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森田療法が誤解される理由 その2

なんだか、ようやく気候が安定してきた感のある今日この頃。
こうやって毎年、天候のことを心配しなくてはならない時代になってしまったのですね。

さて、誤解される理由・後編です。

今回は、森田療法を学ぶ側の思考のクセについて。

森田療法を学ぶ神経質のかたは、たいていの場合、知的なかたです。
知的ということは、言語や観念での理解には長けているということ。
頭脳が発達しているかたと言っていいでしょう。

そしてどちらかというと、ややこしい考え方をする(というより「してしまう」)のですね。
たとえば、何かを思うとすぐにそれと反対のことを思う、あるいはすぐに反証してしまうとかいうこと。(精神の拮抗作用)
誰にでもあることですが、それが特に多いし、なおかつそれをつかまえる。
だから頭のなかがいつも忙しいわけです。

そんな人たちが森田正馬の原典を読むと、それを自分の思考形態に合わせて解釈することになります。

原典の森田の言葉は、非常に具体的です。
むしろ森田正馬は、話が抽象的にならないように細心の注意を払っています。
抽象的になった場合は、わざわざ謝るぐらいに気をつかっています。

それは彼が、神経質者の観念性、教条性を非常によく理解していたからではないでしょうか。
ときたまお弟子さんたちを叱るときも、「森田のいうことを観念化する!」とか「教条化する」とか指摘していました。

つまり神経質者は、言葉が達者なだけではなく、言葉にとらわれる人たちなのです。
まず言葉が先にくる。
それをもとに、そこから行動をする。

「森田療法は日常実践」という言葉を聞くと、「実践する」⇒「実践しよう」⇒「実践しなくてはならない」というふうに脳内変換していく。
そうしてからものごとにとりかかるのですから、もうそこに「しなければならない」に伴う「嫌な感じ」が出てくる。
そして「森田の実践は苦しい」という観念ができあがる。

余談ですが、とある初心者がグループに出席したところ、年長者のかたに「森田療法はそんな甘いものじゃない!」と一喝されたそうです。
こういう年長者のかたも、「しなければならないこと」を刻苦して実践していくというのが森田療法、という観念が出来上がってしまっているのでしょう。
初心者にとっては、残念なことです。

「実践」と言われたときに、「あぁ、そうか」と納得してすぐに動き始める人が「素直な人」で、森田正馬は「素直な人は早く治る」と言っています。

動いてみれば、何かの感じが出てくる。
そしてその感じがまた身体を動かす。
そこから実際の興味・関心が湧いてきて、実践をしていくことがなんら苦痛ではなくなっていく。

現実の世界で動いていくことが、その人の現実的な成果になり(たとえささやかなものでも)、またその人を前に動かしていく。
その境地に行きつくのを助けるのが森田療法。

でもね、それでは「こういうふうになろう。どうしたらなれるか」と考え始めると、同じところに戻ってしまうのですよ。
そこが「言葉人間」にとっての森田療法のむずかしさ。

グループなどで、自分のしたこと、具体例で森田療法を伝えられればいいのですが、観念化したり教条化した森田を伝えることが多いと、森田療法がどんどん誤解されていくのかなと思います。

すすき



森田療法についての疑問などもお気軽にご相談ください ⇒ お茶の水セラピールーム

森田療法が誤解される理由 その1

*台風19号で被災されたかたにお見舞い申し上げます。予期しない災害でお困りのかたも多いことと思います。なるべく早くもとの日常に戻れますようお祈りしております。


さてこのところ、長い間森田療法を自分で学習していながら、まったく楽になっていないという方々と接する機会が多くありました。

そのかたたちの苦しかった年月のことを思い、無駄にしてしまった時間を思うと、とても残念な気がしています。
なぜなら、森田療法による神経症からの回復は、それほど時間のかかるものとは思えないからです。

どうしてそうなってしまうのか、その理由を少し真剣に考えてみようと思いました。

森田療法に対する誤解の代表的なものは、これが「行動療法」的なものであるというとらえかた。
簡単に言ってしまえば、「なすべきをなす」行動をしていれば、「神経症の症状」は楽になっていく、というもの。

今回はそれについて、考えてみましょう。

実のところ、森田療法がそういうものだと言われていた時代もあったのです。
一見、とてもわかりやすいように見える。誰にでもできそうです。
必ずしも間違っているわけではなく、第一歩として行動から始めることも必要です。
それで楽になっていく人もいるでしょう。

けれど、森田療法はそういう行動と同時に、自分の自然な意欲・欲求を湧き上がらせる方向にその人を導くのです。
そのためには、自分の感じ、感情を大切にし、人間の心がどのように動いていくのかを理解し、自覚を深め、環境に適応していく、そして現実をしっかりと見られるようになることが大切です。

しかし、人間の心の機微に対して働きかけるそのような部分を全く飛ばして、とにかく行動する、努力する、湧き上がってくる感情を無視して突き進む。
これが森田療法だと思うのが、最も多い誤解ではないでしょうか。

湧いてくる自分の感情を嫌悪するのが神経症の人の特徴。
ですから、このいやな感じを消したい、行動したら消えると思って行動する。
そうすると必ず自分の気持ちに対して「症状は消えたかな?」というチェックが入る。これがますます症状を増悪させるのです。

ですからいくら行動しても、ちっとも楽にはならない場合も多いのです。

なぜそんな方向になってしまうのでしょう。
ひとつには森田療法に対する知識が偏っていること。

たとえばグループなどで、症状の苦しさを訴える。
そのとき神経質の人は「どうしたらいいんですか?」と必ず尋ねるのです。
苦しそうな相手を見て、先輩はやはり何とかしてあげたいと思う。
そんな時に「苦痛は苦痛のまま・・」などとは言いにくい。
そんな答えだったら、相手は「なんだ、楽にならないのか」とあきらめてしまうでしょう。
ですから、行動を勧めたり、生活を正していくアプローチをアドバイスしたりということになります。

私などもカウンセリングの際、最初はやはり身体を動かすアプローチをお勧めする場合があります。
でも、何回も来てくれれば、そのなかでだんだん森田療法の本当に意図することを伝えることができます。

けれど、これから深めてもらおうと思っても、悩んでいるかたがそこで学ぶのをやめてしまえば、「行動アプローチ」だけが森田療法と思ってしまうことも多いでしょう。

行動アプローチから森田療法に入っても、その行動を「義務」と感じたり、治すための行動であれば、その人の意欲は、いつまでたっても押しつぶされたままです。

そのあたりの機微を言葉で伝えるのはむずかしい。
最初はとにかく、「必ず楽になります」「森田療法はまだまだ先があります。離れないで学んでください」というしかないのかなと、思ったりします。



空

無理せず動く

8月末から先日まで、いろいろなところへ旅していました。

まずは、中国蕪湖市で開催された国際森田療法学会へ。
今回、発表はしませんでしたが、中国での森田療法が盛んなことと、ホテルなどのスケールの大きさにびっくり。

9月末には、岡山市での生活の発見会瀬戸内研修会へ。
なつかしい方々にお会いできました。
このときの私の話はそのうち、原稿化する予定です。

そして先週は、浜松市での日本森田療法学会に参加してきました。

かなりタイトなスケジュールでしたが、なんとか乗り切りました。

昔から、無理はしないようにしています。
自分の身体のほうも、オーバーワークだとすぐ感知できるようになっていて、風邪をひいたり、お腹をこわしたりします。
それで、すぐ休養をとります。
そのためか、この歳でも、あまり大きな病気は見つかっていません。

今年もタイトなスケジュールを見越して、中国でも浜松でも、学会発表はやめておきました。
何か発表したりするという予定があると、寝ても覚めてもそっちのほうに気持ちが行ってしまうので、気持ちだけでくたびれます。

そういう自分の傾向を知っているので、ブレーキを踏めるようになってきました。

時々思うのですが、神経質傾向のかたで、行動できるようになってくると、欲望が目覚め、無理をなさるかたがいらっしゃるような気がします。

不安タイプ(パニック発作のかたも)は、もともと行動ができるので、発症の前にかなりの行動をして自分の身体に負荷をかけ、それが不安発作の原因になっているかたが殆どです。
こういうかたに「行動」を促しても悪化するだけです。
この場合、不安発作はむしろ「休め」という身体からの警告ですから、それに素直に従って休まなくてはならない。

それぞれの神経症タイプによって、身体への向き合いかたが違うように思います。

どんなタイプでも、「思考」が優先するのが特徴ですから、身体より頭が「こうしなくてはならない」と思う事のほうが先にくるようです。

「かくあるべし」と「欲望」で突っ走るタイプと、「不快感」を重視してなるべく行動しないタイプのかたがいるような気がします。

身体の本当の声を聴くことができるようになるには、どんなところが自分の実際の身体能力かを見極めること。

「こうしなくてはならない」「こうしたい」と思って行動している自分がいるのは当然。
ただ、その経験の持続のなかで、自分の現実を振り返ってみる。

無理だと思っていたことができた。そういう体験も大切。
欲望のままにやってみたけれど、身体はヘトヘト。そういう体験にも気づく。

そのような体験のなかで、自分には無限の能力も無限の体力もないことがわかるでしょう。
そうしたら、あとは、どうしたら自分の現実の体力と折り合いをつけていくのか、自分の現実の能力でできることは何なのか考える。

身体の事実、能力の事実を見ることは、神経質の人には結構むずかしいことです。

とにかく、無理せず、でもなんとか動く。
そんなふうに毎日を過ごせたらと思っています。


中国

中国蕪湖市のお寺で

回復と「純な心」

これから掲載する文章は、ある方(女性)からいただいた手紙の一節です。ご本人の許可を得て掲載しております。

このかたは、「生活の発見会」に所属なさっています。文章のなかに個人名が出てきますが、多分出しても大丈夫だろうと思うのでそのままにします。
私の名前も出てきますが、せっかく書いてくださったので、そのままにしております。

「私は森田を知って18年。でも回復したのはここ3年のことです。約15年はやってもやっても神経症から抜け出ることができず、このトンネルは一体どこまで続くのだろうかと、半ば絶望する日々でした。
私が回復したのは、「感情を大切に」「純な心で感じていい」ということを学びだしてからです。
それまでは「感情」「心」は放っておいて、やるべきことを果たしていくことだと、心をおざなりにし、行動へと注意を向けていました。それが森田療法だと教えられてきました。
とある機会があり、私は「生き生き森田ワークショップ」で使われている「初一念ノート」という方法を知りました。(注・その日感じたことを小さなノートに書きつける)私はやってみたいと思い、我流でしたが、それまで脇に置き続けてきた「私の気持ち」というものを、とにかく思うままに書く、書いては捨て、書いては捨てということを始めました。
どんなことも書きました。書きながら泣けてくる時もありました。怒りで鉛筆を折ったこともあります。とにかく書いても書いても、私のなかから次々といろいろな感情が出てきてとまらないのです。でも、ずっと心に溜めてきたものだったので、それらが不快というより、外に出してやれて、そのことで軽くなったこともたくさんありました。一体私はどれだけ自分の心をおざなりにしてきたんだろうと思う日々でした。
私が心を取り戻したきっかけをくれたのは「初一念ノート」でした。私には「行動森田」より「純な心」「感情を大切に」という考え方の方がしっくりし、何より心が納得していました。
そして3年前、稲垣朱郎さんの体験談を聞いたときに、とても大きな気づきがあり、その後、めきめきと回復することができました。15年わからなかった森田が一瞬にしてわかったというと大げさですが、でも本当にそんな感じでした。
森田先生に直接指導を受けたかたがたが亡くなったあと、森田療法の「言葉にならない部分」より、わかりやすい行動の部分ばかりが進んでしまったのかもしれません。でもその流れにいち早く気づき、警鐘を鳴らしてくださったのが、岩田真理さんだと思います。片輪走行になりかけていた森田療法に「感情」という大切な流れを取り戻してくださった。
私自身、そのおかげで長年の神経症から回復し、今、こんなに元気になることができました。本当に感謝しています。これからは「純な心」で感じ、私にできることを精一杯やっていこうと思っています」

引用させていただき、感謝です。

私が森田療法のなかの「純な心」、つまり「感情を大切にする」部分を強調し始めてから、様々なかたから、いろいろな反応をいただきました。

「純な心なんて、特別なものじゃない。ただの感情じゃないか」(注・その通りでもあるのですが)
「強迫神経症の治癒には、純な心はあまり関係がない」(注・強迫のかたは、感情を心の奥深くに埋め込んでいるので、むずかしく感じられるのです)
そしてこのかたと同じように、今まで行動ばかりで苦しかったけれど、自然な感情を認めることで、はじめて楽になったとおっしゃるかたがたくさん出てきてくださいました。

もちろん「純な心」ばかりが森田ではありません。
行動することも、自分の事実や客観的な事実に気づいていくことも大切。

ただ、森田療法において、「感情」はかなり大きな位置を占めていると思うのです。
なぜなら神経症のかたは、自分の「感情」をこわがっているから。

だから、感情を「流そう」とし(コントロールし)、感情から逃げようとするのです。
それが症状を悪化させます。
そしてそれが症状の原因です。

森田療法はそういう非常に微妙な心の動きを扱う治療法であり、考え方です。
ただ感情を無視して行動だけをすすめていくことは、行動自体が感情からの逃避法になってしまうことがあるのです。

そういう繊細な部分、心の機微を重視した部分を無視して、それが「森田療法」だと思っている人が多い。
そして、このかたのように長い間苦しんだり、あるいは「森田療法なんてこんなものか」と、嫌気がさして去って行ったりしたかたが、どれだけたくさんいるのだろうと思います。

非常に残念なことです。

繊細で微妙な本当の森田療法を、できるだけたくさんのかたに理解してほしい。
でも、自分の力も体力もまったく足りない。(理解も足りないかもしれない)
どうしたらいいのかなぁと、ふと考える今日この頃です。


スカイツリー相談室の窓から

欲望と不安

本日は、森田療法の根幹と言われる「欲望と不安」について。

森田療法を学習するときも、治療を受けるときも、本を読んでも、必ずこの「欲望と不安」という概念に行き当たります。

森田療法というのは一元論ですから、欲望と不安とは同じものであるという見方をします。
ある面から見ると「不安」ですが、また他の面から見ると「欲望」であるということ。
不安があるからには、必ず同じぐらいの大きさの欲望があるはずだということが前提にあります。

つまり欲望に沿って行動していけば、症状(不安)にそれほど煩わされなくなる。
それが森田療法の大きな前提です。

いろいろなかたとカウンセリングでお会いして、良くなっていくかたを見ると、リアルにこれが真実であるとわかります。

ところが、長い間(ときには何十年も)症状に悩んでいると、この「欲望」を全く見失ってしまうことがあります。
こんなときに「欲望」という言葉を使っても、「なんのことやら」という感じになります。
「この苦しみを取り除くことこそが自分の欲望」と思われるのも自然なことかもしれません。
不安という分厚い壁に阻まれて、目の前には何も見えない状態です。

森田正馬が行った入院療法は、そういう人たちを、自発的に自分の欲望に向かっていけるようにするためのものでした。

入院生が行っていたのは、何の変哲もない日常の家事などです。
でも彼らの大半は元気になって退院していきました。

これは私見ですが、彼らはきっと「自分の人生に関わる大きな欲望」を探し当てたわけではないように思うのです。

「欲望」と言葉で言われると、私たちは「〇〇の達成」とか「〇〇の取得」とか、大きな成果をイメージしがちです。
そういうものを探していると、いつまでも「欲望」と言われるものに行き当たらない。
「まだダメ」「まだまだ」という不全感をつのらせていくばかりだと思うのです。

森田がやったことは、その大それた野望を日常の些事へと向け替えることでした。
入院生が行ったことは、部屋の掃除や台所仕事、そんなことばかりです。

しかしそれがイヤイヤながらの仕事ではなく、楽しみになってくる。
もちろん、入院森田ですので「絶対臥褥」があり、その時点で不安障害の人は、「何かをやりたい」という意欲をかきたてられた状態になっています。

そして細かく仕事を指示されるのではなく、自分が仕事を探し、工夫をしていくという状況に置かれる。
その作業は観念的に「欲望を見つける」作業ではなく、自発性、自然な意欲を掘り起こしていく作業でした。

多分彼らは「人生の目的」や「達成すべき欲望」を見つけたわけではなく、自分のなかに自然に湧き上がってくる「何かをやりたい」という気持ち、好奇心、自分発の意欲のようなものを見つけたのだと思います。

そしてそれは、「不安」を持つ人なら誰でも持ち合わせている。
なぜなら、それは不安の裏側にいつも存在していたものだからです。

何かほんの少しの家事、ささいな仕事を達成したときに感じる喜び。
それが誘い水のようになって、次々に何かをしたいという意欲が湧きあがってくる。

大きな目標を達成しなくても、社会的に偉くなどならなくても、目の前のことを工夫してこなしていくことで、毎日は喜びに満ちたものになり得る。

森田正馬の行っていた治療とは、きっとそういうものだったと思うのです。

五月のバラ

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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