強く、正しく、美しく??
神経症(不安障害)真っ最中のかたと接していて思うことは、皆さん、とても似たような価値観を持っている、ということ。
私の感覚では「強く、正しく、美しく」がその価値観。
「でも、それ、普通のことじゃない?」と思う方もいるかもしれません。
おぉ・・・・。
とにかく、その価値観の基本は「世間的に変だと思われないこと」なのではないかと思います。
人から批判されそうなことや、後ろ指を指されるようなことは、絶対にしたくないし、そのような存在でありたくない。
世間的に言われる「正しい」ことに敏感で、優先席で携帯をいじっている人を見かけると怒りでイライラしてしまう。
行儀の悪いことをしたり、順番を守らなかったり、職場でサボったりする人が大嫌い。
失態を演じたり、緊張する人を見ると、「あんなふうにはなりたくない」と思う。
心の奥で軽蔑する。
異性への見方が、最初から最後まで「どれだけ美しいか」が基準だったりする。
そんな価値観をもとに、他の人を判断しますから、結構他人に厳しい人になります。
非常に酷薄に他人を裁断するところがあります。
しかし他人のことはそれでもいい。
本当に一番苦しいのは自分です。
その価値観で、何よりも自分を過酷に批判し続ける。
それが神経症の根底にあるものなのでしょう。
こういう価値観を持っている人が、あるとき「自分はどこか人と違って変だ」と思ったときに神経症の症状が始まります。
例えば、いくらパーフェクトに「強く、正しく、美しく」ありたいと思っていても、人間の心はそんなに平面的なシンプルなものではない。
むしろ神経質の人は、奥行きのある複雑な性格ですから、自分のなかの「強くなく、正しくなく、美しくない」ものに気づいてしまう。
だったら、それに気づいて活かせばいいのですが、むしろ怯え、消そうとする。
行動や態度はどうにか「強く、正しく」を装えても、一番始末の悪いのが、「感情」です。
理性や知性でどう抑えこもうと思っても、「感情」は人間のもっと原始的で自然なところにあるものですから、何をどうやっても湧き上がってくる。
それを無理やり抑えこむための役割をになって出てきたのが、神経質の「症状」(不安障害)と呼ばれるものです。
ですから、最終的のこの価値観から自由にならないと、症状と呼ばれるものがなくなっても、本当には楽になれないかもしれません。
「じゃぁ、どうしたら自由になれるの?」という声がまた聞こえてきそう(^^;)
意識的にできることといえば、自分でない他者に興味を持ち、その心を知ろうとすることが役に立つかなと思います。
神経症の人は、他人も自分と同じように感じて、考えるという錯覚を持っているところがあります。
例えば、自分が声の震えや手の震えに過敏だと、皆がそこに注目していると思ってしまう。
他の人にとっても、それが重要なことだと考えているからです。
しかし、緊張したら、手が震えたり、声が震えるのは当たり前と思っている人にとっては、そんなことは重要ではない。
周りの人は、それぞれの価値観でものを見ています。
それは例えば、ファッションかもしれないし、話の内容かもしれない、あるいは震えた人にも、震えたことにもまったく興味がないかもしれない(笑)。
ですから多種多様な人の価値観、世界観に興味を持つことも大切です。
私が伝記を読むことを推奨するのも、このブログにいろいろな人を紹介するのも、そういうことを含んでいます。
そして、最終的には、自分の感情に気づき、それを認めて、感じてあげることでしょう。
それが、森田療法でいう「純なこころ」を感じることですね。
私たちの心は、強く、正しく、美しいだけじゃない。
怒ることもあるし、恐怖することもあるし、憂うつなこともある。
嫉妬することもあるし、意地悪な感じもあるし、人を憎むこともある。
(もちろんそれを「行動に移す」こととは別物ですよ!)
それが可能になったとき、あなたは初めて自分を認め、愛することができるかもしれない。
そして他者を裁断し、恐怖するだけでなく、近づくことができる。
自分のなかの混沌と、感情の複雑さを認め、感じることができて初めて、私たちは本当に他者を受容し愛することができるのだと思うのです。

私の感覚では「強く、正しく、美しく」がその価値観。
「でも、それ、普通のことじゃない?」と思う方もいるかもしれません。
おぉ・・・・。
とにかく、その価値観の基本は「世間的に変だと思われないこと」なのではないかと思います。
人から批判されそうなことや、後ろ指を指されるようなことは、絶対にしたくないし、そのような存在でありたくない。
世間的に言われる「正しい」ことに敏感で、優先席で携帯をいじっている人を見かけると怒りでイライラしてしまう。
行儀の悪いことをしたり、順番を守らなかったり、職場でサボったりする人が大嫌い。
失態を演じたり、緊張する人を見ると、「あんなふうにはなりたくない」と思う。
心の奥で軽蔑する。
異性への見方が、最初から最後まで「どれだけ美しいか」が基準だったりする。
そんな価値観をもとに、他の人を判断しますから、結構他人に厳しい人になります。
非常に酷薄に他人を裁断するところがあります。
しかし他人のことはそれでもいい。
本当に一番苦しいのは自分です。
その価値観で、何よりも自分を過酷に批判し続ける。
それが神経症の根底にあるものなのでしょう。
こういう価値観を持っている人が、あるとき「自分はどこか人と違って変だ」と思ったときに神経症の症状が始まります。
例えば、いくらパーフェクトに「強く、正しく、美しく」ありたいと思っていても、人間の心はそんなに平面的なシンプルなものではない。
むしろ神経質の人は、奥行きのある複雑な性格ですから、自分のなかの「強くなく、正しくなく、美しくない」ものに気づいてしまう。
だったら、それに気づいて活かせばいいのですが、むしろ怯え、消そうとする。
行動や態度はどうにか「強く、正しく」を装えても、一番始末の悪いのが、「感情」です。
理性や知性でどう抑えこもうと思っても、「感情」は人間のもっと原始的で自然なところにあるものですから、何をどうやっても湧き上がってくる。
それを無理やり抑えこむための役割をになって出てきたのが、神経質の「症状」(不安障害)と呼ばれるものです。
ですから、最終的のこの価値観から自由にならないと、症状と呼ばれるものがなくなっても、本当には楽になれないかもしれません。
「じゃぁ、どうしたら自由になれるの?」という声がまた聞こえてきそう(^^;)
意識的にできることといえば、自分でない他者に興味を持ち、その心を知ろうとすることが役に立つかなと思います。
神経症の人は、他人も自分と同じように感じて、考えるという錯覚を持っているところがあります。
例えば、自分が声の震えや手の震えに過敏だと、皆がそこに注目していると思ってしまう。
他の人にとっても、それが重要なことだと考えているからです。
しかし、緊張したら、手が震えたり、声が震えるのは当たり前と思っている人にとっては、そんなことは重要ではない。
周りの人は、それぞれの価値観でものを見ています。
それは例えば、ファッションかもしれないし、話の内容かもしれない、あるいは震えた人にも、震えたことにもまったく興味がないかもしれない(笑)。
ですから多種多様な人の価値観、世界観に興味を持つことも大切です。
私が伝記を読むことを推奨するのも、このブログにいろいろな人を紹介するのも、そういうことを含んでいます。
そして、最終的には、自分の感情に気づき、それを認めて、感じてあげることでしょう。
それが、森田療法でいう「純なこころ」を感じることですね。
私たちの心は、強く、正しく、美しいだけじゃない。
怒ることもあるし、恐怖することもあるし、憂うつなこともある。
嫉妬することもあるし、意地悪な感じもあるし、人を憎むこともある。
(もちろんそれを「行動に移す」こととは別物ですよ!)
それが可能になったとき、あなたは初めて自分を認め、愛することができるかもしれない。
そして他者を裁断し、恐怖するだけでなく、近づくことができる。
自分のなかの混沌と、感情の複雑さを認め、感じることができて初めて、私たちは本当に他者を受容し愛することができるのだと思うのです。
