森田正馬 最後の弟子
瀬戸行子さんが、6月20日に逝去されました。
97歳でした。
といっても、森田療法関係の人以外は、どんなかたかわからないでしょう。
彼女は、生前の森田正馬から薫陶を受けたかたです。
そして正馬の臨終のときにも、そばで世話をなさいました。
森田博士の家に住み込んで学んだ人のなかで、現存する最後のかただったのではないかと思います。
彼女は森田博士の書物で、強迫観念は治ったのですが、教えを受けたいと森田博士の自宅に足しげく通うようになります。
当時、森田博士の自宅は、弟子や元入院生のために解放されていたようです。
そして瀬戸さんは、そのうちに、お手伝いさんとして、森田博士の家に住み込むようになりました。
それから昭和13年の博士の臨終のときに、そばに付き添うこととなったのです。
そのときのエピソードを、瀬戸さんは「形外先生言行録」(白揚社、絶版)のなかに、印象的に記しています。
読みにくいところは、少しアレンジして、以下に掲載します。
>>(森田の臨終3日くらい前のことです)
「その晩(森田先生は)またひどく咳こまれてお注射のとき、夜中のこととて電気を暗くしてありましたが、お苦しい息の下から、「電気をつけて」と叫ぶようにおっしゃいました。
誰かがサッとつけました。
先生はそのとき、「瀬戸さんはやっぱり気がきかん、それではとても駄目ですよ、ここでも出世ができないの、なぜつけなかったの」
(瀬戸) 「この前竹山先生がつけなくともいいと、いわれたから」
(森田) 「でも今は僕がつけよといいはしなかったの。えらい強情ですね」
(瀬戸) 「はい、それで今つけようと思ったのですが、そちらの手のほうが早かった」
(森田) 「そう。もっと素早くならなければいけない。電気をつけるとつけないと、どれくらいの損があるの」
(瀬戸) 「つけたほうがいいと思います」
(森田) 「それで自分の(瀬戸さんの)考えの方をとる。そうするとすべてが独創的になり、進歩する。竹山先生がそう言われたからと、いつまでもそうしていては駄目です。わかりますか?」といわれました。
森田療法を御存じないかたには、このエピソードの意味するところは、はっきりとわからないかもしれません。
森田療法の目標とするのは、その人固有の、内発的な力を引き出すことです。
知識過剰で、人の目を気にして、とかく教条的になりがちな人は、この内発的な力(本能、直観と言ってもいいのかと思います)を奥深くに押さえこんでいます。
森田博士は、入院や作業のなかで、自分の内発的な力に患者が気付くように指導していたのだと思います。
そして、この瀬戸さんへの指導もそのような文脈のなかにあります。
「誰かに言われたから~」ということを判断の基準にするのではなく、そのときに自分が感じたこと(それはたいてい、その場にもっともふさわしい感じです)にもとづいて判断する。
そして、いつも「今」にいること。(素早く という言葉であらわされていますね)
そんなことを、森田博士は、なんと自分が明日死ぬかもしれないときに、彼女に指導するのです。
教育者としての森田の気迫を感じます。
そして、そんな森田の指導をしっかり受け取った瀬戸さんも、着実に地道にご自身の人生を歩まれたことでしょう。
晩年はよくいろいろな森田療法関係の会合にご出席でした。
そんなときにお話をいただけることも度々ありました。
最後まで、その頭脳は明晰で、新しいことにも挑戦なさっていました。
下のお写真は今年の、新宿読書会のお花見のときの瀬戸さんです(安東邦彦氏撮影)
彼女の文章のなかに、森田博士を囲む、当時の森田診療所(文京区向ヶ丘)の雰囲気を、実になつかしく描写しているものがあり、私の大好きな一節です。
この情景を、イメージしながら、彼女の青春、そして人生に思いをはせたいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
<先生のお宅は、神経質者にとっては全く解放されていて、自由に本棚の書物を見せていただいたり、御診察を、襖越しに聞かせていただいたり、ときには患者さんを集めてお話が始まったりすると、いっしょに聞かせていただいたりいたしました。
そして夕方になると、大観音の鐘が、ゴーンゴーンと鳴る。患者さんの夕食を知らせる拍子木が、カチカチと鳴る。
そして私のような外来者にも、ちゃんと支度がされていて、あつかましく、よくご馳走になっては帰っておりました。
昭和10年、よき時代でもあったのでしょうか。
庭の筧(かけい)の水の音、鐘の音、拍子木の音、先生の咳ばらい、当時の情景がたまらなく懐かしく思いだされます>

97歳でした。
といっても、森田療法関係の人以外は、どんなかたかわからないでしょう。
彼女は、生前の森田正馬から薫陶を受けたかたです。
そして正馬の臨終のときにも、そばで世話をなさいました。
森田博士の家に住み込んで学んだ人のなかで、現存する最後のかただったのではないかと思います。
彼女は森田博士の書物で、強迫観念は治ったのですが、教えを受けたいと森田博士の自宅に足しげく通うようになります。
当時、森田博士の自宅は、弟子や元入院生のために解放されていたようです。
そして瀬戸さんは、そのうちに、お手伝いさんとして、森田博士の家に住み込むようになりました。
それから昭和13年の博士の臨終のときに、そばに付き添うこととなったのです。
そのときのエピソードを、瀬戸さんは「形外先生言行録」(白揚社、絶版)のなかに、印象的に記しています。
読みにくいところは、少しアレンジして、以下に掲載します。
>>(森田の臨終3日くらい前のことです)
「その晩(森田先生は)またひどく咳こまれてお注射のとき、夜中のこととて電気を暗くしてありましたが、お苦しい息の下から、「電気をつけて」と叫ぶようにおっしゃいました。
誰かがサッとつけました。
先生はそのとき、「瀬戸さんはやっぱり気がきかん、それではとても駄目ですよ、ここでも出世ができないの、なぜつけなかったの」
(瀬戸) 「この前竹山先生がつけなくともいいと、いわれたから」
(森田) 「でも今は僕がつけよといいはしなかったの。えらい強情ですね」
(瀬戸) 「はい、それで今つけようと思ったのですが、そちらの手のほうが早かった」
(森田) 「そう。もっと素早くならなければいけない。電気をつけるとつけないと、どれくらいの損があるの」
(瀬戸) 「つけたほうがいいと思います」
(森田) 「それで自分の(瀬戸さんの)考えの方をとる。そうするとすべてが独創的になり、進歩する。竹山先生がそう言われたからと、いつまでもそうしていては駄目です。わかりますか?」といわれました。
森田療法を御存じないかたには、このエピソードの意味するところは、はっきりとわからないかもしれません。
森田療法の目標とするのは、その人固有の、内発的な力を引き出すことです。
知識過剰で、人の目を気にして、とかく教条的になりがちな人は、この内発的な力(本能、直観と言ってもいいのかと思います)を奥深くに押さえこんでいます。
森田博士は、入院や作業のなかで、自分の内発的な力に患者が気付くように指導していたのだと思います。
そして、この瀬戸さんへの指導もそのような文脈のなかにあります。
「誰かに言われたから~」ということを判断の基準にするのではなく、そのときに自分が感じたこと(それはたいてい、その場にもっともふさわしい感じです)にもとづいて判断する。
そして、いつも「今」にいること。(素早く という言葉であらわされていますね)
そんなことを、森田博士は、なんと自分が明日死ぬかもしれないときに、彼女に指導するのです。
教育者としての森田の気迫を感じます。
そして、そんな森田の指導をしっかり受け取った瀬戸さんも、着実に地道にご自身の人生を歩まれたことでしょう。
晩年はよくいろいろな森田療法関係の会合にご出席でした。
そんなときにお話をいただけることも度々ありました。
最後まで、その頭脳は明晰で、新しいことにも挑戦なさっていました。
下のお写真は今年の、新宿読書会のお花見のときの瀬戸さんです(安東邦彦氏撮影)
彼女の文章のなかに、森田博士を囲む、当時の森田診療所(文京区向ヶ丘)の雰囲気を、実になつかしく描写しているものがあり、私の大好きな一節です。
この情景を、イメージしながら、彼女の青春、そして人生に思いをはせたいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
<先生のお宅は、神経質者にとっては全く解放されていて、自由に本棚の書物を見せていただいたり、御診察を、襖越しに聞かせていただいたり、ときには患者さんを集めてお話が始まったりすると、いっしょに聞かせていただいたりいたしました。
そして夕方になると、大観音の鐘が、ゴーンゴーンと鳴る。患者さんの夕食を知らせる拍子木が、カチカチと鳴る。
そして私のような外来者にも、ちゃんと支度がされていて、あつかましく、よくご馳走になっては帰っておりました。
昭和10年、よき時代でもあったのでしょうか。
庭の筧(かけい)の水の音、鐘の音、拍子木の音、先生の咳ばらい、当時の情景がたまらなく懐かしく思いだされます>
