだ。

私たちの日常は、そんなところでいいのではないのでしょうか。

さくら2022

T.H氏撮影

複雑さを嫌わない

森田療法のベースになる世界観は一元論です。
というのは、もういろいろなところで言っているので、ご存じのかたが多いと思います。
森田正馬自身も、形外会のなかでそう断言しています。

一元論というのは、非常に漠然とした言い方ですが、二項対立で世界をとらえない考え方のことです。

正邪、善悪、美醜、完全・不完全、幸不幸、勝ち負け、100か0か、好きか嫌いか。
これらは皆、二元論的な考え方です。
西洋的なものの考え方の根底にあるのは、ほとんどが二元論です。
これは一神教であるユダヤ教、キリスト教の影響と言われています。
教義の影響ではなく、世界の最初に「神と人」とがあり、常にこの二者で世界が語られるからだとか。

(もちろん「一元論」と「二元論」を対置するのも二元論なので、世界は究極、一元論に集約されていくもののようです)

たいていの場合、私たちは二元論的な考え方をしています。
そのほうがものごとのとらえ方がはっきりするし、簡単にわかったような気がするからです。
心のなかもすっきりします。
「あの人が悪い、あの人に責任がある、私に責任はない」
「これが正しい、だからこれをしない人は間違っている」

一元論は複雑で曖昧です。
全部がグレーゾーンになります。
観念化はなかなかむずかしい。
たくさんの言葉を費やして、ものごとを表現しなくてはなりません。
事実、事実、事実・・・です。

さて、森田療法が二元論を嫌う理由は上記で推測できたと思います。
二元論で決めつける、分かった気になる、それは教条化に通じます。
ものごとには様々な側面がある。
様々な側面を見れば簡単な決めつけはできない。

そのため、森田は神経症の人によく「具体的に言うように」と言います。
具体的に言うと、ものごとがそれほど簡単ではないことがわかる。
自分がいろいろな決めつけをしていたことに気付くのです。

例えば森田は「私は寝坊で困っています」という人にこういうふうに質問します。
「何時に起きるのか?」「何時に寝るのか?」
そして「そんなに遅く寝てその時間に起きるのは、決して寝坊ではない」と言います。
(記憶で書いていますので)多分、もっと早く寝ろとか、そういう指示はなかったと思います。
ただ「あなたが自分を寝坊というのは思い込みだ」と指摘しただけだったと思います。
「事実」ですね。

だから形外会での森田の話は、ほとんどがたとえ話や具体例です。
そうやって具体的に考えていくと二元論的に凝り固まった世界観が、すこしずつほぐれていく。
世界はもっと複雑だということが見えてくるのです。

世界の複雑さ、人の心の複雑さが見えるのは、面倒くさそうですが、二元論的な考え方をしていた人には新鮮な発見が多いのではないかと思います。

人の心も自然も世界も、もっともっと複雑なものです。
そして微妙なものです。
精妙に動いているものです。

そういう複雑で精妙なものを嫌わずに、決めつけずにもっと知ろうとする。
そうすると、私たちの知識も心の世界も深化していく。
それは私たち自身の成長にもつながるものだと思うのです。

*今年もブログをご愛読いただき、ありがとうございました。
 皆様にとって来年が素晴らしい年でありますように。

海、熱海

行動が可能性を開く


この言葉を書いた色紙をずっと家に飾ってあります。
これは、生活の発見会の実質的な創始者、長谷川洋三先生に毛筆で書いていただいた色紙です。
見事な字です。
長谷川洋三先生の字は、森田先生の字に似ています。
昔のかたは、本当に毛筆で見事な字を書かれます。

私は「純なこころ」のことをよく言うので、「行動、実践」については強調していないような印象を持たれるかたもいるかもしれません。
私が森田療法の感情に関する部分を強調するのは、行動を軽んじているわけではなく、むしろ今までの森田療法が、あまりに「行動」を強調しすぎて、それが森田療法だと勘違いするかたが多かったからです。

私もカウンセリングの初期には、「行動」をお勧めする場合が多いのです。
そこでカウンセリングをやめてしまうと、森田療法の深みがわからないまま「これが森田療法だ」と固定観念を持ってしまう場合もあるでしょう。

しかし行動を強調する森田は、「努力」を強調する部分とあいまって、えてして「根性論」になりがちです。
苦しいけれどひたすら実践し続けるのが「森田療法」という誤解が、世間には多いのです。
そういう誤解が生まれるのは神経質者の「教条」好きも一つの原因としてあります。
言葉が大好きなので、なんでも言葉に変換する。
そうすると、自分のものになったような気がして落ち着く。

本当に森田療法が自分のものになるのは、「体得」したときなのですけれど。

たとえば、この色紙の言葉にしても、「行動が」の部分に森田療法を見る人が多いかもしれませんが「可能性を開く」の部分が実は大切なのです。

実際に行動してみても、それが「症状を治す」わけではない。
自分自身の可能性が開かれたときに、症状はどうでもよくなるのです。

可能性というと、目を見張るような成果を想像するかもしれません。
そういう想像をするのも、言語偏重の人間の常ですね。

「可能性」は、「私」の可能性。
今まで症状や苦しみをなくすことばかりに目が行っていたけれど、なんだかいろいろなことに興味が出てきた。
自分のなかにこんなに好奇心があり、意欲があったのだと発見すること。
それが自分の可能性です。
たとえ何歳でも、どんな環境でも、私の「可能性」はある。

「行動」にしても、それは大げさなものではなく、本当に些細な日常の行動、いつもの仕事でいい。
実践するなかで、早く終える方法を試したり、苦手な人とうまくコミュニケーションする術を学んで実践してみたり・・・何か新しい工夫をするだけでいい。

本当はとても簡単なことから、「私の可能性」は開かれるのです。
神経質者はとにかく、いつも「精神の拮抗作用」のなかで「でも、でも・・」と迷ってばかりいて、手をつけること、前に進むことが苦手です。
思い切って腰をあげる。
そして実践したら、少しは良くなっただろうかという「症状のチェック」をせずに、成果のほうだけに目を向ける。

そうすれば、欲望が目覚め、自分自身の可能性に自然に気づいていくのです。

長谷川色紙 事実唯真

左 長谷川先生の色紙(菊地というのは結婚していた時の著者の苗字)
右 森田先生の色紙(コピー)

この瞬間の自分に任せる

先日、カウンセリングにいらっしゃったかたが、「この瞬間の自分に任せようと思う」という言葉をおっしゃいました。
名言だと思いました。

これができるなら本当に楽だろうと感じる方が多いでしょう。

自分に自信がないとき、あるいは自信がない場では、私たちの頭は過去と未来に占領されてしまいます。

あの時こんな失敗をした(過去)、だからこういうふうにしなくてはならない(未来)。
そうすると頭のなかは、過去の反省とこれからの行動方針とが入り混じる言葉のるつぼになってしまいます。
「次はこうして・・・・」「いや、あれも忘れたらいけない・・・」

たとえばその「自信のない場」が、人前で話すことだった場合、頭のなかは、自分が変に見えないかとか、声がうわずらないかとかいう心配や、それを防ぐための方策で手いっぱい。
「たった今の瞬間」に身を任せる姿勢にはなっていない。

ここで「たった今の瞬間に身を任せる」と書くと、今度は「どうしたらそうなれるんだろう」と反射的に考えるのが、神経質の特徴でしょう。

実は、私たちは普通に毎日こういう姿勢で生きているのです。

一瞬一瞬を言葉で設計して、考えて生きているわけではない。
時々、ある時間帯だけ、そのことを忘れてしまうのです。
極度に緊張しているとき、あるいは神経症状態のときです。

そしてそうなる根本の原因としては、「自分自身を信じきれない」という気持ちがあるのではと思います。

本当は、私たちの意識は、私たちが言葉で分析操作し切れるものではない。
意識の根底には「無意識」があり、経験によってそこに蓄積されたものが、一瞬一瞬の私たちを動かします。
そして私たちは、それに従って生きていいのです。

森田正馬は「(森田療法は)無意識を意識化してしまったものを、また無意識に戻していく」という趣旨のことを書いています。

わかりやすい例で言えば、もし階段の昇降を意識的に行おうとしたら、すぐにつまづいてしまうでしょう。
私たちはいつも無意識に、今までの経験から学んだ身体の動きに任せて、階段の昇降をしているのです。
そしてそれが一番安全な方法なのです。

神経症状態のときには、不安に押されて、自然な動きを言葉で区切り、分析し、計画し、解釈し、そうすることで「安心」しようとします。
もしかしたら「言葉」に変換することで、自分に扱えるものになったように錯覚するのかもしれません。

行動するときには、ただその目的を考えればいい。
自分がどこに向かおうとしているのかを考えればいい。

有名な森田のたとえにあるように「丸木橋を渡るときには、向こう岸を見つめればいい」のです。
そうすれば私たちは自然に、今この瞬間の自分に身を任せることになるのです。

彼岸花

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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