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頭のなかの強迫

ふと思ったのですが、神経症の物書きの人や芸術家はいるけれど、神経症のスポーツ選手ってあまりお目にかかったことがありません。

ずいぶんたくさんの神経症のかたにお会いしていますが、スポーツ万能という感じのかたはごくごく少数だった気がします。
筋トレなどをなさるかたはいますけれどね。

つまりですね、スポーツって瞬間的な反射神経を競うものなので、そこで突出するためには、あまり思慮深い人は難しいのではないかなと思うのです。
「考え」が入ってしまうと、そこでもう0.1秒くらい遅れてしまう。

逆に言えば、スポーツに夢中になれば、その瞬間には症状は消えるのでは?という仮説もなりたちます。
考えるヒマがなくなりますから。

何を言いたいのかというと、神経症の人は考えている時間が長い!
とにかく、頭のなかでは、いつも様々な想念が入り乱れ、一大叙事詩みたいなものが展開されているようです。

過去のことや、未来のことを「ああでもない、こうでもない」と考えに考えて、頭のなかで何とかしようとしています。

強迫性がありますから、同じ考えが繰り返され、ものごとは頭のなかで深刻化して、大変なことになってきます。

たとえば、ずっと学校へ行けないでいる人のことを考えてみましょう。
本当は行きたい、何とかしてまた復帰したいと切に願っている場合がほとんどです。
そんなとき、行きたければ行きたいほど、行けなくなる、という逆説的なことが起きてきます。

「行かなければならない」とあまりに考えると、そのことを何度も何度も考え、シュミレーションする。

そんなときは、楽観的な気持ちになどなれないので、状況がどんどん悲観的に見えてくる。
自分がうまくやれるようには思えない。
あるいは、行くことがとても複雑で面倒なことに思えてくる。
考えれば考えるほど、気持ちは重く、先に進むことは面倒臭く感じられる。

そうやって、出かける前に何時間でも悩むのです。

ところが、はたから見ていると、本人は何もせずボーッとしているように見えます。
それで、脇から声をかけたくなる。
「どうするの?もう行かなくちゃいけないんじゃない?」
そんなことを言われると、ますます本人のなかの「行かなくちゃ」願望が強くなり、それとともにグルグル思考が強くなります。

そして結局、身体は動かず、気持ちはどんどん悲惨なことになり、ずっと悩み続けることになります。

どうも強迫性のあるかたは、現実を自分の頭のなかで変形させて、気持ちに重しをかけているようなところがあります。

身体を動かして、先に進んでみると、現実はもっと簡単なことだとわかるのですけれどね。


ume


神経症でお悩みのかた、遠方のかたは電話相談もしております。お茶の水セラピールーム

強迫神経症について その3

さて、また続きです。

強迫神経症のかたが自分のぐるぐる思考から抜け出し、外へと踏み出すためには、外側のものごとを利用するということを書きました。

実例をひとつあげてみます。

「その1」でとりあげた不潔恐怖のかたの例です。

「不潔恐怖の場合は他の行動に移る前に綺麗な手でないと触ったものまでが汚れてしまうと考えて他の行動になかなか移れないのです」

よく考えてみれば、これは不潔恐怖だけの問題ではないようです。
対人恐怖にしても、不安神経症タイプの人にしても、「次に自分がこう踏み出すと、こういうことが起こるだろう」と予測して心配で、行動ができないということはあり得ます。

強迫タイプのかたは、強迫神経症だけ特別に苦しいと思いがちですが、それは「強迫行為」という、一見派手な、正常な生活から浮き上がったような症状があるからでしょう。
「どうしてもこれをとらなければ」「とればすっきりするだろう」という「治癒に対する強い執着」が出てくるのです。

ですから、外側のものごとを使うというのは、どの症状のかたにも応用できることです。

「きれいな手でないと・・・」と考えるのは、別にかまいません。
私だって、手が汚いと感じられる時には、洗ってから次の行動に移ります。当たり前の感覚です。
問題はその「手が汚い」感覚をすっきりさせることに長時間を使うことですね。
(これを「気分本位」の行動と言います。実際は不安を振り払おうとしている行動です)

ではこんなときに「外側のものごとを使う」とはどういうことか?
まずは「時間」。そのていねいに手を洗うという行動にどれだけ時間がかかったか計ってみる。
時間を縮めようとするのではないですよ。ただ計るだけでいい。
強迫行為がどれだけ自分の「人生の時間」を浪費させているか、ちょっと頭の隅にとめておく。
もちろん、水とかボディーソープとかの無駄使いにも気づいておく。

もっと外側のことにも踏み出しましょう。
仕事やおつきあいで、他の人と約束し、その約束を守る、ということです。

約束を反故にしない。時間を守る。できればその出かける用事の内容にまで気を配り、事前準備をしておく。

こういうときに、「人によく思われたい」とか「いい人に思われたい」「変な人と思われたくない」という自分の傾向を活用しましょう。
実際、家の外では強迫行為をしないという人は圧倒的に多いですね。

つまり我慢できるのです。
そして皆、頭のどこかでこの「強迫行為」は、不毛で無駄な行動だということに気づいている。
強迫行為をしなくても、社会的には行動できるのですから。
しかし、ただただ不安に圧倒されて「わかっていてもやめられない」という声も聞こえてくる気もします。

とにかく、外側へ、社会へ、他人との関わりへと足を踏み出す。
そのなかで、「きちんと仕事ができた」「約束を守れた」という手ごたえが出てくる。
自分の家のなかでも、強迫行為を治すこと以外のものごとに興味を持つ。
それについて、もう少し調べてみる。
そうすると元来、好奇心が旺盛なタイプですから、興味はいろいろ広がってくるはずです。
そうしたら、それに手をつけてみる。

そんな行動の連続が、強迫神経症から自分を引き離して、やがてはそんなことを忘れるようにしてくれるのです。

でも、その先が肝心です。
強迫行為や観念が以前ほど気にならなくなったり、生活に差しさわりがなくなったりすることは、ある意味、スタートラインに立ったということ。

今度はそういう症状を起こしていた自分の傾向に気づいたり、自分を苦しめていた「かくあるべし」に気づいたり、そのために周囲の環境が見えていなかったこと、人生の時間や資源を無駄にしてきたことが、目の前にたちはだかってきます。

それが神経症に苦しんだ人たちにとっての、本当のスタートラインなのだと思います。

森田療法の真価は、症状をとることだけではない。
そこから先の人生までもカバーしている、応用範囲の広い思想でもあるのです。


夏の花2

強迫神経症について その2

前回の続きを書こうと思いながら、ついつい時間がたってしまいました。
別に書こうということがまとまっていないわけでもないのに、文章にするまでが長くなるのですね。

考えるに、強迫タイプのかたはこういう傾向が大きいのではないでしょうか。
つまり、頭ではいろいろなイメージがあるのに、現実に手を出す(あるいは足を踏み出す)までの時間が途方もなく長い。

頭のなかでは、非常にクリアに「何かをする」イメージがあるのに、実際にはまったく何もしていない。
現実のものごとは進行していない。

強迫神経症の人の頭のなかは、実に忙しいのではないかと思います。
何かをする前にやらなくてはならない強迫行為の段取りとか・・・。
あとで後悔しないために、今やっておかなくてはならない強迫行為とか、考えておかなくてはならない強迫観念とか。

普通の人がぼんやり考えているようなときでも、いろいろときぜわしく考えていなくてはならない。
思考はフル回転です。(主に同じようなことを繰り返し考えているのですけれど)
それで一日が終わる頃には疲弊してしまう。
でも身体は何も動いていない。

不思議ですね。人間って何か行動をしていなくても、思考するだけで疲弊してしまうのです。
強迫神経症の人はその典型。

強迫タイプの人の頭のなかでは、思考(言葉)と現実との区別がついていないことが多いようです。
なんと表現したらいいのでしょう。
現実と自分との間に「言葉」が立ちはだかるというか・・・
言葉が現実のように思えてしまうのですね。

一つの言葉でも、それに負荷がかかって実感的に重いものになってしまう。
たとえば「面倒だ」という思いがあるなら、普通の人が感じる面倒さの何倍かの重さで、その面倒さがのしかかってくる。
もちろん強迫性があるからですが。

実際には何も面倒なことはしていないのに、前もってその面倒さを苦しんでしまうという損なところがあります。

そういうふうに、いろいろな意味で言葉や観念のほうが現実より(妙な言い方ですが)実感をもってせまってくるようです。

言葉や観念のなかに閉じ込められて、現実がリアルに感じられない状態ですね。
で、強迫行為などは、観念に支配されているのですから、現実のなかではまったく的外れな行動の繰り返しとなります。

強迫神経症の人はよく「五感にたちかえる」ということを言います。
それも大事なことです。
でも最初は、その五感ですら、観念からしか入れないところがあります。

冷たい水で手を洗い続けている人は、「○回洗う」ということのほうが重大すぎて、手の痛みも感じる余裕がありません。

とにかく頭のなかのことがリアルで重大なので、往々にして強迫の人は「思考」や「観念」で、自分のこの苦しみを解決しようとします。
自分のやっていること、自分の考えていることが常識的にはおかしいということを、自分では十分わかっている。
この妙な考えを打ち消したい。
けれど、思考は思考で打ち消すことができない。この強迫思考を生み出す背後には大きな不安があるからです。

思考ではこの苦しみはどうにもできない。これを心にとめて、とにもかくにも、「現実」に向かって踏み出すしかない。
現在、強迫神経症を持ちながらもなんとか仕事をしている、社会で生きているというかたは、多分半分夢のようでありながら必死だと思います。

そういうかたでも、「もっと現実に直面する」ということが必要になってきます。

不快なことが嫌いな人が多いので不本意だとは思いますが、気楽にのんびりできる境遇では多分いつまでも苦しいままです。

締め切りのあることに挑戦する。他の人が待っているという環境をつくり、そのうえで何かをする。時間を区切ってものごとをする。
とにかく自分以外の、外側の人、外側のものを利用して、いやいやでも現実へと踏み出していくのです。

強迫神経症についてはまた次回に。


夏の花


強迫神経症でお悩みの方どうぞご利用ください。お茶の水セラピールーム

強迫神経症について その1


今回は強迫神経症について。
ひとつ確認しておきますが、森田神経質と言われる森田療法適応の症状の根には、すべて「強迫性」というものがあります。
たとえ症状が対人恐怖でも、不安神経症でも、身体のことが気になる普通神経症でも、すべて根底にあるのが、この「強迫性」です。

強迫神経症にだけ、強迫性があるわけではありません。

強迫性とは、ひとつ気になることがあると、何度も何度もそこに気持ちが戻ってきてしまい、ついには気持ちがその「気になること」から離れなくなるという心性のことです。
森田療法はこの強迫性(それと自己愛性)に対する療法です。

強迫神経症についてはいろいろと語りたいのですが、今回はとあるかたがご自身の症状を参考にしてくれてもいいと言ってくださったので、それを例にして説明してみたいと思います。

このかたの症状は、こんなふうでした。
「私の症状は、エイズが蔓延し始め不治の病と言われた頃に、どうもエイズ恐怖症に近かったような気がします。エイズウイルスは空気に触れれば5分ぐらいで死滅すると言われていますので、現在はエイズのことは気になりませんが、今はそれよりトイレに行った後の靴の裏とか、汚い道路を歩いてきたあとの靴の裏とかが汚いものと思うようになりました。ひょっとして汚いものを踏んできたのではないかと気になってしまうのです。頭ではそんなことはアバウトでいいと思っても、感情に負けてしまいます」

エイズ恐怖症は、疾病(しっぺい)恐怖に分類されるものです。
疾病恐怖とは、自分がたいへんな病気にかかっているのではないかと恐怖し、そのことで頭がいっぱいになることです。
癌恐怖などもそうですね。

病院で「あなたはHIVに感染していません」と太鼓判を押されても、それでも信用できません。
何回も検査を繰り返したりします。
誰でもエイズはこわいのですが、検査をして違うとわかれば安心します。

疾病恐怖の人は安心できない。
不安と疑いを持ち続けます。

このかたは、その症状は消えて、現在は不潔恐怖に悩んでいらっしゃるようです。
これも神経症の面白いところですが、症状が移り変わることがある。

不安神経症の人が強迫神経症になることがありますし、強迫神経症では恐怖の対象が移り変わるのです。

頭のなかだけで何かをこわがっているのが強迫観念。
その強迫観念から解放されたくて、行動してしまうのが強迫行為。

まれに強迫行為をしても、それを治そうとする意欲が薄い人がいます。
つまり「それをすることが気持ちいいから」いつまでも手を洗ってしまう。
そういう人もいます。
こういうかたは、精神療法には向かないようです。

殆どの強迫神経症の方は、なんとかして治したいという強い意志をもっています。

強迫観念、強迫行為は、あまりに苦しいし、外からもよくわかるし、生活に支障をきたす、家の人などに迷惑をかけることがあるので、これをなくそうと焦るのです。

ですから強迫神経症を治すと言われるいろいろな治療法では、技法論が盛んに語られます。

強迫神経症の人たちも、「こうしたらいい、ああしたらいい」と、強迫行為をやめる方法の模索に必死です。

ところが、森田療法的に言うと、(もちろんのことながら)その方法の模索がさらに症状を悪化させることになります。

森田は言っています。
「治療に拘泥するということは、同時に病に執着するということである」(全集1巻)

実際、強迫神経症は「徐々に」治っていくというより、あるとき気づいたら症状がなかったというふうになっていることが多いのです。
また次回にそのことについて書きたいと思います。



7月の花

着手恐怖

「ちゃくしゅ」恐怖と読みます。
神経症(不安障害)の症状のひとつです。
聞いたことがないかたが多いかもしれません。

もちろん神経症というのは、人間が不安になってひっかかる、どんなところにも出てきますので、「~恐怖」というのは、不安の数だけあると言ってもいいのです。

ただ、共通しているのは、症状ができてくる「からくり(プロセス)」だけです。

自分の感じた何かの違和感に執着し、それをどうにか取り払おうとやりくりするなかで、その違和感はどんどん大きいものになり、四六時中心から離れなくなる。
それが森田療法で言う神経症というものです。

しかし元になった不安は、人間ならば誰でも時と場合によって感じるもの。

森田療法が症状に対して何をするのかというと、この不安をきれいに取り去ることではないのですね。
「まず第一にその複雑な精神の葛藤を去って、これを単純な苦痛または恐怖に還元すること」なのです。(森田正馬)
つまり、「異常な不安」を「単純な不安」にしていくと言っていいのかもしれません。

もちろんここで症状は楽になりますが、森田療法のすることはそれだけではありません。その人の偏った価値観や人生観を変革していく方向にも働くのです。


それはまた別の機会に書くとして、今回は「着手恐怖」の話。

何か自分が大事だと思うことや、やり遂げるのが困難に感じられることに手がつけられないという症状です。

まさに誰にでもある不安ですね。

たとえば、レポートなどがどうしても書けない。提出期限ギリギリになっても手がつけられない場合。

「いいものを書きたい」という完全欲と、「いいものを書くにはたくさん調べ物をして、たくさん本を読んでとりかからなければならない」等という「かくあるべし」が、ものすごい「おっくう感」を引き起こし、手をつけるのさえ怖くなってしまう。
ギリギリになってあわてて書いて出すが、「もっと早く手をつけていれば、ずっと良いものが書けたのに」と後悔してしまう。

あるいは仕事で、これを片付けるには、苦手な人に連絡しなくてはならない。
しかしその連絡にどうしても手が出ない。
そのうちにタイミングを逃し、ますますバツが悪くなりギリギリになって連絡して失敗してしまう。

でも、これはむしろ普通の場合かもしれません。

「症状」ともなると、最後までレポートや論文が書けない。
苦手な仕事を無視して、結局やらずじまいになり、でもそのことをいつも心の片隅に持っていて、後悔し続ける。
次にはしっかりやろうと思っていても、同じ場合がくると同じように逃げてしまう。

こういうのが「着手恐怖」です。実生活に影響が出た場合ですね。

これも結構苦しいものです。
いつもいつも「できない自分」を責め続けているわけですから。

森田の処方はこうです。
書きたくないものがあったら、まずは机に原稿用紙や参考書をひろげる。
そしてそれを目の前にして眺めている。
そのうち少し書き出しだけでも書いてみようとかそういう気が起きたら書く。
途中でやめてもよいけれど、とにかくその道具だけでも出してみる・・・つまりまずは少しそれに関連した準備だけでもやってみる、ということでしょうか。

「やる気」など、待っていても起きませんから。

私も人前での話の準備におっくう感があります。
そんなときにはまずはPCの前に座る。

パワーポイントを開いてみる。(結構ここまでが大変だったりします)
デザインだけでも決めてみる。タイトルだけでも入力してみる。

そんなことをしているうちに、なんとなく気持ちがのってくるものです。
(しかしPCのこわいところは、そのうちネットの世界に迷いこんで時間がたったりすることですが)

こういうことは誰でも悩むことなのです。

それに「完全」というのは絵空事でしかない。

ものごとというのは及第点がとれればいいのだと、四苦八苦するうちに体験的にわかってくる。


どこかで完全でない自分にあきらめがつく。
きっとそんな体験にゆきあたる時がくるのではないかと思うのです。


          つつじ
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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