ただの好奇心
前回の「伝記を読む」ブログを読んで、「悩みや障害がありながらもがんばらなくてはいけないんだ」と、受け取ったかたがいるようなので、少し訂正です。
そういう思考だと、「これぐらいのことでめげている自分はダメだ」というふうに自分を鞭打つ方向に行きそうです。
どうも「伝記」という言葉を使っただけで、教科書に載っている偉人伝みたいなものに頭が慣らされていて、「偉い人の事績を学んで、自分の生き方に活かす」とオートマチックに考える流れがあるのかもしれません。
「偉人伝」というのは、今までそういう使われ方をして、子どもたちの教育に一役買っていたのでしょうね。
そういう偉人伝の弊害は、世の中には「完全無欠」の人間がいるような錯覚を与えることです。
それが「理想」になると、「欠点」と思えるものが他人や自分のなかに少しでも見えると嫌悪感を覚え、その人から離れたり、自分の欠点を矯正しようとすることになるのです。
本当に良質の「伝記」は、その人物をまるごととらえることができたもの。
良い悪いの価値判断ではなく、その人の事実に迫ったものだと思うのです。
そういう伝記を読んだときに、自分の心のなかに湧いてくるものは、「その人の生き方を見習おう」などという安易な考えではないと思います。
どんなことが感じられるかは、伝記によりけり。
まずは読んでみて、自分のなかの化学反応を楽しめばいいのです。
というわけで、私が「伝記」が好きなのは、ただの好奇心からです。
どんな育ち方をしたら、こんな人になるんだろう。
どんなDNA?
どのような時代背景だったのだろう。
取り巻く人たちはどんな人?
好奇心というものは、貴重なものです。
「これをやって何になる?」「これを読んでどうなる?」という損得勘定でなく、ただ知ること、やってみることが面白い。
別に結果が残らなくてもいい。
そんな好奇心が、自分のなかからどんどん出てきたら、悩みなどどこかへ行ってしまうと思います。
「何にでも手を出しなさい」というのは、森田正馬の言葉。
途中で飽きてやめても構わない。
手を出したいほどの好奇心が湧いてきた、そのことが大事だし、ただそれだけでいいのだと思うのです。

南方熊楠の伝記

美しいものがお好きなかたはこちらなどいかが?
そういう思考だと、「これぐらいのことでめげている自分はダメだ」というふうに自分を鞭打つ方向に行きそうです。
どうも「伝記」という言葉を使っただけで、教科書に載っている偉人伝みたいなものに頭が慣らされていて、「偉い人の事績を学んで、自分の生き方に活かす」とオートマチックに考える流れがあるのかもしれません。
「偉人伝」というのは、今までそういう使われ方をして、子どもたちの教育に一役買っていたのでしょうね。
そういう偉人伝の弊害は、世の中には「完全無欠」の人間がいるような錯覚を与えることです。
それが「理想」になると、「欠点」と思えるものが他人や自分のなかに少しでも見えると嫌悪感を覚え、その人から離れたり、自分の欠点を矯正しようとすることになるのです。
本当に良質の「伝記」は、その人物をまるごととらえることができたもの。
良い悪いの価値判断ではなく、その人の事実に迫ったものだと思うのです。
そういう伝記を読んだときに、自分の心のなかに湧いてくるものは、「その人の生き方を見習おう」などという安易な考えではないと思います。
どんなことが感じられるかは、伝記によりけり。
まずは読んでみて、自分のなかの化学反応を楽しめばいいのです。
というわけで、私が「伝記」が好きなのは、ただの好奇心からです。
どんな育ち方をしたら、こんな人になるんだろう。
どんなDNA?
どのような時代背景だったのだろう。
取り巻く人たちはどんな人?
好奇心というものは、貴重なものです。
「これをやって何になる?」「これを読んでどうなる?」という損得勘定でなく、ただ知ること、やってみることが面白い。
別に結果が残らなくてもいい。
そんな好奇心が、自分のなかからどんどん出てきたら、悩みなどどこかへ行ってしまうと思います。
「何にでも手を出しなさい」というのは、森田正馬の言葉。
途中で飽きてやめても構わない。
手を出したいほどの好奇心が湧いてきた、そのことが大事だし、ただそれだけでいいのだと思うのです。
美しいものがお好きなかたはこちらなどいかが?