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回復と「純な心」

これから掲載する文章は、ある方(女性)からいただいた手紙の一節です。ご本人の許可を得て掲載しております。

このかたは、「生活の発見会」に所属なさっています。文章のなかに個人名が出てきますが、多分出しても大丈夫だろうと思うのでそのままにします。
私の名前も出てきますが、せっかく書いてくださったので、そのままにしております。

「私は森田を知って18年。でも回復したのはここ3年のことです。約15年はやってもやっても神経症から抜け出ることができず、このトンネルは一体どこまで続くのだろうかと、半ば絶望する日々でした。
私が回復したのは、「感情を大切に」「純な心で感じていい」ということを学びだしてからです。
それまでは「感情」「心」は放っておいて、やるべきことを果たしていくことだと、心をおざなりにし、行動へと注意を向けていました。それが森田療法だと教えられてきました。
とある機会があり、私は「生き生き森田ワークショップ」で使われている「初一念ノート」という方法を知りました。(注・その日感じたことを小さなノートに書きつける)私はやってみたいと思い、我流でしたが、それまで脇に置き続けてきた「私の気持ち」というものを、とにかく思うままに書く、書いては捨て、書いては捨てということを始めました。
どんなことも書きました。書きながら泣けてくる時もありました。怒りで鉛筆を折ったこともあります。とにかく書いても書いても、私のなかから次々といろいろな感情が出てきてとまらないのです。でも、ずっと心に溜めてきたものだったので、それらが不快というより、外に出してやれて、そのことで軽くなったこともたくさんありました。一体私はどれだけ自分の心をおざなりにしてきたんだろうと思う日々でした。
私が心を取り戻したきっかけをくれたのは「初一念ノート」でした。私には「行動森田」より「純な心」「感情を大切に」という考え方の方がしっくりし、何より心が納得していました。
そして3年前、稲垣朱郎さんの体験談を聞いたときに、とても大きな気づきがあり、その後、めきめきと回復することができました。15年わからなかった森田が一瞬にしてわかったというと大げさですが、でも本当にそんな感じでした。
森田先生に直接指導を受けたかたがたが亡くなったあと、森田療法の「言葉にならない部分」より、わかりやすい行動の部分ばかりが進んでしまったのかもしれません。でもその流れにいち早く気づき、警鐘を鳴らしてくださったのが、岩田真理さんだと思います。片輪走行になりかけていた森田療法に「感情」という大切な流れを取り戻してくださった。
私自身、そのおかげで長年の神経症から回復し、今、こんなに元気になることができました。本当に感謝しています。これからは「純な心」で感じ、私にできることを精一杯やっていこうと思っています」

引用させていただき、感謝です。

私が森田療法のなかの「純な心」、つまり「感情を大切にする」部分を強調し始めてから、様々なかたから、いろいろな反応をいただきました。

「純な心なんて、特別なものじゃない。ただの感情じゃないか」(注・その通りでもあるのですが)
「強迫神経症の治癒には、純な心はあまり関係がない」(注・強迫のかたは、感情を心の奥深くに埋め込んでいるので、むずかしく感じられるのです)
そしてこのかたと同じように、今まで行動ばかりで苦しかったけれど、自然な感情を認めることで、はじめて楽になったとおっしゃるかたがたくさん出てきてくださいました。

もちろん「純な心」ばかりが森田ではありません。
行動することも、自分の事実や客観的な事実に気づいていくことも大切。

ただ、森田療法において、「感情」はかなり大きな位置を占めていると思うのです。
なぜなら神経症のかたは、自分の「感情」をこわがっているから。

だから、感情を「流そう」とし(コントロールし)、感情から逃げようとするのです。
それが症状を悪化させます。
そしてそれが症状の原因です。

森田療法はそういう非常に微妙な心の動きを扱う治療法であり、考え方です。
ただ感情を無視して行動だけをすすめていくことは、行動自体が感情からの逃避法になってしまうことがあるのです。

そういう繊細な部分、心の機微を重視した部分を無視して、それが「森田療法」だと思っている人が多い。
そして、このかたのように長い間苦しんだり、あるいは「森田療法なんてこんなものか」と、嫌気がさして去って行ったりしたかたが、どれだけたくさんいるのだろうと思います。

非常に残念なことです。

繊細で微妙な本当の森田療法を、できるだけたくさんのかたに理解してほしい。
でも、自分の力も体力もまったく足りない。(理解も足りないかもしれない)
どうしたらいいのかなぁと、ふと考える今日この頃です。


スカイツリー相談室の窓から

欲望と不安

本日は、森田療法の根幹と言われる「欲望と不安」について。

森田療法を学習するときも、治療を受けるときも、本を読んでも、必ずこの「欲望と不安」という概念に行き当たります。

森田療法というのは一元論ですから、欲望と不安とは同じものであるという見方をします。
ある面から見ると「不安」ですが、また他の面から見ると「欲望」であるということ。
不安があるからには、必ず同じぐらいの大きさの欲望があるはずだということが前提にあります。

つまり欲望に沿って行動していけば、症状(不安)にそれほど煩わされなくなる。
それが森田療法の大きな前提です。

いろいろなかたとカウンセリングでお会いして、良くなっていくかたを見ると、リアルにこれが真実であるとわかります。

ところが、長い間(ときには何十年も)症状に悩んでいると、この「欲望」を全く見失ってしまうことがあります。
こんなときに「欲望」という言葉を使っても、「なんのことやら」という感じになります。
「この苦しみを取り除くことこそが自分の欲望」と思われるのも自然なことかもしれません。
不安という分厚い壁に阻まれて、目の前には何も見えない状態です。

森田正馬が行った入院療法は、そういう人たちを、自発的に自分の欲望に向かっていけるようにするためのものでした。

入院生が行っていたのは、何の変哲もない日常の家事などです。
でも彼らの大半は元気になって退院していきました。

これは私見ですが、彼らはきっと「自分の人生に関わる大きな欲望」を探し当てたわけではないように思うのです。

「欲望」と言葉で言われると、私たちは「〇〇の達成」とか「〇〇の取得」とか、大きな成果をイメージしがちです。
そういうものを探していると、いつまでも「欲望」と言われるものに行き当たらない。
「まだダメ」「まだまだ」という不全感をつのらせていくばかりだと思うのです。

森田がやったことは、その大それた野望を日常の些事へと向け替えることでした。
入院生が行ったことは、部屋の掃除や台所仕事、そんなことばかりです。

しかしそれがイヤイヤながらの仕事ではなく、楽しみになってくる。
もちろん、入院森田ですので「絶対臥褥」があり、その時点で不安障害の人は、「何かをやりたい」という意欲をかきたてられた状態になっています。

そして細かく仕事を指示されるのではなく、自分が仕事を探し、工夫をしていくという状況に置かれる。
その作業は観念的に「欲望を見つける」作業ではなく、自発性、自然な意欲を掘り起こしていく作業でした。

多分彼らは「人生の目的」や「達成すべき欲望」を見つけたわけではなく、自分のなかに自然に湧き上がってくる「何かをやりたい」という気持ち、好奇心、自分発の意欲のようなものを見つけたのだと思います。

そしてそれは、「不安」を持つ人なら誰でも持ち合わせている。
なぜなら、それは不安の裏側にいつも存在していたものだからです。

何かほんの少しの家事、ささいな仕事を達成したときに感じる喜び。
それが誘い水のようになって、次々に何かをしたいという意欲が湧きあがってくる。

大きな目標を達成しなくても、社会的に偉くなどならなくても、目の前のことを工夫してこなしていくことで、毎日は喜びに満ちたものになり得る。

森田正馬の行っていた治療とは、きっとそういうものだったと思うのです。

五月のバラ

苦楽共存

森田正馬の言葉を読んでいて、面白いと思うのは、「~しなさい」というような直接的な指示があまりないことです。

つまり、抽象的なことを言う場合が少ない。
何かをしなさいと言うときは、かなり具体的です。

そして自分の状態などを、たとえにして表現することはあるけれど、「だからこういうふうにしなさい」とは、言わない。

例をあげれば、森田療法では、あまり「感謝」とか「愛」とかの言葉は使わない。
でも、森田正馬自身は、自分の事実として感謝や愛を語っています。
だからと言って、宗教家みたいに「感謝しましょう」とか「人を愛しなさい」とは決して言わない。
そこが非常に面白いところだと、私は思っています。

「私のユートピアは、今度の私の旅行(熊本行)における心境のように、その時どきの現在における感謝と希望との幸福感の体験であるのである。この故に私は病気の時でも、登山の苦痛の時でも、希望の蹉跌した時でも、私のユートピアがあるのである。「苦楽共存」という言葉があるが、苦楽は「あざなえる縄のごとし」ともいい、互いに関連して、取り離すことはできないものである。否それよりも苦楽は、同一事の両面の見方であるといったほうがよいと思う」(全集5巻 168頁)

「苦楽共存」。ここで私は、水が半分入ったコップをイメージしてしまいました。

なぜかわかりませんが、神経症のかたがたは、すごく悲観的ですね。
コップに水が半分あれば、必ずなくなったもう半分の水を惜しむようです。
まだ残っているほうは見ない。

ものごとはすべて「中立」で、その人の見方や扱い方によって悲劇にも幸福にもなる。
ここで森田の言っていることはそういうことです。

どうも症状真っ最中のかたは、残っている水に感謝することをあまりしないようです。

実は本当はすごく恵まれているかもしれない。
これだけ症状が重くても、なんとか生活することができる。
たとえば、ひきこもりの息子がいたとしても、生きていてくれることに「ありがとう」と感じることもあってもいい。
仕事がなくても、いろいろな補助で生きていける。
病気でも、治療のおかげで、まだ活動することができる。

いろいろなところに「まだ残っている水」を探すことができるでしょう。

今までの森田療法ではあまりそんな考え方をしろとは言われません。
「こうしろ」というと、それが「思想の矛盾」や「教条」になってしまうので、その点は非常に注意深くしなくてはいけないのです。

でも森田正馬は、自分のことを話し、自分の事実をひとつの見本にした人です。
「こうしろ」とはあまり言わなかったけれど、彼の態度を見て学んでほしかったのだと思います。

そう考えると、森田正馬から学べることは、まだまだたくさんありそうです。

この「苦楽共存」。
あまりにも自分の思考が暗い方に傾いたときは、コップに残っているもう半分の水に感謝することも、元気を取り戻すひとつのヒントになるかもしれません。


神田祭り 
神田明神のお祭りに行きました。この巨大な像は誰なんでしょう? 
平将門?

自分が神経症だとわからなかった・・・

私の相談室にいらっしゃるのは、神経症(不安障害)のかたが多いのですが、いろいろな段階のかたがいらっしゃいます。

本や、グループですでに森田療法を知って概略はわかっている。症状も、かつての強烈さはないけれど、今一つすっきりしないので一対一のセッションを持ちたいと思っていらっしゃるかた。
もっと自分の性格を知りたいと思っていらっしゃるかた。
森田療法を学びたいと思っていらっしゃるかた。

ただやはり多いのは「自分が神経症と初めてわかった」という人。
もう10年も20年も、なんだかわからない状態にいて、苦しくてたまらなかったけれど、それが「不安」が原因で起こっていることだとは思わなかったというかたです。

自分の身体の具合が悪い。
フラフラする、ドキドキする。眠れない。
どうしても自分の目つきが他人に迷惑をかけていると信じていて、その目つきをどうにかしたら、楽になると思っていたかた。
耳鳴りが気になり、医者巡りをしていたというかた。
自分が、非常に不快な匂いを出していて、その匂いをどうにかしなくてはと、苦しみ続けていたかた。
自分の顔が醜くて、他の人から好かれないと思ってずっと悩みつづけたかた。

それが「不安障害(神経症)」であって、こういうことで悩むのは自分だけではなかったのだと理解できると、それだけで気持ちが少し明るくなります。

不安障害には、きちんと治る治療法があります。
むしろ、不安障害は精神的な悩みのなかでも、一番治る道筋がはっきりしているものかもしれません。
それだけに、長い年月を「わけのわからない悩み」に閉じ込められて生きてしまうのは、もったいないことです。

まずは悩んだらきちんと話を聞いてくれるお医者さまに行くのもひとつの方法です。
お医者様は診断をしてくれます。
(できれば森田療法を知っているお医者様なら誤診される心配がありません)
そして、もっと話を聞いてほしいということであれば、カウンセリングにいらっしゃってください。

10年、20年悩んだ症状でも、治るのにそれほど時間はかかりません。
そのかたの状態にもよりますが、10~20回のカウンセリングで落ち着きます。
(これは、「森田療法ガイドライン」などに載っている標準の回数です。私の感触でも同じです)

元号が変わり、時代の節目と人は大騒ぎしています。
せっかく新しい時代になるのですから、もう悩みとは決別するという希望を持ちたいですね。

今回はちょっと宣伝が入っている感じですが、長く悩んでいるかたに、ぜひ楽になっていただきたいと、書いてみました。



hello

視野狭窄と無所住心

またまたブログの間隔が空いてしまいました。

皆様もそうだと思うのですが、今は年度末。
確定申告なども重なり、お忙しい時期だと思います。

私も何やかやと本業以外で忙しく、どうもそういう時期には目の前のこと以外のことは考えられなくなります。
こういうのを「視野狭窄」というのだなと感じました。

しかし「視野狭窄」になるのは、忙しいときだけではありません。
神経症(不安障害)真っ最中のかたは、視野狭窄になっています。
依存症のかたも、依存しているもの以外のことには目が向かなくなります。
うつ状態のときにも、悩み以外の広い世界のことは目に入りません。

つまり自分の見ている対象の外に広がる世界に気づきにくくなっています。

極端なことを言えば、春が来ようが、桜が咲こうが、そんなことは意識の外になってしまいます。
自分の悩みだけ、自分の症状だけ、自分の依存している対象だけが視界にある状態。

なるほど、こんなときのために森田療法の「無所住心」という言葉があるのだなと思いました。

森田療法の作業的な部分を見ると、何か「目の前のことに集中しろ」と言われているような感じがします。
ところがそうではないのです。

「無所住心」というのは、過集中、視野狭窄を避けるための言葉でしょう。

もちろんこれは禅の言葉ですが、森田自身は武術家でもあったので、たとえに武術の例を出しています。

不安定でいることで、四方八方に注意が行きわたる。
たとえば、スポーツをしているとき、チームプレーなどでは特にそうですが、各々の持ち場の選手は、自分のことにだけ集中しているわけにはいかない。
どこからボールがくるかわからないし、自分のチームのメンバーがどういう状態でいるかも把握しなくてはならない。
安心してボーッと立っているわけにはいかないのです。
いつでも心を四方八方に働かせなくてはならない。

それが「無所住心」の状態です。

実は実生活も、そんなものです。
自分のことばかり考えて、他のことをお留守にしていたら、周囲のいろいろなことを見逃したり、感じなかったりします。

人生がひとつのことだけをめぐって展開され、他の広い社会の動きや、本当の自分の立場なども認識できない。
無駄な時間が過ぎてゆきます。

そんなとき、私たちの心は、住処を一つに決めて、そこに安住して動こうとしない状態。
きっと、それ以外の場所はこわいという気持ちもあるのかなと思います。

心はどこにも住まない。
心はどこにも住処を定めず、自由自在に動いて流れていく。

なかなかいい言葉です。


春の樹

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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