強迫神経症について その3

さて、また続きです。

強迫神経症のかたが自分のぐるぐる思考から抜け出し、外へと踏み出すためには、外側のものごとを利用するということを書きました。

実例をひとつあげてみます。

「その1」でとりあげた不潔恐怖のかたの例です。

「不潔恐怖の場合は他の行動に移る前に綺麗な手でないと触ったものまでが汚れてしまうと考えて他の行動になかなか移れないのです」

よく考えてみれば、これは不潔恐怖だけの問題ではないようです。
対人恐怖にしても、不安神経症タイプの人にしても、「次に自分がこう踏み出すと、こういうことが起こるだろう」と予測して心配で、行動ができないということはあり得ます。

強迫タイプのかたは、強迫神経症だけ特別に苦しいと思いがちですが、それは「強迫行為」という、一見派手な、正常な生活から浮き上がったような症状があるからでしょう。
「どうしてもこれをとらなければ」「とればすっきりするだろう」という「治癒に対する強い執着」が出てくるのです。

ですから、外側のものごとを使うというのは、どの症状のかたにも応用できることです。

「きれいな手でないと・・・」と考えるのは、別にかまいません。
私だって、手が汚いと感じられる時には、洗ってから次の行動に移ります。当たり前の感覚です。
問題はその「手が汚い」感覚をすっきりさせることに長時間を使うことですね。
(これを「気分本位」の行動と言います。実際は不安を振り払おうとしている行動です)

ではこんなときに「外側のものごとを使う」とはどういうことか?
まずは「時間」。そのていねいに手を洗うという行動にどれだけ時間がかかったか計ってみる。
時間を縮めようとするのではないですよ。ただ計るだけでいい。
強迫行為がどれだけ自分の「人生の時間」を浪費させているか、ちょっと頭の隅にとめておく。
もちろん、水とかボディーソープとかの無駄使いにも気づいておく。

もっと外側のことにも踏み出しましょう。
仕事やおつきあいで、他の人と約束し、その約束を守る、ということです。

約束を反故にしない。時間を守る。できればその出かける用事の内容にまで気を配り、事前準備をしておく。

こういうときに、「人によく思われたい」とか「いい人に思われたい」「変な人と思われたくない」という自分の傾向を活用しましょう。
実際、家の外では強迫行為をしないという人は圧倒的に多いですね。

つまり我慢できるのです。
そして皆、頭のどこかでこの「強迫行為」は、不毛で無駄な行動だということに気づいている。
強迫行為をしなくても、社会的には行動できるのですから。
しかし、ただただ不安に圧倒されて「わかっていてもやめられない」という声も聞こえてくる気もします。

とにかく、外側へ、社会へ、他人との関わりへと足を踏み出す。
そのなかで、「きちんと仕事ができた」「約束を守れた」という手ごたえが出てくる。
自分の家のなかでも、強迫行為を治すこと以外のものごとに興味を持つ。
それについて、もう少し調べてみる。
そうすると元来、好奇心が旺盛なタイプですから、興味はいろいろ広がってくるはずです。
そうしたら、それに手をつけてみる。

そんな行動の連続が、強迫神経症から自分を引き離して、やがてはそんなことを忘れるようにしてくれるのです。

でも、その先が肝心です。
強迫行為や観念が以前ほど気にならなくなったり、生活に差しさわりがなくなったりすることは、ある意味、スタートラインに立ったということ。

今度はそういう症状を起こしていた自分の傾向に気づいたり、自分を苦しめていた「かくあるべし」に気づいたり、そのために周囲の環境が見えていなかったこと、人生の時間や資源を無駄にしてきたことが、目の前にたちはだかってきます。

それが神経症に苦しんだ人たちにとっての、本当のスタートラインなのだと思います。

森田療法の真価は、症状をとることだけではない。
そこから先の人生までもカバーしている、応用範囲の広い思想でもあるのです。


夏の花2

強迫神経症について その2

前回の続きを書こうと思いながら、ついつい時間がたってしまいました。
別に書こうということがまとまっていないわけでもないのに、文章にするまでが長くなるのですね。

考えるに、強迫タイプのかたはこういう傾向が大きいのではないでしょうか。
つまり、頭ではいろいろなイメージがあるのに、現実に手を出す(あるいは足を踏み出す)までの時間が途方もなく長い。

頭のなかでは、非常にクリアに「何かをする」イメージがあるのに、実際にはまったく何もしていない。
現実のものごとは進行していない。

強迫神経症の人の頭のなかは、実に忙しいのではないかと思います。
何かをする前にやらなくてはならない強迫行為の段取りとか・・・。
あとで後悔しないために、今やっておかなくてはならない強迫行為とか、考えておかなくてはならない強迫観念とか。

普通の人がぼんやり考えているようなときでも、いろいろときぜわしく考えていなくてはならない。
思考はフル回転です。(主に同じようなことを繰り返し考えているのですけれど)
それで一日が終わる頃には疲弊してしまう。
でも身体は何も動いていない。

不思議ですね。人間って何か行動をしていなくても、思考するだけで疲弊してしまうのです。
強迫神経症の人はその典型。

強迫タイプの人の頭のなかでは、思考(言葉)と現実との区別がついていないことが多いようです。
なんと表現したらいいのでしょう。
現実と自分との間に「言葉」が立ちはだかるというか・・・
言葉が現実のように思えてしまうのですね。

一つの言葉でも、それに負荷がかかって実感的に重いものになってしまう。
たとえば「面倒だ」という思いがあるなら、普通の人が感じる面倒さの何倍かの重さで、その面倒さがのしかかってくる。
もちろん強迫性があるからですが。

実際には何も面倒なことはしていないのに、前もってその面倒さを苦しんでしまうという損なところがあります。

そういうふうに、いろいろな意味で言葉や観念のほうが現実より(妙な言い方ですが)実感をもってせまってくるようです。

言葉や観念のなかに閉じ込められて、現実がリアルに感じられない状態ですね。
で、強迫行為などは、観念に支配されているのですから、現実のなかではまったく的外れな行動の繰り返しとなります。

強迫神経症の人はよく「五感にたちかえる」ということを言います。
それも大事なことです。
でも最初は、その五感ですら、観念からしか入れないところがあります。

冷たい水で手を洗い続けている人は、「○回洗う」ということのほうが重大すぎて、手の痛みも感じる余裕がありません。

とにかく頭のなかのことがリアルで重大なので、往々にして強迫の人は「思考」や「観念」で、自分のこの苦しみを解決しようとします。
自分のやっていること、自分の考えていることが常識的にはおかしいということを、自分では十分わかっている。
この妙な考えを打ち消したい。
けれど、思考は思考で打ち消すことができない。この強迫思考を生み出す背後には大きな不安があるからです。

思考ではこの苦しみはどうにもできない。これを心にとめて、とにもかくにも、「現実」に向かって踏み出すしかない。
現在、強迫神経症を持ちながらもなんとか仕事をしている、社会で生きているというかたは、多分半分夢のようでありながら必死だと思います。

そういうかたでも、「もっと現実に直面する」ということが必要になってきます。

不快なことが嫌いな人が多いので不本意だとは思いますが、気楽にのんびりできる境遇では多分いつまでも苦しいままです。

締め切りのあることに挑戦する。他の人が待っているという環境をつくり、そのうえで何かをする。時間を区切ってものごとをする。
とにかく自分以外の、外側の人、外側のものを利用して、いやいやでも現実へと踏み出していくのです。

強迫神経症についてはまた次回に。


夏の花


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強迫神経症について その1


今回は強迫神経症について。
ひとつ確認しておきますが、森田神経質と言われる森田療法適応の症状の根には、すべて「強迫性」というものがあります。
たとえ症状が対人恐怖でも、不安神経症でも、身体のことが気になる普通神経症でも、すべて根底にあるのが、この「強迫性」です。

強迫神経症にだけ、強迫性があるわけではありません。

強迫性とは、ひとつ気になることがあると、何度も何度もそこに気持ちが戻ってきてしまい、ついには気持ちがその「気になること」から離れなくなるという心性のことです。
森田療法はこの強迫性(それと自己愛性)に対する療法です。

強迫神経症についてはいろいろと語りたいのですが、今回はとあるかたがご自身の症状を参考にしてくれてもいいと言ってくださったので、それを例にして説明してみたいと思います。

このかたの症状は、こんなふうでした。
「私の症状は、エイズが蔓延し始め不治の病と言われた頃に、どうもエイズ恐怖症に近かったような気がします。エイズウイルスは空気に触れれば5分ぐらいで死滅すると言われていますので、現在はエイズのことは気になりませんが、今はそれよりトイレに行った後の靴の裏とか、汚い道路を歩いてきたあとの靴の裏とかが汚いものと思うようになりました。ひょっとして汚いものを踏んできたのではないかと気になってしまうのです。頭ではそんなことはアバウトでいいと思っても、感情に負けてしまいます」

エイズ恐怖症は、疾病(しっぺい)恐怖に分類されるものです。
疾病恐怖とは、自分がたいへんな病気にかかっているのではないかと恐怖し、そのことで頭がいっぱいになることです。
癌恐怖などもそうですね。

病院で「あなたはHIVに感染していません」と太鼓判を押されても、それでも信用できません。
何回も検査を繰り返したりします。
誰でもエイズはこわいのですが、検査をして違うとわかれば安心します。

疾病恐怖の人は安心できない。
不安と疑いを持ち続けます。

このかたは、その症状は消えて、現在は不潔恐怖に悩んでいらっしゃるようです。
これも神経症の面白いところですが、症状が移り変わることがある。

不安神経症の人が強迫神経症になることがありますし、強迫神経症では恐怖の対象が移り変わるのです。

頭のなかだけで何かをこわがっているのが強迫観念。
その強迫観念から解放されたくて、行動してしまうのが強迫行為。

まれに強迫行為をしても、それを治そうとする意欲が薄い人がいます。
つまり「それをすることが気持ちいいから」いつまでも手を洗ってしまう。
そういう人もいます。
こういうかたは、精神療法には向かないようです。

殆どの強迫神経症の方は、なんとかして治したいという強い意志をもっています。

強迫観念、強迫行為は、あまりに苦しいし、外からもよくわかるし、生活に支障をきたす、家の人などに迷惑をかけることがあるので、これをなくそうと焦るのです。

ですから強迫神経症を治すと言われるいろいろな治療法では、技法論が盛んに語られます。

強迫神経症の人たちも、「こうしたらいい、ああしたらいい」と、強迫行為をやめる方法の模索に必死です。

ところが、森田療法的に言うと、(もちろんのことながら)その方法の模索がさらに症状を悪化させることになります。

森田は言っています。
「治療に拘泥するということは、同時に病に執着するということである」(全集1巻)

実際、強迫神経症は「徐々に」治っていくというより、あるとき気づいたら症状がなかったというふうになっていることが多いのです。
また次回にそのことについて書きたいと思います。



7月の花

「明日」が楽しみ?

先日、何かの記事(多分健康本か何かの体験談だったか・・・)を読んでいたら、とあるかたが、「今は毎晩、明日はどんな楽しいことがあるかとワクワクしながら寝ます」と書いていて、びっくりしました。

なぜびっくりしたかというと、私にはこういうふうに考えたことが、久しくないからです。

毎晩、眠るときに考えることは、「明日はあれとこれをやって、何時からは◯◯で・・・」ということばかり。

たまに、次の日に楽しみにしていたライブがあったり、久しぶりの友人に会う予定があったりすると、少し「」という気持ちになりますが、そういう特別な日だけです。

人にはそれぞれ思考のクセというようなものがあって、このところ私の思考は「~しなくては」ということで、埋まっているような感じ。

だんだん「こなす」ことが主眼になっていって、「する」ことに楽しみを感じることから遠ざかっているようです。

まずいです。


ところがこんなのはまだいいほうで、悩んでいるかたのなかには、「明日はもっと事態が悪くなるだろう」と確信しながら眠りにつく人もいるようです。


そういう人でも明日が楽しみなこともあると思うのですが、「あまり期待し過ぎると、それが期待はずれだったときに落胆が大きくなる」と言って、なるべくそのワクワク感を無視しようとするかたもいます。


こういうふうに、本来は帳尻合わせをすることができないものについて、一生懸命頭のなかで足し算引き算をするのは、強迫神経症系のかたに多いようです。


そのクセがまた神経症の一因にもなっているような気もしますが、そういうクセなので、仕方ありません。

とにかく「感情」まで差し引きしてしまう。


ということは、強迫神経症のかたは、ひとつのいやな感情なり感覚を、徹底的に味わってしまう人だとも言えます。

それはつまり逆に言えば、感情に優劣をつけ、できるだけ「快」の感情を味わおうとする欲求があると言えます。


実は快感追求型の人ではないかと思います。

ところが、そのために不快な感覚が極度に怖くなり、注意を集中し、ますます深く感じてしまう。

頭のなかで巨大になったその感情、感覚を拭い去るために、強迫観念や強迫行為が出来上がるわけです。


感情は自然現象。

生きていく間には、自分にとって不快に感じることも快に感じることもどちらも起こってくるし、避けることはできない。

大事なのはそんなふうに感情を云々することではなく、淡々と生きていくこと。

 

まぁ、こんなことを書いていると、何が起きるかわからないのに「明日が楽しみ」なんていうのは邪道な気もしますが、そう考えるのも自由。


「何か楽しいことがあるかも」と思っていれば、桜が咲いたのも楽しく、散っていく姿も美しく感じるものです。


というわけで、「明日はどんな楽しいことがあるだろう」と思って、寝てみました。


で、オフィスに着いてみたら、封筒が一通。

開けてみたら家賃値上げの通知・・・・。


あぁ・・・消費税!!


         桜2014 都会の夜桜

順番志向

完全主義者の傾向のひとつだと思うのですが、何かものごとに順番をつけて、そのとおりに進めようとする傾向があります。

実は私にもその傾向は多分にあります。

たとえば、部屋の片付けなども、「まずはここを拭いてからここを掃いて・・・」などと、頭のなかで順番をつけながら、やっていきます。

出かけるときも当然なことですが、あそこに先ず寄って、それから郵便局に行って、次はスーパーに行って・・・と組み立ててから出かけます。

こういうのは、ごく当たり前のことですね。
順番をはっきりさせて、次々こなしていくほうが、効率が良いに決まっています。

しかし、どうもこのように順番をつけることが、効率を下げる場合があるようです。

たとえば、私の頭のなかにある順番・・・

「もう少し身体が健康になってから〇〇を始めよう」
「これとこれが終わってから、あの書類を書こう」
「このテーマについて書くには、あれとあれをしっかり読み終わってから書こう」

ところが時として、〇〇を始めようという次の順番までに、なかなか行き着かないことがある。

ずっと、その前の段階にとどまって時間だけが過ぎていくのです。

なぜなのでしょう。
いろいろな理由が考えられます。

この頭のなかの順番が私の「気分」と密接に関係している。

つまり本題にとりかかるのが不安だから(あるいは単純にイヤだから)、その不安な気分を何とかなだめようとして、本題の前に前段階を設けているのかもしれません。

これは、少し強迫神経症の心理に似ているのかもしれません。

何か人生にとって大切なこと、大事なことにとりかかる必要があるとわかっている。
しかし、それが不安だから、その前段階のことをていねいにしつこくやり続ける。

本当は、そのまま、今、本題にとりかかってもいいのに、こわくてそれができない。
だから、「順番」を作るのです。

実際の順番だったらいいけれど、そのようなときの手順というのは、どうもあまり実際的なものではなく、気分で作り上げたものであることが多いのですね。

あるいは、その順番が「言い訳」になっているのかもしれません。

「まだこれをやっていないから、とりかかるわけにはいかない」というふうに・・・。

ですから、強迫神経症の症状そのものが「言い訳」になってしまっている場合もあります。
「まだ症状が苦しいから、今のところはやめておこう」とか。

しかし、まずはものごとを始めてしまって、そこから足りなかったことを補っていってもいいと思うのです。

觀念のなかの順番であれば、現実のものごとをやっていくうちに、そんな手順をふまなくてもできた、と感じることもあるでしょう。

あるいは、準備しながら本題をこなしていくということだっていいのです。

完全主義者は、何かを始めるときにそれが完璧に進むことを望んでいる。
けれど、その「完璧」もまた、頭のなかの「完璧」であって、実際的なものでないことが多いと思うのです。

ですから、今あなたが、何かを始めたい、これをやりたいと思うなら、まずは手をつけてみたほうがいいのではないでしょうか。
手をつけてみると、觀念の「準備」ではなく、実際にこれをやったほうがいいとか、もっと違うことがわかってくる。


とにかく、「觀念」のなかにとどまらず、「現実」のなかに出ていくと、景色は全く違って見えるものです。


来年は私も、「健康になってから」などと言わず、もっといろいろなことを始めようと思っています。

思っているだけだから、まだ觀念なのですけれどね(汗)。


     ツリー  丸の内のクリスマスツリー
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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