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言葉はただの道具

森田正馬は、「言葉」についていろいろ言及しています。
「言葉は符丁である」つまり「言葉とは事実ではなく、ただ物事を表すだけの道具」という記述が全集5巻にあります。

なぜ森田正馬はわざわざこんなことを言ったのでしょう。

「言葉=事実」と考えてしまうと、私たちの生活になんらかの支障が出てくるということでしょうね。

私たちは暗黙のうちに「言葉=事実ではない」ことを知っているけれども、それでもコミュニケーションのために言葉を使わざるを得ない。
生活が西洋化され、言葉至上主義になってくると、私たちはだんだん「言葉の外にあるもの」を忘れてしまうようになります。

不安障害の強迫観念タイプのかたは、特に言葉にこだわる傾向が強いような感じがします。
頭のなかで「ああでもない、こうでもない」と考えていることは、殆どただ言葉を言い換えただけのことだったりします。

なぜ言葉にこだわるようになってくるのか。
それは、言葉以外の感情、感覚が怖いからではないかと、私は思います。
理知偏重の人、そしてコントロール欲求が過剰な人にとっては、どこからか湧き出てくる「感情」「感覚」は、なにか恐ろしいものなのではないでしょうか。

だから「言葉」に置き換える。
そうすると、自分のコントロールがきくものに変化するような気がする。

そんなことをしているうちに、その言葉に示唆されるものがまるで本当のことであるかのような錯覚が生まれてくる。
たとえば、何かしらの違和感を覚え、頭のなかで「細菌」をイメージし、その細菌が手についていて「汚い」と思う。
反射的にその汚れを「落とさなければ」と思う。
そして何回も手を洗えば、汚れが「落ちた」気がする。
しかし、「汚れが落ちた」と自分に言い聞かせても、最初の違和感はそのままなので、結局洗い直さなくてはいけない。
この「細菌」は、頭のなかの違和感をイメージ化して置き換え、増幅したもので、事実ではありません。
ですからいくら洗っても、落ちた気はしないのです。

いつも言うように、この場合は、違和感をそのままにして耐える。
そして次の現実のものごとに移っていくしかないのです。
実生活でのちょっとした不快感、違和感を、言葉をつかって何かに置き換えないことです。

ちょっと難しくなりましたが、理知的な強迫神経症タイプの方は、もっと「言葉以外」のものに対する感性を鍛え、それに慣れたほうがいいような気がします。

今だったら、桜の花を見上げて、空の青さとのコントラストを楽しむ。
ペットの手触りを楽しむ。
美味しいご飯を、単純に楽しむ。

そこに下手な言葉を介入させないのです。

森田正馬はこんなことを言っています。
「フロイトは無意識を意識化したが、森田は意識を無意識化するともいえる」

つまり、フロイトは言語化することを通じて神経症を治そうとしましたが、森田療法は言語化し、意識化してしまった違和感を、日常生活のなかでもう一度無意識に戻すことで、神経症を「忘れる」という治療法なのです。

もっと五感を大切にする。
言葉でとらえられないものに目を向ける。

それが大切なのでしょうね。

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頭のなかが煮詰まるとき

「頭のなかが煮詰まる」という表現は奇妙かもしれませんが、実感のあるかたも多いのではないでしょうか。
特に強迫神経症に悩むかたのなかに、こういう時期があるように思います。
考えることがあまりに多くて、まったく行動できなくなるような、「うつ」的な時間です。

強迫神経症のかたは、「どうしたらいい?」という質問をなさる方が多い。
つまりこの苦しさを抜けるには必ず何か方法があり、それを会得すれば、この苦しさが薄れるに違いないと思う傾向があるのです。

森田療法での神経質症成立の過程をご存じのかたならおわかりになるように、この「どうしたらいい?」傾向が、精神交互作用を昂進させ、苦しさを増幅します。

しかし苦しいことは苦しいので、頭のなかは言葉でいっぱい。
なんとかしてこの苦しさや「イヤな感覚」から脱出したいと、言葉が頭のなかを駆け巡る。
あるいは「イヤなこと」から未来永劫逃れるために、どうしたらいいかを考え続ける。

強迫神経症のかたの頭のなかはこうなっているのではないかと、私は想像します。
そんな時は、外側から見るとそのかたは殆ど無表情、でも内面はヒートアップしているのではないでしょうか。

「森田療法は行動を勧めているから」と行動しようとする。
しかし「行動しよう」という言葉が頭をぐるぐるめぐっているだけで、何もできない。
それが自責感となり、またイヤな感覚を積み重ねていく。

そんなときに参考になるかなと思われる文章に出会ったので、ご紹介します。
他の病状のかたに向けて言っていることなので、意訳してご紹介します。

「できるだけ役に立たないことをどんどんやってもらってください。価値のないもの。そのへんにある石を蹴っ飛ばしたりするような。」

「小さい頃読書が好きだった人には、<本屋に行きなさい。それで、本を読んではいけません。ただ本屋のなかを歩くだけ>という、そうすると足腰が丈夫になる(笑)。そうして、<脳が回復してくると、必ずどこかの棚にある本があなたの脳を呼ぶから、呼べば自然に手が伸びて、触るようになってきて、見るようになるから。それまでは自分の意志で本を触ったりしてはいけません。ただそのなかを歩いてみる>。そしたら幼稚園ぐらいのときに本好きだった気分が、だんだん引っぱり出されてくる。そうすると子供時代と今がつながる」

「大事なことをなぜやらせんかというと、大事なことや有益なことやると、ずっとそこばっかりするから」
(神田橋條治「ちばの集い2」)

この文章の本来の趣旨からは少し違うのですが、「~をしなくてはならない」という妙な目的意識で埋まった強迫神経症のかたには、いいかなと思うのです。

損得勘定が働くので、症状治癒に一番有効なことをやって最短距離で楽な状態に到達したい。
その性向が自分を追い詰めていくような気がします。
ですから無駄なことをする、目的のないことを試しにやってみるということは良いかなと思ったのです。

ただ、「無駄なことをする」がまた標語になり、目的になって自分を縛るというサイクルができてしまうかもしれません。
「無駄なこと」をして、子供のころ感じた自分の「純なこころ」が沸き上がってくるといいのですが。
むずかしいですね!

きっと森田先生の入院療法は「あれをしろ、これをしろ」というものではなかったはずです。日常生活の場に入院生を置いて、身体や興味が自然に動くような環境を作ったのではないかと思います。

冬空



頭のなかの強迫

ふと思ったのですが、神経症の物書きの人や芸術家はいるけれど、神経症のスポーツ選手ってあまりお目にかかったことがありません。

ずいぶんたくさんの神経症のかたにお会いしていますが、スポーツ万能という感じのかたはごくごく少数だった気がします。
筋トレなどをなさるかたはいますけれどね。

つまりですね、スポーツって瞬間的な反射神経を競うものなので、そこで突出するためには、あまり思慮深い人は難しいのではないかなと思うのです。
「考え」が入ってしまうと、そこでもう0.1秒くらい遅れてしまう。

逆に言えば、スポーツに夢中になれば、その瞬間には症状は消えるのでは?という仮説もなりたちます。
考えるヒマがなくなりますから。

何を言いたいのかというと、神経症の人は考えている時間が長い!
とにかく、頭のなかでは、いつも様々な想念が入り乱れ、一大叙事詩みたいなものが展開されているようです。

過去のことや、未来のことを「ああでもない、こうでもない」と考えに考えて、頭のなかで何とかしようとしています。

強迫性がありますから、同じ考えが繰り返され、ものごとは頭のなかで深刻化して、大変なことになってきます。

たとえば、ずっと学校へ行けないでいる人のことを考えてみましょう。
本当は行きたい、何とかしてまた復帰したいと切に願っている場合がほとんどです。
そんなとき、行きたければ行きたいほど、行けなくなる、という逆説的なことが起きてきます。

「行かなければならない」とあまりに考えると、そのことを何度も何度も考え、シュミレーションする。

そんなときは、楽観的な気持ちになどなれないので、状況がどんどん悲観的に見えてくる。
自分がうまくやれるようには思えない。
あるいは、行くことがとても複雑で面倒なことに思えてくる。
考えれば考えるほど、気持ちは重く、先に進むことは面倒臭く感じられる。

そうやって、出かける前に何時間でも悩むのです。

ところが、はたから見ていると、本人は何もせずボーッとしているように見えます。
それで、脇から声をかけたくなる。
「どうするの?もう行かなくちゃいけないんじゃない?」
そんなことを言われると、ますます本人のなかの「行かなくちゃ」願望が強くなり、それとともにグルグル思考が強くなります。

そして結局、身体は動かず、気持ちはどんどん悲惨なことになり、ずっと悩み続けることになります。

どうも強迫性のあるかたは、現実を自分の頭のなかで変形させて、気持ちに重しをかけているようなところがあります。

身体を動かして、先に進んでみると、現実はもっと簡単なことだとわかるのですけれどね。


ume


神経症でお悩みのかた、遠方のかたは電話相談もしております。お茶の水セラピールーム

強迫神経症について その3

さて、また続きです。

強迫神経症のかたが自分のぐるぐる思考から抜け出し、外へと踏み出すためには、外側のものごとを利用するということを書きました。

実例をひとつあげてみます。

「その1」でとりあげた不潔恐怖のかたの例です。

「不潔恐怖の場合は他の行動に移る前に綺麗な手でないと触ったものまでが汚れてしまうと考えて他の行動になかなか移れないのです」

よく考えてみれば、これは不潔恐怖だけの問題ではないようです。
対人恐怖にしても、不安神経症タイプの人にしても、「次に自分がこう踏み出すと、こういうことが起こるだろう」と予測して心配で、行動ができないということはあり得ます。

強迫タイプのかたは、強迫神経症だけ特別に苦しいと思いがちですが、それは「強迫行為」という、一見派手な、正常な生活から浮き上がったような症状があるからでしょう。
「どうしてもこれをとらなければ」「とればすっきりするだろう」という「治癒に対する強い執着」が出てくるのです。

ですから、外側のものごとを使うというのは、どの症状のかたにも応用できることです。

「きれいな手でないと・・・」と考えるのは、別にかまいません。
私だって、手が汚いと感じられる時には、洗ってから次の行動に移ります。当たり前の感覚です。
問題はその「手が汚い」感覚をすっきりさせることに長時間を使うことですね。
(これを「気分本位」の行動と言います。実際は不安を振り払おうとしている行動です)

ではこんなときに「外側のものごとを使う」とはどういうことか?
まずは「時間」。そのていねいに手を洗うという行動にどれだけ時間がかかったか計ってみる。
時間を縮めようとするのではないですよ。ただ計るだけでいい。
強迫行為がどれだけ自分の「人生の時間」を浪費させているか、ちょっと頭の隅にとめておく。
もちろん、水とかボディーソープとかの無駄使いにも気づいておく。

もっと外側のことにも踏み出しましょう。
仕事やおつきあいで、他の人と約束し、その約束を守る、ということです。

約束を反故にしない。時間を守る。できればその出かける用事の内容にまで気を配り、事前準備をしておく。

こういうときに、「人によく思われたい」とか「いい人に思われたい」「変な人と思われたくない」という自分の傾向を活用しましょう。
実際、家の外では強迫行為をしないという人は圧倒的に多いですね。

つまり我慢できるのです。
そして皆、頭のどこかでこの「強迫行為」は、不毛で無駄な行動だということに気づいている。
強迫行為をしなくても、社会的には行動できるのですから。
しかし、ただただ不安に圧倒されて「わかっていてもやめられない」という声も聞こえてくる気もします。

とにかく、外側へ、社会へ、他人との関わりへと足を踏み出す。
そのなかで、「きちんと仕事ができた」「約束を守れた」という手ごたえが出てくる。
自分の家のなかでも、強迫行為を治すこと以外のものごとに興味を持つ。
それについて、もう少し調べてみる。
そうすると元来、好奇心が旺盛なタイプですから、興味はいろいろ広がってくるはずです。
そうしたら、それに手をつけてみる。

そんな行動の連続が、強迫神経症から自分を引き離して、やがてはそんなことを忘れるようにしてくれるのです。

でも、その先が肝心です。
強迫行為や観念が以前ほど気にならなくなったり、生活に差しさわりがなくなったりすることは、ある意味、スタートラインに立ったということ。

今度はそういう症状を起こしていた自分の傾向に気づいたり、自分を苦しめていた「かくあるべし」に気づいたり、そのために周囲の環境が見えていなかったこと、人生の時間や資源を無駄にしてきたことが、目の前にたちはだかってきます。

それが神経症に苦しんだ人たちにとっての、本当のスタートラインなのだと思います。

森田療法の真価は、症状をとることだけではない。
そこから先の人生までもカバーしている、応用範囲の広い思想でもあるのです。


夏の花2

強迫神経症について その2

前回の続きを書こうと思いながら、ついつい時間がたってしまいました。
別に書こうということがまとまっていないわけでもないのに、文章にするまでが長くなるのですね。

考えるに、強迫タイプのかたはこういう傾向が大きいのではないでしょうか。
つまり、頭ではいろいろなイメージがあるのに、現実に手を出す(あるいは足を踏み出す)までの時間が途方もなく長い。

頭のなかでは、非常にクリアに「何かをする」イメージがあるのに、実際にはまったく何もしていない。
現実のものごとは進行していない。

強迫神経症の人の頭のなかは、実に忙しいのではないかと思います。
何かをする前にやらなくてはならない強迫行為の段取りとか・・・。
あとで後悔しないために、今やっておかなくてはならない強迫行為とか、考えておかなくてはならない強迫観念とか。

普通の人がぼんやり考えているようなときでも、いろいろときぜわしく考えていなくてはならない。
思考はフル回転です。(主に同じようなことを繰り返し考えているのですけれど)
それで一日が終わる頃には疲弊してしまう。
でも身体は何も動いていない。

不思議ですね。人間って何か行動をしていなくても、思考するだけで疲弊してしまうのです。
強迫神経症の人はその典型。

強迫タイプの人の頭のなかでは、思考(言葉)と現実との区別がついていないことが多いようです。
なんと表現したらいいのでしょう。
現実と自分との間に「言葉」が立ちはだかるというか・・・
言葉が現実のように思えてしまうのですね。

一つの言葉でも、それに負荷がかかって実感的に重いものになってしまう。
たとえば「面倒だ」という思いがあるなら、普通の人が感じる面倒さの何倍かの重さで、その面倒さがのしかかってくる。
もちろん強迫性があるからですが。

実際には何も面倒なことはしていないのに、前もってその面倒さを苦しんでしまうという損なところがあります。

そういうふうに、いろいろな意味で言葉や観念のほうが現実より(妙な言い方ですが)実感をもってせまってくるようです。

言葉や観念のなかに閉じ込められて、現実がリアルに感じられない状態ですね。
で、強迫行為などは、観念に支配されているのですから、現実のなかではまったく的外れな行動の繰り返しとなります。

強迫神経症の人はよく「五感にたちかえる」ということを言います。
それも大事なことです。
でも最初は、その五感ですら、観念からしか入れないところがあります。

冷たい水で手を洗い続けている人は、「○回洗う」ということのほうが重大すぎて、手の痛みも感じる余裕がありません。

とにかく頭のなかのことがリアルで重大なので、往々にして強迫の人は「思考」や「観念」で、自分のこの苦しみを解決しようとします。
自分のやっていること、自分の考えていることが常識的にはおかしいということを、自分では十分わかっている。
この妙な考えを打ち消したい。
けれど、思考は思考で打ち消すことができない。この強迫思考を生み出す背後には大きな不安があるからです。

思考ではこの苦しみはどうにもできない。これを心にとめて、とにもかくにも、「現実」に向かって踏み出すしかない。
現在、強迫神経症を持ちながらもなんとか仕事をしている、社会で生きているというかたは、多分半分夢のようでありながら必死だと思います。

そういうかたでも、「もっと現実に直面する」ということが必要になってきます。

不快なことが嫌いな人が多いので不本意だとは思いますが、気楽にのんびりできる境遇では多分いつまでも苦しいままです。

締め切りのあることに挑戦する。他の人が待っているという環境をつくり、そのうえで何かをする。時間を区切ってものごとをする。
とにかく自分以外の、外側の人、外側のものを利用して、いやいやでも現実へと踏み出していくのです。

強迫神経症についてはまた次回に。


夏の花


強迫神経症でお悩みの方どうぞご利用ください。お茶の水セラピールーム
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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