時々対人恐怖のかたのお話をお聞きしていて、あれ?と思うことがあります。
例えば「親しい友人ができない」「皆は楽しそうに集まっているのに、私だけひとり」。
そんな訴えをよく聞きます。
そういう言葉を聞くと「じゃ、こういうふうにしてみたら?」と言いたくなるのが、人の常。
こちらからそういうお話も、もちろんします。
けれど、よく考えてみると、これは微妙に違うような気がします。
「人と仲良くなる」「友人をたくさん作る」のが大目標になっている。
普通、人は「友人を作ろう」と思って人と付き合うのではないような気がします。
友人や親しい人は、社会生活をしていると「自然に」できるものではないでしょうか。
そういうと、対人恐怖のかたは「私は自然に友人ができたことなんかない」と絶望するかもしれません。
それは、あまりに「作ろう」と意識しすぎるからかもしれませんね。
そういう考え方になると、どうも主体は「自分」になってくるようです。
つまり、自分が仲間になろう、自分の友人を獲得しよう、そういう指向です。
あなたは何のために「その場」にいるのでしょうね?
仕事をスムーズに進めるために職場にいるのでしょうし、グループにいるときは人の話を聞くためです。
皆が仕事や、相手の話に集中しているときに、自分だけ自分のことばかり考えている。
そうしたら、人と「一緒にいる」感覚がなくなるのも当然です。
つまり、その場での「目指すところ」が違うのですね。
仕事は仕事の遂行のためにあるのであって、自分のためにあるのではありません。
集いにはその場の目的があり、関心を向けあうという雰囲気があり、必ずしも自分のためにあるわけではありません。
他の人と一緒に「その場での目標」に目を向けたら、おのずから、人と仲良くなれるし、人との一体感も経験できるのです。
「目指すところが違う」のは、対人恐怖の人にだけ当てはまるわけではありません。
たとえば強迫神経症にしても、こだわっているところは、実はまったく見当はずれなのです。
自分が安心して楽しく幸せに暮らしたい、仕事で活躍したい、もっといい仕事をしてステップアップしたい。
それなのに、見当違いのところが気になって、それにとらわれてしまった。
その根底には(あるいは発端には)人生に対する向上欲求、幸福追求の欲求があるのです。
それがなければ、神経症(不安障害)にはなりませんから。
今、自分が一生懸命解決しようと努力している問題は、少しピントがずれたところを目指しているのかもしれない。
とりあえず今現在の自分の環境、境遇のなかでの役割を果たし、その目的を周囲と共有することで人との融和も達成されるし、果たした仕事の達成感も得られる。
そのプロセスのなかで、神経症的な悩みは自然に消えてゆくのだと思います。
面白い新聞記事を読みました。
最近の話です。
アフリカで開催されたとある会議。
この会議の主催国は日本だったそうです。
各国の代表団がいるなか、日本代表団だけが全員マスクをしていたそうです。
そしてそれを見たまわりの人たちは笑い、スマホで写真を撮る人もいたとか。
(この記事のテーマは他にあって、日本の影響力の低下だったと思いますが。)
さて、これを読んであなたはどう感じたでしょうか?
そしてご自身だったらどうしますか?
神経症になるかたたちは、自分が「変」であることを極度に恐れています。
こんなことを気にしているのは、世界中で自分一人だけだと思い、その自分の特殊さに恐怖するのです。
ですから、なるべく「変」でないように振舞おうと思い、かえって緊張し、不自然な態度になってしまうのです。
神経質の人たちの集団で、よく囁かれる陰口は「あの人、変よね」というもの。
同質であることで安心するので、ちょっとでも違う人は「変」という、自分が一番言われたくない表現でけなす。
ところが、この「変」であることを嫌う心性というのは、実は「特別でありたい」という心性と同根です(一元論ですよね)。
ですから、本当は(人から認められる形で)目立ちたいという気持ちもあるのです。
さて、変か変でないかという価値基準は、その属する集団によって違ってきます。
「自分は変」と感じさせる多様な人のいる集団では緊張し、同質の集団ではリラックスします。
ですから、自然と行動は内向きになりますね。
けれど、本当はそんな価値観から自由になりたいと思っている人が多いのではないでしょうか?
でも、どうしていいかわからない。
ここでちょっと考えてみましょう。
森田正馬は生前、人から見たら「変」と思われることをした人でした。
もちろん、その行動は奇矯であっても、「合理性」に基づいたものでした。
医学博士であり、大学教授なのに、こんなことする?――という類のことです。
ただ、なんだか「あえてやっていた感」も漂っています。
入院生に見せるという目的もあったのではないかと、私は思っています。
自分の行動を他人の価値観や、他人の目にゆだねないという覚悟でしょう。
それを表した森田の言葉に「唯我独尊」というものがあります。
結構むずかしい言葉だと思いますし、いろいろな解釈ができそうです。
「自分の思惑を人と比較する必要は少しもない」(全集5巻292頁)
つまりどんなことを思い悩んでも、迷っても、それでいい。そこから自分独自のものが生まれてくる、ということでしょうか。
意訳すれば、「自分の頭で考えましょう」とも言えます。
ここで冒頭のマスク集団の話にかえりましょう。
彼らはその後、どんなふうにふるまったのでしょうね?
コロナの状況をふまえて、あるいは自分の帰属する集団に忠実であるためにマスクをし続けたのか、笑われるのがいやではずしたか?
一方で、自分たちと違う集団のことを「変だから」と笑ったり、写真をとったりすることも、やはり「変である」ことにとらわれている行動ではないかなと思うのです。
白い彼岸花、変種でも美しい
どなたか調べたところによると、森田正馬全集5巻(形外会の記録)で、森田自身が一番使用している森田用語は「思想の矛盾」なのだそうです。
それだけ、森田にとっては大切なワードだったんですね。
私もこのところ、この「思想の矛盾」を自覚することが、「神経質性格の陶冶」に必須のことなのではないかと思うようになってきました。
「陶冶」というのは、その性格を成熟したものにしていくという意味だと思います。
たとえ症状を克服しても、それですべてOKというわけではない。
長い間、ひとつのことに集中して、自分のことにばかりかまけていたわけですから、知らないこと、気づいていないこと、社会に適応できていないことなど多々あるという自覚は必要です。
その一つが、「思想の矛盾」です。
「かくあるべし」とも言い換えられます。
神経質の中でも、性格に様々なバリエーションがありますが、この「かくあるべし」が非常に強いかたもいるようです。
これは言い換えれば「自分のなかの規則」です。
私が度々出す例ですが、とある人が、「待ち合わせには必ず10分前に行かなくてはならない」という「かくあるべし」を持っていたとします。
自分がこれを守っているぶんには、それはそれでいいと思います。
けれど、こういう人は、他の人もこれを守るべきだと(無意識に)思っています。
だから相手が遅れてくると、口に出さないまでも、ものすごい怒りを感じる。
本当は、「純な心」的には、相手が遅れたら、心配が先にきていいはずなのです。
「どうしたんだろう?」「交通機関が遅れたかな?」という感じがあるはず。
ところが、「こんなに人を待たせておいて、非常識だ」という怒りがきてしまい、その後、相手につんけんした態度をしてしまう。
待ち合わせの時間などもケースバイケース。
大事な会議、会合、飛行機の時間などはもちろん遅れないように気をつけるべき。
場によって厳しさや緩さは違っていいはずです。
別に法律で決まっているわけではない。
「出された食事は全部食べるのが当たり前」と言われて育った人は、たくさん残す人を「無作法」と感じるでしょう。
だから相手が食べたくもないのに、「まだ残っているよ」と強要したりします。
(ちなみに、私自身は小食でなおかつお腹が弱いので食べられないものがたくさんあり、この手の強要に、辟易したことが多々あります。)
これだって、その家の文化というだけで、誰にでも共通するものではありません。
その人にとっての「かくあるべし」はたくさんあり、たくさんあればあるほど、その「かくあるべし」を守らない相手に対して怒りを感じることが多くなるでしょう。
非常に厳しく相手を裁くことになりがちですし、たとえ口に出さなくても、厳しく見られた相手は、息苦しさを感じるでしょう。
神経質の人が、なんとなく人と親しめないと感じるのは、こんな部分もあるのではないでしょうか?
つまり、自分に厳しいだけではなく、その「かくあるべし」を守らない人々にも反発を感じる。
その「かくあるべし」を緩めていくのは、やはり「相手の身になって考える」「相手に共感する」ということを重ねていくことではないかと思います。
(神経質の人だけでなく)いろいろな人と交わって、その人たちのやることを見てみる。
そして、世間は自分が考えているほど厳しいところではないと、実感していくことです。
カウンセリングにいらっしゃるかたのなかには、神経症、あるいはほかの悩みとずっと格闘していて、現実生活が何も前に進んでいない人がいます。
症状が治ってから、きちんとした仕事に就こう、と思ったり。
仕事は何とかこなしている。でも形だけ。
新しい資格やポジションに挑戦するのは、治ってからにしよう。
結婚をしたいけれど、まだ自信がない。
悩みが軽くなって、自分に自信がついてからにしよう。
悩みが理由ではなくても、こんな例もあります。
資格試験に挑戦したいけれど、あと何年か勉強してからにしよう。
「悪い点数は見たくない。完全に受かる自信がついてから挑戦しよう」という心理があるので、試験やチャレンジを先延ばしするという心理です。
それだけでなく、誰にでも「先延ばし癖」というものがあります。
掃除をしなくてはならないけれど、面倒だから明日にしよう。
これを片付けなくてはならないけれど、時間がかかりそうだから、また今度にしよう。
これはある意味、「イヤな感じ」「面倒そうなこと」に直面しないための心のやりくりです。
実際にとりかかって、やってみれば意外に簡単にできたりします。
この「先延ばし癖」と神経症の「症状」とは、共通点があるような気もします。
それはまた考察することにして・・・。
とにかく何でも「保留」にしたがる癖が人間にはあるようです。
特に神経症の場合、闘って治そうとしている限り治りませんから、何年も時間がたってしまいます。
人生を保留にしたまま何年も・・・。
実際、10年、20年症状のために同じところにとどまっているという方もいます。
オソロシイことです。
森田療法の考え方は「何があっても人生を保留にしない」ということです。
病床で熱のあるときも、看護の人に本を音読してもらったという森田正馬のエピソードがあります。
彼はこういう行動で、「どんな状態、状況でも、できることがあればそれをする」という姿勢を示したかったのだと思います。
そんな考え方があるからこそ、森田療法は障がいのある人、慢性病のある人、難病の人の生き方の指針になっているのだと思います。
そうやってほんの少しのことでも、今できること、やりたいことを前に進めていく。
そうするとその人が、生き生きしてきます。
自分の人生を前に進める行動が、その人の「生きたい」という意欲を引き出し、自然治癒力を高めていくのです。
もちろん神経症の症状も同じことです。
この苦しさを消してからではない。
苦しさを消すために人生を保留にしていたら、あっという間に時間が尽きてしまいます。
やりたいことは今やる。
そして現実に起きてくることを受け止め、取り組んでいくことによって、私たちはだんだん「生きている実感」を得て、自分が歩みたかった人生の軌道に戻っていくことができるのです。
先日、メンタルヘルス岡本記念財団の体験フォーラム(ZOOM開催)で、森田療法が「逆説療法」という話をしました。
もちろん森田療法が「逆説療法」であることは、いろいろな書物で見聞きされていることと思います。
そもそも「症状を治さない」こと自体が逆説ですけれどね。
森田は時として(「いつでも」ではありません)診察で、患者に対してこんなことを言います。
不眠の人には「試しに今夜は眠らないでいてください」。
心臓神経症の人に対して「今夜は一番発作が起こりやすい姿勢で寝て発作を起こし、それを観察して報告してください」。
もうおわかりと思いますが、こう指示された患者は、その夜はぐっすり眠れ、心臓神経症の発作は起こりません。
これと同じような「逆説療法」を、ミルトン・エリクソンもやっています。
けれど現代では、こういう直接的な逆説療法はむずかしい。
なぜなら、治療者は昔ほど権威的ではなく、患者はインターネットなどであらゆることを検索して知識を蓄えてやってくるからです。
もし同じような指示を出されたとしたら、きっと「そうか、それをすれば症状は治るんだな!」と考えるに違いないと思います。
そうして眠らない努力をしながら「きっと眠れる、眠れる!」と思うのではないでしょうか。
そうするとどうなるか?
当然、症状に注意を集中しているので、眠れません。
「なんだ、眠れないじゃないか」ということになります。
なぜ眠れないのか?
それはこの人が「症状をはかっている」からです。
症状をはかるとは、何かを実践しながら「もう治ったかな?軽くなったかな?」と自分の症状を観察すること。
それは、「精神交互作用」を増進し、症状はまだまだ苦しい状態のままとなります。
作業や仕事をするときもそうです。
「これで治るかな?」と作業をしていれば、同じように症状をはかっているので、苦しいままです。
だから症状を注視して、その苦痛を減らそうとする正攻法は、逆に症状に注意を集中することなり、神経症にはあまり効果がないのです。
作業する、仕事をする、楽しむ。
森田療法ではよくそう言われます。
しかし、これが森田療法の治療のプロセスだととらえて実行していたら、きっと苦しさは長引きます。
行動をしていくなかで「ものごと本位」になっているか?
好奇心を持ち、工夫できているか? そしてそれを楽しんでいるか?
周囲の人々への気遣いや配慮、優しさを持てているのか?
自分の人生を充実させるために症状を克服するのではない。
自分の人生が充実してきたら、症状は自然に消えるのです。
これが森田療法の大きな逆説です。
T.H氏撮影