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「明日」が楽しみ?

先日、何かの記事(多分健康本か何かの体験談だったか・・・)を読んでいたら、とあるかたが、「今は毎晩、明日はどんな楽しいことがあるかとワクワクしながら寝ます」と書いていて、びっくりしました。

なぜびっくりしたかというと、私にはこういうふうに考えたことが、久しくないからです。

毎晩、眠るときに考えることは、「明日はあれとこれをやって、何時からは◯◯で・・・」ということばかり。

たまに、次の日に楽しみにしていたライブがあったり、久しぶりの友人に会う予定があったりすると、少し「」という気持ちになりますが、そういう特別な日だけです。

人にはそれぞれ思考のクセというようなものがあって、このところ私の思考は「~しなくては」ということで、埋まっているような感じ。

だんだん「こなす」ことが主眼になっていって、「する」ことに楽しみを感じることから遠ざかっているようです。

まずいです。


ところがこんなのはまだいいほうで、悩んでいるかたのなかには、「明日はもっと事態が悪くなるだろう」と確信しながら眠りにつく人もいるようです。


そういう人でも明日が楽しみなこともあると思うのですが、「あまり期待し過ぎると、それが期待はずれだったときに落胆が大きくなる」と言って、なるべくそのワクワク感を無視しようとするかたもいます。


こういうふうに、本来は帳尻合わせをすることができないものについて、一生懸命頭のなかで足し算引き算をするのは、強迫神経症系のかたに多いようです。


そのクセがまた神経症の一因にもなっているような気もしますが、そういうクセなので、仕方ありません。

とにかく「感情」まで差し引きしてしまう。


ということは、強迫神経症のかたは、ひとつのいやな感情なり感覚を、徹底的に味わってしまう人だとも言えます。

それはつまり逆に言えば、感情に優劣をつけ、できるだけ「快」の感情を味わおうとする欲求があると言えます。


実は快感追求型の人ではないかと思います。

ところが、そのために不快な感覚が極度に怖くなり、注意を集中し、ますます深く感じてしまう。

頭のなかで巨大になったその感情、感覚を拭い去るために、強迫観念や強迫行為が出来上がるわけです。


感情は自然現象。

生きていく間には、自分にとって不快に感じることも快に感じることもどちらも起こってくるし、避けることはできない。

大事なのはそんなふうに感情を云々することではなく、淡々と生きていくこと。

 

まぁ、こんなことを書いていると、何が起きるかわからないのに「明日が楽しみ」なんていうのは邪道な気もしますが、そう考えるのも自由。


「何か楽しいことがあるかも」と思っていれば、桜が咲いたのも楽しく、散っていく姿も美しく感じるものです。


というわけで、「明日はどんな楽しいことがあるだろう」と思って、寝てみました。


で、オフィスに着いてみたら、封筒が一通。

開けてみたら家賃値上げの通知・・・・。


あぁ・・・消費税!!


         桜2014 都会の夜桜

順番志向

完全主義者の傾向のひとつだと思うのですが、何かものごとに順番をつけて、そのとおりに進めようとする傾向があります。

実は私にもその傾向は多分にあります。

たとえば、部屋の片付けなども、「まずはここを拭いてからここを掃いて・・・」などと、頭のなかで順番をつけながら、やっていきます。

出かけるときも当然なことですが、あそこに先ず寄って、それから郵便局に行って、次はスーパーに行って・・・と組み立ててから出かけます。

こういうのは、ごく当たり前のことですね。
順番をはっきりさせて、次々こなしていくほうが、効率が良いに決まっています。

しかし、どうもこのように順番をつけることが、効率を下げる場合があるようです。

たとえば、私の頭のなかにある順番・・・

「もう少し身体が健康になってから〇〇を始めよう」
「これとこれが終わってから、あの書類を書こう」
「このテーマについて書くには、あれとあれをしっかり読み終わってから書こう」

ところが時として、〇〇を始めようという次の順番までに、なかなか行き着かないことがある。

ずっと、その前の段階にとどまって時間だけが過ぎていくのです。

なぜなのでしょう。
いろいろな理由が考えられます。

この頭のなかの順番が私の「気分」と密接に関係している。

つまり本題にとりかかるのが不安だから(あるいは単純にイヤだから)、その不安な気分を何とかなだめようとして、本題の前に前段階を設けているのかもしれません。

これは、少し強迫神経症の心理に似ているのかもしれません。

何か人生にとって大切なこと、大事なことにとりかかる必要があるとわかっている。
しかし、それが不安だから、その前段階のことをていねいにしつこくやり続ける。

本当は、そのまま、今、本題にとりかかってもいいのに、こわくてそれができない。
だから、「順番」を作るのです。

実際の順番だったらいいけれど、そのようなときの手順というのは、どうもあまり実際的なものではなく、気分で作り上げたものであることが多いのですね。

あるいは、その順番が「言い訳」になっているのかもしれません。

「まだこれをやっていないから、とりかかるわけにはいかない」というふうに・・・。

ですから、強迫神経症の症状そのものが「言い訳」になってしまっている場合もあります。
「まだ症状が苦しいから、今のところはやめておこう」とか。

しかし、まずはものごとを始めてしまって、そこから足りなかったことを補っていってもいいと思うのです。

觀念のなかの順番であれば、現実のものごとをやっていくうちに、そんな手順をふまなくてもできた、と感じることもあるでしょう。

あるいは、準備しながら本題をこなしていくということだっていいのです。

完全主義者は、何かを始めるときにそれが完璧に進むことを望んでいる。
けれど、その「完璧」もまた、頭のなかの「完璧」であって、実際的なものでないことが多いと思うのです。

ですから、今あなたが、何かを始めたい、これをやりたいと思うなら、まずは手をつけてみたほうがいいのではないでしょうか。
手をつけてみると、觀念の「準備」ではなく、実際にこれをやったほうがいいとか、もっと違うことがわかってくる。


とにかく、「觀念」のなかにとどまらず、「現実」のなかに出ていくと、景色は全く違って見えるものです。


来年は私も、「健康になってから」などと言わず、もっといろいろなことを始めようと思っています。

思っているだけだから、まだ觀念なのですけれどね(汗)。


     ツリー  丸の内のクリスマスツリー

強迫神経症、文化差

井上円了の次は、ディビット・ベッカム。

           ベッカム




このブログの話題は本当にランダムで、我ながらあきれますが、これが私の頭のなかなのだと思って大目に見てください。

いや、別にロンドン五輪の話題ではないですが、なぜここにベッカムが出てくるんでしょう。

とあるかたが、私に、「ベッカムも強迫神経症(強迫性障害)なんですよ」と教えてくれました。
ずいぶん前に彼は自分が強迫性障害であることをカミングアウトしていたのですね。
テレビのインタヴュー番組でのことだそうです。

彼いわく「僕は強迫性障害で、なんでもまっすぐになっていて、ちゃんとペアになっていないと気がすまないんだ。例えば、冷蔵庫にペプシコーラの缶を入れるとき、ひとつ多すぎるとしたら、その缶を戸棚にしまわないと気がすまないんだ」。

つまりどうやら、何でも左右対照にしたい、きちんとしていないと気が済まないという強迫性障害のようです。

不思議です。
私は日本で、こういう症状の人に会ったことがありません。
強迫の症状をお持ちのかたに尋ねてみても、これはピンとこないとおっしゃいます。

日本で強迫性障害に悩んでいる人の症状は、圧倒的に多いのが洗浄強迫(手を洗ったり、シャワーを浴びるのがやめられない)、次に確認癖、意外に多い着手恐怖(何かを始められない、始めたらやめられない)、そして行為をともなわない強迫観念です。
これはもちろん西洋にもある症状と思いますが。

そういえば、以前紹介した映画「恋愛小説家」とかテレビドラマ「名探偵モンク」でも、何かを左右対照にそろえることにこだわる場面、舗道の継ぎ目を踏まないで歩くシーンがありました。
もひとつ言えば、日本では舗道の継ぎ目にこだわる人にもお会いしたことがありません。

西洋では、そうやってシンメトリーにこだわる文化、見た目の整頓にこだわる文化があるのでしょうか。
この文化差は興味深いですね。

日本だと、これは別に、困ったことと思われないのではないでしょうか?
左右対照にこだわって何が困る?と言いたくなるのも確か。
生活に支障がなければそれでいいと思いますが・・。

そういえば、ベッカムは刺青がやめられないという悩みもあるそうです。
今は身体中刺青だらけですね。
大阪市では公務員になれません。あ、関係ないか。

刺青を入れるときの痛みが好きみたいです。
一種の自傷行為?
こっちのほうが問題のような気がしますけれどね。
そんなに全身に刺青を入れたら、身体に悪そうな気がするし・・・。

ま、とにかく、同じ神経症(不安障害)でも、微妙に文化差があり、その文化差が各々の文化に対する気づきをもたらすことがある。


こんなことを面白がっているのは、私だけでしょうけれど。

強迫神経症があっても  その3 「アビエイター」

さて、強迫神経症(現在の呼称だと強迫性障害)の人が主人公の映画などをとりあげてきましたが、今回はその最後。
マーチン・スコセッシ監督の「アビエイター」です。主演はレオナルド・ディカプリオ。
 
これは実業家、ハワード・ヒューズの伝記映画であり、実話です。
ですから、強迫神経症の描き方もリアルで痛々しいほどです。

ハワード・ヒューズ(1905~1976)は、米国の実業家、映画や航空機業界で仕事をした人です。

彼は18歳で両親をなくし、巨万の富を相続します。
彼はその富を、自分の夢を実現するために使い始めます。
撮りたかった映画を作り、作りたい航空機を仕上げるために巨額の富を投じ、評価はどうであろうと、次々と実現させていきます。

ところが、飛行機を製作する過程で墜落事故にあい、その頃から強迫神経症を発症します。
もともとそういう傾向はあったようですが、それがひどくなったようです。

手を洗い始めたらとまらない。
部屋のなかでも、「清潔な場所」と「汚染されている場所」があって、清潔な(と自分が思う)場所にしかいられない。

ちなみに、話は映画からそれますが、森田療法の創始者、森田正馬は「不潔恐怖は不潔になる」と言いました。
強迫的になって手をずっと洗っているのだから、不潔にはならない、むしろ綺麗好きな人かもしれないと思われるかもしれません。

しかし、不潔恐怖の人が戦っているのは、観念のなかの汚れです。実際の汚れではないのです。
観念の汚れは、洗っても洗っても取れるはずがありません。

そして、洗い始めたらとまらない。確認し始めたらずっと続けなくてはならないと悟ると、どこかの時点で、その行為をすべてやめてしまうことになる。
手をつけなければ、格闘しなくてすむわけです。
そうやって、洗うという行為を拒否し始めると、自分および自分の周囲はひたすら汚れていきます。
それは快い状態ではないけれど、あの果てしない強迫行為よりはずっと楽なのです。

このような状態になる人は、かなり重症な強迫神経症と言えるかもしれません。
とにかくハワード・ヒューズは、重症の強迫神経症でした。

そんなに重症だと、傍目には錯乱しているかのように受け取れるのです。

「アビエイター」のクライマックス。

ヒューズが一室にこもり、強迫的な反復行為などで錯乱状態にいるとき、同じ航空機業界のパンナム航空の社長が訪ねてきます。
パンナム社は、国際線を独占するために、ヒューズのトランスワールド航空を追い落とそうとします。
ヒューズのスキャンダルを大々的にとりあげ、世論を盛り上げて政治家も使い、公聴会を開いて、彼を追い込もうとするのです。
(余談ですが、いつの世でも、政治家と企業は結託して陰謀を企むのですね)

パンナムの社長は、錯乱したヒューズの様子を垣間見て、自分の勝ちを確信します。「相手は精神的にやられている。楽勝だ」と思ったのでしょう。

ところが公聴会当日、彼の思惑ははずれ、ヒューズは明晰な論理と実証で、逆にパンナムと陰謀に加担した議員を論破します。
世論はヒューズに味方し、彼は勝ったのです。

そうです。強迫神経症の人は、「錯乱」などしないのです。
たとえ強迫観念や行為に悩んでいても、傍目には奇妙に見えても、幻の「汚れ」と格闘していても、それ以外の部分はまったくノーマルです。
むしろ頭脳明晰です。

このヒューズの強迫症状は飛行機事故で受けた脳の損傷によるという説もあるようです。
が、映画から推測すると、彼は強迫神経症の人に共通する性格特徴を備えていたようです。

 完全主義
 理知的
 負け嫌い
 自分を通していく強さ
 粘り強さ

このような性格だったからこそ、彼は、強迫症状がありながらも大きな事業を展開し、米国史に名を残す人物となったのでしょう。

映画では語られませんが、ヒューズ自身は強迫症状へのいっさいの治療を拒否したそうです。
そして症状は悪化し、人と会うこともなくなり、晩年は自分が買収したラスベガスの豪華ホテルのスイートで、垢にまみれ、髪や爪も伸び放題で暮らし、死んでいったようです。

その最後を聞くと、何か悲惨な生涯だったような気がします。
しかし、果たしてそうでしょうか?

そもそも生物としての人間の死にざまなど、自分がコントロールできるものでもありません。
メロドラマのような美しい死などありえないのです。

むしろ、彼の生き方を見た時、ある意味、それはすごいことではないかと思ってしまいます。

彼は、生まれつきの強度の難聴があり、なおかつ重度の強迫神経症という、いくつもの障害を抱えていたわけです。
航空機事故で大怪我もしました。
にもかかわらず、彼は実に積極的に実業の世界に乗り出し、自分の夢を実現させるために、どんな労力も惜しまず、そして成果を残したのです。

考えてみると、もし彼がこのような我の強い性格でなかったら、18歳で巨億の富を継いだとき、周囲に利用され、邪魔され、自分の夢を追うことなどできなかったでしょう。
あるいは、有り余る富のために意欲をなくし、酔生夢死に終わったかもしれません。

幾多の苦しみに悩みながらも、空を目指し、夢を追った生き様こそが、立派なのかもしれません。

私はこの「アビエイター」から、そんなことを感じ取りました。

強迫神経症があっても夢は追える。
いや、何があっても夢は追えるのです。




強迫神経症があっても その2 「恋愛小説家」

さて、海外には強迫神経症をとりあげた映画が、いくつかありますね。
代表的なもので、ヒットしたのが、「恋愛小説家」。
ジャック・ニコルソンが主演です。

主人公メルビンは、ただの一度も恋愛したことがないのに、60作以上の恋愛小説を書く作家。
彼は強迫神経症で、決まった日常のルールを守り続けています。

たとえば、決まった回数鍵を確認。いくつも石鹸を使って手を洗う。決まったレストランの決まった席で食事をする。道路の敷石の継ぎ目は絶対に踏まない。
自分の決めたルールが守れないと、パニックになり、怒ったり、人を攻撃したりします。

その彼が、ゲイの隣人と関わり、その犬を預かるところから変化が始まります。汚いと思っていた犬に愛着を覚えてしまう。
そして通っていたレストランのウエイトレス、キャロルの優しさに惹かれるようになります。

恋愛をしたことのない恋愛小説家が、初めて恋愛をするに至るという映画です。
キャロルに恋をした彼は、自分の変化に気づきます。なんと鍵をかけ忘れるのです!

とにかくとても心温まる映画なのです。

それにさすがにジャック・ニコルソン。微妙なところがとてもうまい。
ヘタな役者がやったら、メルビンは、ただの「イヤな奴」になってしまう。
そこを救いようがある感じに描いているのは、さすがの演技力があるからでしょう。

たとえばメルビンは、よく相手に対して差別的なことを言ったり、傷つくようなことを言ったりします。
ところが、相手が反撃したり、怒ったりすると、「えっ?」という顔をします。

そう、多分彼は、相手の心のなかに起こっていることなんて、想像できないのです。
彼は相手を攻撃しているわけでもなく、思ったことを言っているだけなのかもしれません。
そういう相手の心理とか立場の微妙さが理解できない、というか、強迫行為が大変でそこまで余裕がないのでしょう。
相手もそれがわかるから、なんとなく憎めない。

しかし日本の強迫神経症の人は、メルビンのような露骨なことはもちろん言いません。
他者配慮的だし(文化がそうですから)、むしろ「相手を傷つけなかったろうか」という強迫観念に悩む人すらいます。

でも強迫神経症に悩んでいるときは、まったく余裕がなくて、相手の心とか立場とかが理解できないというところは似ています。

しかし、そもそもメルビンって強迫神経症なんでしょうか?
強迫行為はしているけれど、あまり自分が困っている感じもないですよね。どんどん悪化していく様子もないし・・・。
強迫性人格障害かなとは思いますが。
ま、映画ですし、しょせんフィクション・・・
でも、強迫的な人のことを結構理解して作っているかもしれません。

そういうふうに思うのは、彼の悩みが治っていくポイントが的を射ていると思うからです。

怪我をした隣人の代わりに犬の世話をして情が移り、自分勝手な理由ながら、キャロルの子供の援助をして、思いがけずキャロルに感謝される。
孤立して、自分の世界を守ることに汲々としていた彼が、他者と(他犬と)交流し、今まで奥底に秘めていた、情感に気づくようになる。
(ちなみに、この映画では、犬が泣きます! すごい演技力。この犬はアカデミー賞もらえなかったんでしょうか)


自分の感情を自覚するだけでなく、他の人と感情の交流をすることができるようになる。
それって、強迫神経症治癒のポイントではないでしょうか。
もちろん、私の考える治癒のポイントですが。


そこらへんを書いていると長くなるので、やめますが、とにかく後半、彼が不器用ながらキャロルや隣人のことを思い、不器用に手を差し伸べるところは、素直に「がんばれ!」と感じられます。


脇道にそれますが、この映画のタイトル「As good as it gets」は、メルビンがかかりつけの精神科医の待合室で、待っている人たちに言う言葉。

「This is as good as it gets!」
日本語字幕では「希望なんか無駄だぞ」と翻訳されています。
しかしこの言葉には正反対の意味もあり、「最高に素晴らしい」という表現にもなります。
洒落た「かけことば」なんですね。


あ、ここでまたひとこと余計なことを言いたくなった。

この精神科医は、メルビンにホトホト手を焼いている様子で「ちゃんと予約をとってから来てくれ」と追い返します。
そのときにお医者様は、医院がずっと前に改装されていることも、ドクターがひげを生やしたことも、メルビンがまったく気づいていないことを指摘します。

そうなんですね。症状が大変なときって、周りのことには、ほとんど目がいかないんですよね。
やはり、この映画の作者は、強迫神経症のことを、よく理解して作っているようです。

ともあれ、強迫神経症でも恋愛はできる!
言うまでもないことですが。







プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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