無所住心
「無所住心」という字面を眺めてみます。
私には漢文の素養がないので、かえって自由に連想が働くのかもしれません。
「心には住むところがない」のでしょうか?
面白そう。
こっちの方が面白そうですが、そういう意味ではないのですね。
森田正馬はこう書いています。
「この「不安定の姿勢」は・・・(中略)・・禅のいわゆる「無所住にしてその心を生ず」ということにも相当するかと思う。
「無所住」とは、心がどこにも固着・集中していないことで、そのときにはじめて心が、無罣礙(むけいげ)に自由自在に働くということである。それはたとえば、直立不動で、足を固く踏みしめているとか、あるいは手を震えないように、心をハラハラしないようにと、その方にのみ心を固く頑張っているとかいう固着した心でないことである」
私たちは、「集中力を養う」とか、「集中力が足りない」とか言って、まるで心が動かずひとつのところにとどまっているほうが良いことのように教わってきました。
私もときどき、自分はなんて集中力がないのだろうと、がっかりすることがあります。
でも、きっとそんなことは、嘆くことではないのでしょうね。
心がひとつところに固着せず、自由自在であるときに、仕事ははかどり、その場その場で適切な行動がとれるようになるようです。
と、聞くと、神経質の人は、すぐにそのような状態にどうやったらなれるだろうと考えますが、自分の外側の現実を感知して、その状況に合わせて動いているときは、無所住心なのでしょう。
なにしろ、上記の森田正馬の文章でわかるように、「不安定の姿勢」のほうが、よいようなのですね。
たいていの人は、心の安定、身体の安定を求めているのに・・・。
ここが、森田療法が逆説的である所以です。
不安定なら不安定のままでいる。そこに(作りだしたものではない)真の安定が出てくる。
不安定即安定
こういう考え方には、「武道」の影響が濃いのではないかと私は思います。
森田正馬は、もちろん禅の言葉をたくさん引用していますが、それは説明のためであって、森田正馬自身が禅のことばを理解し、応用し得たのは、彼が武道家だったからだと思うのです。
この、無所住心を、たとえば剣道などで考えてみれば、理解できるような気がします。
(といっても、私は剣道の経験などはないので、あくまで観る側の感想です)
剣道のときには、きっと相手の剣先にだけ集中していたら、すぐに負けてしまうのでしょう。
相手の気合、足の運びや身体の動き、すべてに注意をはりめぐらせていないと、打ち込む一瞬、防ぐ一瞬がわからない。
勝負のときの姿勢は、双方、「不安定な姿勢」であり「無所住心」でしょう。
ボーッと突っ立っている剣士とか、仁王立ちのままの柔道家などは考えられない。
目の前の状況に臨機に対応できるのは、私たちが「不安定の姿勢」でいるからこそなのです。
そうやって忙しく心を働かせながら、不安定な姿勢のまま、アップダウンを繰り返しながら、現実へのベストの対応につとめ、先の見えない人生を生きていく。
心は動き、身体も動き、時間は流れる。
結局、何をどう悩もうと、私たちはそうやって生きているのだと、思うのです。
私には漢文の素養がないので、かえって自由に連想が働くのかもしれません。
「心には住むところがない」のでしょうか?
面白そう。
こっちの方が面白そうですが、そういう意味ではないのですね。
森田正馬はこう書いています。
「この「不安定の姿勢」は・・・(中略)・・禅のいわゆる「無所住にしてその心を生ず」ということにも相当するかと思う。
「無所住」とは、心がどこにも固着・集中していないことで、そのときにはじめて心が、無罣礙(むけいげ)に自由自在に働くということである。それはたとえば、直立不動で、足を固く踏みしめているとか、あるいは手を震えないように、心をハラハラしないようにと、その方にのみ心を固く頑張っているとかいう固着した心でないことである」
私たちは、「集中力を養う」とか、「集中力が足りない」とか言って、まるで心が動かずひとつのところにとどまっているほうが良いことのように教わってきました。
私もときどき、自分はなんて集中力がないのだろうと、がっかりすることがあります。
でも、きっとそんなことは、嘆くことではないのでしょうね。
心がひとつところに固着せず、自由自在であるときに、仕事ははかどり、その場その場で適切な行動がとれるようになるようです。
と、聞くと、神経質の人は、すぐにそのような状態にどうやったらなれるだろうと考えますが、自分の外側の現実を感知して、その状況に合わせて動いているときは、無所住心なのでしょう。
なにしろ、上記の森田正馬の文章でわかるように、「不安定の姿勢」のほうが、よいようなのですね。
たいていの人は、心の安定、身体の安定を求めているのに・・・。
ここが、森田療法が逆説的である所以です。
不安定なら不安定のままでいる。そこに(作りだしたものではない)真の安定が出てくる。
不安定即安定
こういう考え方には、「武道」の影響が濃いのではないかと私は思います。
森田正馬は、もちろん禅の言葉をたくさん引用していますが、それは説明のためであって、森田正馬自身が禅のことばを理解し、応用し得たのは、彼が武道家だったからだと思うのです。
この、無所住心を、たとえば剣道などで考えてみれば、理解できるような気がします。
(といっても、私は剣道の経験などはないので、あくまで観る側の感想です)
剣道のときには、きっと相手の剣先にだけ集中していたら、すぐに負けてしまうのでしょう。
相手の気合、足の運びや身体の動き、すべてに注意をはりめぐらせていないと、打ち込む一瞬、防ぐ一瞬がわからない。
勝負のときの姿勢は、双方、「不安定な姿勢」であり「無所住心」でしょう。
ボーッと突っ立っている剣士とか、仁王立ちのままの柔道家などは考えられない。
目の前の状況に臨機に対応できるのは、私たちが「不安定の姿勢」でいるからこそなのです。
そうやって忙しく心を働かせながら、不安定な姿勢のまま、アップダウンを繰り返しながら、現実へのベストの対応につとめ、先の見えない人生を生きていく。
心は動き、身体も動き、時間は流れる。
結局、何をどう悩もうと、私たちはそうやって生きているのだと、思うのです。