必要に迫られる必要
前回の記事にも書きましたが、ボランティアで編集業務を受け持ち、自分でもまったく予定していなかったソフトの使いこなしまで、なんとかできるようになりました。
もし、必要に迫られなかったら、多分一生こんなことはしないですませていたでしょう。
そう考えると、必要に迫られるということは、結構大切なことなのかなと思います。
後世に名を残す大作家や作曲家なども、「生活費を稼ぐ必要に迫られて」必死で作品を書き続けた人、借金の返済のために多作だった人などがよくいます。
そうやって短期間で大量に書いたものだからと言って、決して質が悪くはないのが面白いところです。
そういう人は、あるいは呑気に暮らしていたら、そんなにたくさん名作を残さなかったかもしれません。
やはり普通の人間なら、楽な方に流れていくのが自然です。
よほど、自分のなかに何かの使命感、強いモチベーションがないと、自分の力だけでものごとを成し遂げていくのは、むずかしいものです。
ですから、もし自分が楽なほうに流れがちだと思ったら、何かの「必要」を自分で作ってみるのもいいかもしれません。
昔、森田療法の学習グループのなかで「頼まれたら引き受ける」ということを言われることがありました。
とかく消極的な神経質の人は、なるべく面倒なことは避けたがる、症状が出そうなところには行かないなどと、どんどん実生活から後退していく傾向があるようです。
でも、実は責任感は強いし、他人の目が気になるので、頼まれて、気が進まぬことでも、いい加減なことはしたくない。
だから、必死でやる。
そうすると、本来の自分ならやろうともしなかったことが、気づいたらできるようになっていたりするのです。
森田正馬も「忙しい境遇に身を置く」ということを言いました。
忙しいのはいやだ・・・ 面倒はいやだ・・・
そう思っても、もし自分にできそうだったらやってみる。
やっているときには、こんなに神経使って苦しい、ストレスフルだと思うかもしれない。
けれど、やり遂げてみると、「おぉ、ずいぶんがんばったね」と自分に言えるような充実感があるかもしれない。
充実感などなくても、やったという事実は残る。
そしてそれを遂行しているときに、何らかのスキルが身についたり、様々な発見ができるものです。
必要に迫られるということは、怠け者の私などには必要なことかもしれません。
しかし、くれぐれも、何でもかんでも引き受けてダウンしたりということはないように。
引き受けすぎる人は、「ノー」ということを覚えるのもひとつのスキル獲得。
何でも避けてしまいがちな人は、少しは必要に迫られる仕事に手を出してみる。
自分が人に依存していると気づいたら、依存できない環境に身を置いてみる。
義務とか責任とかいう言葉は、重くてマイナスのイメージかもしれませんが、そういうことこそ、自分を否応なく変化させてくれるものなのです。