リスクを負うこと、責任をとること
前回は、人が表現をしていくとき、その行為によってどんなことが起きてくるかのリスクは自分が背負うしかないというようなことを書きました。
これは人間のあらゆる行動に通じることです。
人が何か行動を起こしていくとき、そこには何らかの変化が生じます。
結局どんなところに帰結していくかわかりませんが、その未知の結果は引き受けるしかないのです。
(結果はコントロールできませんから)
神経症とは、この責任性に深く関わっている問題なのだと、私は思います。
森田全集のなかに出てくるエピソードです。
形外会のときに、布留氏(布留武郎氏/のちに国際基督教大学教授)がこんなエピソードを語ります。
彼には道徳恐怖というべきものがあって、たとえば一銭(当時のほんの少額のお金)を人に借りたとすると、それを返したい。
ところが相手は一銭などという僅かなお金は受け取ってくれない。
そうすると、自分が悪人になったようでどうしたらいいかわからなくなる。
そういう葛藤を抱えていたけれど、それが自分の神罰恐怖からくるのだと理解し、自分が聖人になることはできないと悟って、解消したというのです。
(余談ですが、フロイトの有名な症例「ネズミ男」も、同じように金銭の貸し借りで悩んでいます。彼の背景にもやはり神罰恐怖があるようです)
すると森田正馬はこういいます。
「その恐怖がどうしてなくなったか。つまり泥棒をすれば監獄に行く。食べ過ぎれば下痢をする。ゴロ寝をすれば風邪をひく。事実唯真。どうにも仕方がない。ただ事実に服従する。しかたがないから往生する、というだけの事で、強迫観念が治る。泥棒をして捕まらないようにしよう、いかもの食いをして下痢しないでおこうと思うから、強迫観念になるのである」
(森田全集5巻、第36回形外会)
わかりますか?
相変わらず、表現があまりに日常的で笑ってしまいますが。
森田は、このことは体験して初めてわかることだし、頭で理解しても解決にはならないと言っていますが、私風に解釈をしてみます。
まず、人には行動の選択の自由がある。
どんな行動を選ぼうがその人の自由です。
しかし、その行動を選択したからには、その結果はどうであろうと甘んじて受けるしかない。
それが当たり前のことなのだと思うのです。
たとえば、ある人が人前で赤面するのが苦しいと思ったとします。
だから会合に出ない。
社会的な生活は制限され、友人もできません。
それでいいのなら、人は赤面恐怖にはなりません。
ただ、ひきこもっていればいいのです。
しかし、赤面恐怖の人は、どうしても人と交流したい。
社会的な生活をしたいという欲求があります。
だったら、赤面するのが苦しくても会合に出ていくしかない。
しかし、強迫観念を起こす人は、人と交流したいけれど、赤くなる苦しみは味わいたくないと思うのです。
人と交流したいなら、赤面するという苦しみを味わいながらするしかないのです。
強迫行為の人にはこれではわかりにくいかもしれませんね。
ちょっと細かく表現するとこうなります。
たとえば、カギを確認するという行為をやめて、その場を離れたい。(終わらせたい)
どんな人にとっても、カギをかけて、外に出るという行為は、ほんの少しだけ不安を伴うものです。
(意識されないほどのものでしょうが)その不安は必ずある。
カギを確認して外に出る(強迫行為を終わらせる)というイヤな感覚は、当然のものなのに、そのイヤな感覚なしに、終わらせたいと思う。
強迫神経症の人は、この微妙な重荷感、不快感をどうしても経験したくないのです。
しかし、この(自分で何百倍にも育てあげてしまった)イヤな感覚を味わうことなしに、カギをかけて外に出ることは不可能です。
多分心のどこかに、カギをかけ忘れたときの責任を、自分は取りきれないと思うところもあるのでしょう。
イヤな感覚を味わいながらカギをかけ、前に進む。
不安だけれど、行動の先に起こってくるリスクを引き受けようと思う。
もちろんもし先に進めなくても、強迫行為で明け暮れた人生の責任を自分でとれればいいのですが。
(他人のせいや、病気のせいにしないで)
そうやって、自分の行動の結果、選択の結果を、事実として認めていくこと。
(事実に服従する)
人が自立していくこと、自分の責任で人生を引き受けていくこととは、そういうことなのではないかと思うのです。

(このところ、写真はプロの方のものをお借りしています)
これは人間のあらゆる行動に通じることです。
人が何か行動を起こしていくとき、そこには何らかの変化が生じます。
結局どんなところに帰結していくかわかりませんが、その未知の結果は引き受けるしかないのです。
(結果はコントロールできませんから)
神経症とは、この責任性に深く関わっている問題なのだと、私は思います。
森田全集のなかに出てくるエピソードです。
形外会のときに、布留氏(布留武郎氏/のちに国際基督教大学教授)がこんなエピソードを語ります。
彼には道徳恐怖というべきものがあって、たとえば一銭(当時のほんの少額のお金)を人に借りたとすると、それを返したい。
ところが相手は一銭などという僅かなお金は受け取ってくれない。
そうすると、自分が悪人になったようでどうしたらいいかわからなくなる。
そういう葛藤を抱えていたけれど、それが自分の神罰恐怖からくるのだと理解し、自分が聖人になることはできないと悟って、解消したというのです。
(余談ですが、フロイトの有名な症例「ネズミ男」も、同じように金銭の貸し借りで悩んでいます。彼の背景にもやはり神罰恐怖があるようです)
すると森田正馬はこういいます。
「その恐怖がどうしてなくなったか。つまり泥棒をすれば監獄に行く。食べ過ぎれば下痢をする。ゴロ寝をすれば風邪をひく。事実唯真。どうにも仕方がない。ただ事実に服従する。しかたがないから往生する、というだけの事で、強迫観念が治る。泥棒をして捕まらないようにしよう、いかもの食いをして下痢しないでおこうと思うから、強迫観念になるのである」
(森田全集5巻、第36回形外会)
わかりますか?
相変わらず、表現があまりに日常的で笑ってしまいますが。
森田は、このことは体験して初めてわかることだし、頭で理解しても解決にはならないと言っていますが、私風に解釈をしてみます。
まず、人には行動の選択の自由がある。
どんな行動を選ぼうがその人の自由です。
しかし、その行動を選択したからには、その結果はどうであろうと甘んじて受けるしかない。
それが当たり前のことなのだと思うのです。
たとえば、ある人が人前で赤面するのが苦しいと思ったとします。
だから会合に出ない。
社会的な生活は制限され、友人もできません。
それでいいのなら、人は赤面恐怖にはなりません。
ただ、ひきこもっていればいいのです。
しかし、赤面恐怖の人は、どうしても人と交流したい。
社会的な生活をしたいという欲求があります。
だったら、赤面するのが苦しくても会合に出ていくしかない。
しかし、強迫観念を起こす人は、人と交流したいけれど、赤くなる苦しみは味わいたくないと思うのです。
人と交流したいなら、赤面するという苦しみを味わいながらするしかないのです。
強迫行為の人にはこれではわかりにくいかもしれませんね。
ちょっと細かく表現するとこうなります。
たとえば、カギを確認するという行為をやめて、その場を離れたい。(終わらせたい)
どんな人にとっても、カギをかけて、外に出るという行為は、ほんの少しだけ不安を伴うものです。
(意識されないほどのものでしょうが)その不安は必ずある。
カギを確認して外に出る(強迫行為を終わらせる)というイヤな感覚は、当然のものなのに、そのイヤな感覚なしに、終わらせたいと思う。
強迫神経症の人は、この微妙な重荷感、不快感をどうしても経験したくないのです。
しかし、この(自分で何百倍にも育てあげてしまった)イヤな感覚を味わうことなしに、カギをかけて外に出ることは不可能です。
多分心のどこかに、カギをかけ忘れたときの責任を、自分は取りきれないと思うところもあるのでしょう。
イヤな感覚を味わいながらカギをかけ、前に進む。
不安だけれど、行動の先に起こってくるリスクを引き受けようと思う。
もちろんもし先に進めなくても、強迫行為で明け暮れた人生の責任を自分でとれればいいのですが。
(他人のせいや、病気のせいにしないで)
そうやって、自分の行動の結果、選択の結果を、事実として認めていくこと。
(事実に服従する)
人が自立していくこと、自分の責任で人生を引き受けていくこととは、そういうことなのではないかと思うのです。

(このところ、写真はプロの方のものをお借りしています)