マインドフルネス・シンポジウム
二週間ほど前ですが、「マインドフルネス・シンポジウム」に行ってきました。
創始者のジョン・カバットジン博士が来日して、講演やワークショップを開催するということで、その一環のシンポジウムを聞きにいったわけです。
それにしても、マインドフルネスは大人気で、私が情報を得た3ヶ月ほど前には、すでにワークショップは満員で締め切られていました。
このシンポジウムも、大きな会場で開催されたのですが、ほとんど席が埋まっていました。大体700人収容のホール。
600人は来ていたようです。
さてマインドフルネスとは、マインドフルネスストレス低減法(Mindfulness-Based Stress Reduction)のことで、ヨーガや禅がベースになっています。
呼吸や瞑想を通じて、不安、苦しみ、悩みとのつきあいかたを会得していくということでしょうか。
カバットジン博士は、マインドフルネスの定義として「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく、能動的に注意を向けること」と言っています。
森田療法をご存知のかたは、おわかりと思いますが、森田療法もまったく同じことを言っていますね。
しかし、マインドフルネスは禅やヨーガの学びから成立したわけで、つまり時代を超えて同じ結論にたどり着いたということなのでしょう。
このシンポジウムで私が思ったことは、やはり森田療法における「禅」の影響は、大きいのだなということです。
森田正馬は、自分は何回か参禅したことはあるけれど、公案をひとつも通過せず、それほど禅には詳しくないし、森田療法は禅ではないと、再三にわたり言っています。
宗教と混同されたくなかったのかもしれません。
しかし、「教養としての禅」とその考え方は、その頃の日本の社会には浸透していたのでしょう。
マインドフルネスの解説のなかには、随所に森田療法の言葉と同じ趣旨のものが出てきます。
「現在の体験のなかにしっかりといること」
「人は言葉を使い始めたとたんに間違う」
「気づきは思考ではない」 等々
これはきっと、禅の考え方のなかに含まれているものなのでしょう。
さてカバットジン博士は、中国、韓国で講演をし、それから日本に来たそうです。
つまり発祥の地である東洋へと、マインドフルネスを逆輸入しているわけですね。
ここらへんを考えるとすごく複雑な気分。
きっと私たちは「禅」の考え方とか、森田療法とかだと、あまり有難味を感じることができず、それが「マインドフルネス」と命名されたとたん、とても魅力を感じるのでしょう。
身近なものには、魅力を感じず、外来のものだと何かとても有難いもののように思える・・・。
ま、このあたりは西洋も同じで、だからこそ「禅ベース」とか「ヨーガベース」とかのものが、近頃もてはやされているのでしょう。
これは宿命的なものなのでしょうね。
日本であまり流行らない森田療法は、「モリタ・セラピー」として海外から逆輸入するのが一番いいんでしょうか・・・。
シンポジウムを聞きながら考えたのは、第三世代の認知行動療法と森田療法との差異は、「欲望」の扱い方と自然観かな、ということでした。
森田療法学会でも以上のことは指摘されていました。
しかしそうなると、今度は欲望論とか自然論とかを取り入れた「第四世代の認知行動療法」が、将来出てくるかもしれません。
発展途上の精神療法の強みです。
これも仕方のないことなのでしょうか。
さて最後に、カバットジン博士が引用していた言葉をひとつ・・。
(正確でないかもしれません)
空無に行き着くような、仏教的な匂いがするこういう言葉、私は結構好きです。
どこに行く必要もない
すべきことは何もない
何も達成しなくてよい

創始者のジョン・カバットジン博士が来日して、講演やワークショップを開催するということで、その一環のシンポジウムを聞きにいったわけです。
それにしても、マインドフルネスは大人気で、私が情報を得た3ヶ月ほど前には、すでにワークショップは満員で締め切られていました。
このシンポジウムも、大きな会場で開催されたのですが、ほとんど席が埋まっていました。大体700人収容のホール。
600人は来ていたようです。
さてマインドフルネスとは、マインドフルネスストレス低減法(Mindfulness-Based Stress Reduction)のことで、ヨーガや禅がベースになっています。
呼吸や瞑想を通じて、不安、苦しみ、悩みとのつきあいかたを会得していくということでしょうか。
カバットジン博士は、マインドフルネスの定義として「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく、能動的に注意を向けること」と言っています。
森田療法をご存知のかたは、おわかりと思いますが、森田療法もまったく同じことを言っていますね。
しかし、マインドフルネスは禅やヨーガの学びから成立したわけで、つまり時代を超えて同じ結論にたどり着いたということなのでしょう。
このシンポジウムで私が思ったことは、やはり森田療法における「禅」の影響は、大きいのだなということです。
森田正馬は、自分は何回か参禅したことはあるけれど、公案をひとつも通過せず、それほど禅には詳しくないし、森田療法は禅ではないと、再三にわたり言っています。
宗教と混同されたくなかったのかもしれません。
しかし、「教養としての禅」とその考え方は、その頃の日本の社会には浸透していたのでしょう。
マインドフルネスの解説のなかには、随所に森田療法の言葉と同じ趣旨のものが出てきます。
「現在の体験のなかにしっかりといること」
「人は言葉を使い始めたとたんに間違う」
「気づきは思考ではない」 等々
これはきっと、禅の考え方のなかに含まれているものなのでしょう。
さてカバットジン博士は、中国、韓国で講演をし、それから日本に来たそうです。
つまり発祥の地である東洋へと、マインドフルネスを逆輸入しているわけですね。
ここらへんを考えるとすごく複雑な気分。
きっと私たちは「禅」の考え方とか、森田療法とかだと、あまり有難味を感じることができず、それが「マインドフルネス」と命名されたとたん、とても魅力を感じるのでしょう。
身近なものには、魅力を感じず、外来のものだと何かとても有難いもののように思える・・・。
ま、このあたりは西洋も同じで、だからこそ「禅ベース」とか「ヨーガベース」とかのものが、近頃もてはやされているのでしょう。
これは宿命的なものなのでしょうね。
日本であまり流行らない森田療法は、「モリタ・セラピー」として海外から逆輸入するのが一番いいんでしょうか・・・。
シンポジウムを聞きながら考えたのは、第三世代の認知行動療法と森田療法との差異は、「欲望」の扱い方と自然観かな、ということでした。
森田療法学会でも以上のことは指摘されていました。
しかしそうなると、今度は欲望論とか自然論とかを取り入れた「第四世代の認知行動療法」が、将来出てくるかもしれません。
発展途上の精神療法の強みです。
これも仕方のないことなのでしょうか。
さて最後に、カバットジン博士が引用していた言葉をひとつ・・。
(正確でないかもしれません)
空無に行き着くような、仏教的な匂いがするこういう言葉、私は結構好きです。
どこに行く必要もない
すべきことは何もない
何も達成しなくてよい
