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強迫的な人のパニック感

このところ、何人かの強迫系のかたがたとお話させていただくなかで、皆さん同じような場面で同じようなことで悩んでいらっしゃるということがわかりました。

その「同じようなこと」とは、こんな感じのことです。

(特に)仕事の場で、目上の人などに質問されたとき、あるいは話かけられたとき、頭のなかがパニックになり、適切な答えができない。
あとで冷静なときに考えれば、こう答えればよかったとすぐわかるので、悔しい。

とあるかたはこの時の感覚をこんなふうに表現なさいました。
「(質問などされたとき)とにかくいろいろな考えや感情が一瞬のうちに噴出してくる。それが、どれも同じような強さで湧いてくるので、頭のなかが混沌としてしまい、果たして何を答えたらいいかわからなくなる」

こういう表現をされると、ただ「パニック」と言われるよりずっとわかりやすいですね。
どうやらこういうことが、頭のなかで起こっているらしいのです。

それで、この同じ表現を使って、同じようなことで悩んでいるかたに「こういう感じですか?」と尋ねてみたら、「そうそう!」と同感してくれました。

もう強迫症状は乗り越えてしまったかたでも、日常の勤務でこのようなことで困っているかたが多くいるようです。

そんな場合、しどろもどろになってしまい、上司からこんなことを言われるそうです。
「お前の話は何を言っているのかよくわからない」
「言い訳から入るのか」

確かに仕事を進めていくうえで、いつもこんなふうだと困りますね。

それで、一人のかたに「そんなとき、どうすればいいと思う?」と逆にお尋ねしてみました。
そうしたら、こんなふうに考えてくださいました。

「そのときに問い返せばいいかもしれませんね。すぐに答えようと思わずに、相手に『すみません、今のお話はこういうことですか?』とか『ちょっと待ってください。そこのところ整理させてください』とか」

いいアイデアだと思います。
相手が目上の人だと、どうしても「早く答えなくちゃ」とか失態を見せたくないとかいう心理が働いて、それで余計にパニックになる。
こうやって問い返すことで、こちらに少し余裕ができることは確かです。

自分が年下だったり、部下だったりすると、私たちはどうも相手のことを「完全」だと勘違いすることがあるようです。
相手の言うことがわからなくても、自分が足りないせいだと思ってしまう。
相手だって説明が下手だったり、要点をはずすことがあるのです。

パニックの内容に戻りますが、もしかしたら強迫のかたの思考の癖として、同時にいろいろな考えが湧いてくる(そして拮抗作用が強いので、湧いてくる考えへの反論も湧いてくる)ことや、その考えのなかのどれが一番重要なものなのかわからなくなることがあるのかもしれません。

あまりにもたくさんの考えが頭のなかにひしめいているので、ことの軽重がわからなくなる。(だからこそ、不安が強い時は的を一点にしぼって「症状」にする必要があるのかも・・・)

ある意味、「ことの軽重がわからない」ということは、強迫的思考の特徴かもしれません。
自分の外側からの情報と、湧き上がってくる自分の内部の思考とが、同じように重大に思える。

このあたりの対処としては、やはり森田療法の「ものそのものになる」でしょうか。
「もの」とは、たった今自分が対処している現実。

普段から、「自分の思考」と「現実」とを区別する見方を意識する必要があるかもしれません。
本当に大事なのは、自分の外にある現実に対処していくことで、自分の思考については、森田正馬の言うとおり「ヒマヒマに考えればいい」のです。

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肥後細川庭園 ライトアップ (庭園めぐり始めました)

金銭へのとらわれ(症状)

前のブログでも少し触れましたが、強迫神経症のかたのなかに「金銭へのとらわれ」とでもいうべき症状を持っているかたがいるように思います。
もちろん全員ではありませんが。

ただ、強迫神経症のかたの金銭に対する態度というのは特徴的なようで、中井久夫先生などは「強迫神経症の人は、お金を払うことに怒りを感じている」と書いています。
また別の精神科医のかたは、強迫神経症の人は、ものすごく吝嗇かと思えば、突然浪費し始めたりするとも言っています。

どうも、強迫神経症と金銭との関わりは、何か目をひくことのようです。

しかし、この不景気で物価高の時代、誰しもが金銭に過敏にならざるを得ません。
節約法のYouTube動画とか、それだけでかなりのアクセス数があるようです。

では、そういう節約と「金銭へのとらわれ」とは、どう違うのでしょうか?

確かに金銭にとらわれている人は、お金の使い方に非常に敏感です。また「損得勘定」も発達していますので、頭のなかで瞬時に計算しているようなところがあります。
スーパーに行くと、値引き商品にとびつくとか、割引という言葉に惹きつけられるとか、とにかく「お金を使わないこと」に熱心です。
(値引きという言葉には、私も惹かれますが)
それだけお金を使わなければ、貯金もたくさんあって豊かなはずなのですが、不思議なことに「豊かな」印象がない。

やはりこれは「症状」ではないかと思うのです。

というのは、お金という一点のみにとらわれて、生活全般への視線がない。
たとえば、長期的なことを考えて今の自分に投資するとか、あるいは景気の動向に注意を払って投資をするとか、そういうことはあまりしていない様子。

節約するなら、調理の材料を計画的に買って作り置きするとか、家事のしかたを工夫して無駄なものを買わないように家を片付けるとか、仕事を効率化して余った時間に勉強して自己投資するなどしてもいいはず。
将来の自分の健康を考えて、食生活を見直したり、甘いものをやめたり、そういうこともしないようです。
むしろ、家は散らかったままで買い置きを忘れてまた買ってしまったり、いらないものにスペースを占領されて、居心地の良さを奪われていたりします。
自分の人生に対しての長期的な視野がない、生活の質を見る視線がない。

節約というのは、少ないお金で生活しながら、それと並行してどう工夫したら、そのなかで居心地よく過ごせるかを考えていくことではないのでしょうか。
そうすれば、健康にもなれて、医療費を節約することができる。余ったお金で生活を楽しむことができる。
節約とは、ただ粗末なもので我慢することでもなさそうです。

つまり強迫的な「金銭へのとらわれ」というのは、ただ頭のなかの家計簿でお金を足し算、引き算して、目先の金額に一喜一憂しているような感じです。
目の前のお金が減らなければそれでいい。
そして実は、金銭にこだわらざるを得ない自分がイヤでたまらない。
でも不安だから、吝嗇にならざるを得ないという心境なのです。

逆のことを言えば、少ないお金しかなくとも、生活のなかで工夫しながら、そのなかで生活を楽しむべく、精いっぱいのことをしていくーーそんなことができるようになれば、金銭への不安(症状)など、やがて忘れてしまうのではないでしょうか。

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言葉はただの道具

森田正馬は、「言葉」についていろいろ言及しています。
「言葉は符丁である」つまり「言葉とは事実ではなく、ただ物事を表すだけの道具」という記述が全集5巻にあります。

なぜ森田正馬はわざわざこんなことを言ったのでしょう。

「言葉=事実」と考えてしまうと、私たちの生活になんらかの支障が出てくるということでしょうね。

私たちは暗黙のうちに「言葉=事実ではない」ことを知っているけれども、それでもコミュニケーションのために言葉を使わざるを得ない。
生活が西洋化され、言葉至上主義になってくると、私たちはだんだん「言葉の外にあるもの」を忘れてしまうようになります。

不安障害の強迫観念タイプのかたは、特に言葉にこだわる傾向が強いような感じがします。
頭のなかで「ああでもない、こうでもない」と考えていることは、殆どただ言葉を言い換えただけのことだったりします。

なぜ言葉にこだわるようになってくるのか。
それは、言葉以外の感情、感覚が怖いからではないかと、私は思います。
理知偏重の人、そしてコントロール欲求が過剰な人にとっては、どこからか湧き出てくる「感情」「感覚」は、なにか恐ろしいものなのではないでしょうか。

だから「言葉」に置き換える。
そうすると、自分のコントロールがきくものに変化するような気がする。

そんなことをしているうちに、その言葉に示唆されるものがまるで本当のことであるかのような錯覚が生まれてくる。
たとえば、何かしらの違和感を覚え、頭のなかで「細菌」をイメージし、その細菌が手についていて「汚い」と思う。
反射的にその汚れを「落とさなければ」と思う。
そして何回も手を洗えば、汚れが「落ちた」気がする。
しかし、「汚れが落ちた」と自分に言い聞かせても、最初の違和感はそのままなので、結局洗い直さなくてはいけない。
この「細菌」は、頭のなかの違和感をイメージ化して置き換え、増幅したもので、事実ではありません。
ですからいくら洗っても、落ちた気はしないのです。

いつも言うように、この場合は、違和感をそのままにして耐える。
そして次の現実のものごとに移っていくしかないのです。
実生活でのちょっとした不快感、違和感を、言葉をつかって何かに置き換えないことです。

ちょっと難しくなりましたが、理知的な強迫神経症タイプの方は、もっと「言葉以外」のものに対する感性を鍛え、それに慣れたほうがいいような気がします。

今だったら、桜の花を見上げて、空の青さとのコントラストを楽しむ。
ペットの手触りを楽しむ。
美味しいご飯を、単純に楽しむ。

そこに下手な言葉を介入させないのです。

森田正馬はこんなことを言っています。
「フロイトは無意識を意識化したが、森田は意識を無意識化するともいえる」

つまり、フロイトは言語化することを通じて神経症を治そうとしましたが、森田療法は言語化し、意識化してしまった違和感を、日常生活のなかでもう一度無意識に戻すことで、神経症を「忘れる」という治療法なのです。

もっと五感を大切にする。
言葉でとらえられないものに目を向ける。

それが大切なのでしょうね。

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頭のなかが煮詰まるとき

「頭のなかが煮詰まる」という表現は奇妙かもしれませんが、実感のあるかたも多いのではないでしょうか。
特に強迫神経症に悩むかたのなかに、こういう時期があるように思います。
考えることがあまりに多くて、まったく行動できなくなるような、「うつ」的な時間です。

強迫神経症のかたは、「どうしたらいい?」という質問をなさる方が多い。
つまりこの苦しさを抜けるには必ず何か方法があり、それを会得すれば、この苦しさが薄れるに違いないと思う傾向があるのです。

森田療法での神経質症成立の過程をご存じのかたならおわかりになるように、この「どうしたらいい?」傾向が、精神交互作用を昂進させ、苦しさを増幅します。

しかし苦しいことは苦しいので、頭のなかは言葉でいっぱい。
なんとかしてこの苦しさや「イヤな感覚」から脱出したいと、言葉が頭のなかを駆け巡る。
あるいは「イヤなこと」から未来永劫逃れるために、どうしたらいいかを考え続ける。

強迫神経症のかたの頭のなかはこうなっているのではないかと、私は想像します。
そんな時は、外側から見るとそのかたは殆ど無表情、でも内面はヒートアップしているのではないでしょうか。

「森田療法は行動を勧めているから」と行動しようとする。
しかし「行動しよう」という言葉が頭をぐるぐるめぐっているだけで、何もできない。
それが自責感となり、またイヤな感覚を積み重ねていく。

そんなときに参考になるかなと思われる文章に出会ったので、ご紹介します。
他の病状のかたに向けて言っていることなので、意訳してご紹介します。

「できるだけ役に立たないことをどんどんやってもらってください。価値のないもの。そのへんにある石を蹴っ飛ばしたりするような。」

「小さい頃読書が好きだった人には、<本屋に行きなさい。それで、本を読んではいけません。ただ本屋のなかを歩くだけ>という、そうすると足腰が丈夫になる(笑)。そうして、<脳が回復してくると、必ずどこかの棚にある本があなたの脳を呼ぶから、呼べば自然に手が伸びて、触るようになってきて、見るようになるから。それまでは自分の意志で本を触ったりしてはいけません。ただそのなかを歩いてみる>。そしたら幼稚園ぐらいのときに本好きだった気分が、だんだん引っぱり出されてくる。そうすると子供時代と今がつながる」

「大事なことをなぜやらせんかというと、大事なことや有益なことやると、ずっとそこばっかりするから」
(神田橋條治「ちばの集い2」)

この文章の本来の趣旨からは少し違うのですが、「~をしなくてはならない」という妙な目的意識で埋まった強迫神経症のかたには、いいかなと思うのです。

損得勘定が働くので、症状治癒に一番有効なことをやって最短距離で楽な状態に到達したい。
その性向が自分を追い詰めていくような気がします。
ですから無駄なことをする、目的のないことを試しにやってみるということは良いかなと思ったのです。

ただ、「無駄なことをする」がまた標語になり、目的になって自分を縛るというサイクルができてしまうかもしれません。
「無駄なこと」をして、子供のころ感じた自分の「純なこころ」が沸き上がってくるといいのですが。
むずかしいですね!

きっと森田先生の入院療法は「あれをしろ、これをしろ」というものではなかったはずです。日常生活の場に入院生を置いて、身体や興味が自然に動くような環境を作ったのではないかと思います。

冬空



頭のなかの強迫

ふと思ったのですが、神経症の物書きの人や芸術家はいるけれど、神経症のスポーツ選手ってあまりお目にかかったことがありません。

ずいぶんたくさんの神経症のかたにお会いしていますが、スポーツ万能という感じのかたはごくごく少数だった気がします。
筋トレなどをなさるかたはいますけれどね。

つまりですね、スポーツって瞬間的な反射神経を競うものなので、そこで突出するためには、あまり思慮深い人は難しいのではないかなと思うのです。
「考え」が入ってしまうと、そこでもう0.1秒くらい遅れてしまう。

逆に言えば、スポーツに夢中になれば、その瞬間には症状は消えるのでは?という仮説もなりたちます。
考えるヒマがなくなりますから。

何を言いたいのかというと、神経症の人は考えている時間が長い!
とにかく、頭のなかでは、いつも様々な想念が入り乱れ、一大叙事詩みたいなものが展開されているようです。

過去のことや、未来のことを「ああでもない、こうでもない」と考えに考えて、頭のなかで何とかしようとしています。

強迫性がありますから、同じ考えが繰り返され、ものごとは頭のなかで深刻化して、大変なことになってきます。

たとえば、ずっと学校へ行けないでいる人のことを考えてみましょう。
本当は行きたい、何とかしてまた復帰したいと切に願っている場合がほとんどです。
そんなとき、行きたければ行きたいほど、行けなくなる、という逆説的なことが起きてきます。

「行かなければならない」とあまりに考えると、そのことを何度も何度も考え、シュミレーションする。

そんなときは、楽観的な気持ちになどなれないので、状況がどんどん悲観的に見えてくる。
自分がうまくやれるようには思えない。
あるいは、行くことがとても複雑で面倒なことに思えてくる。
考えれば考えるほど、気持ちは重く、先に進むことは面倒臭く感じられる。

そうやって、出かける前に何時間でも悩むのです。

ところが、はたから見ていると、本人は何もせずボーッとしているように見えます。
それで、脇から声をかけたくなる。
「どうするの?もう行かなくちゃいけないんじゃない?」
そんなことを言われると、ますます本人のなかの「行かなくちゃ」願望が強くなり、それとともにグルグル思考が強くなります。

そして結局、身体は動かず、気持ちはどんどん悲惨なことになり、ずっと悩み続けることになります。

どうも強迫性のあるかたは、現実を自分の頭のなかで変形させて、気持ちに重しをかけているようなところがあります。

身体を動かして、先に進んでみると、現実はもっと簡単なことだとわかるのですけれどね。


ume


神経症でお悩みのかた、遠方のかたは電話相談もしております。お茶の水セラピールーム
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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