楽になりたい
神経症の症状は、すべて「楽になりたい」という強烈な欲求から始まっているのかもしれません。
もっと楽に生きたい、こんな苦しいことから抜け出したい、何か楽になる方法があるに違いない。
そんな考えが毎日毎日、頭のなかを行き来しているのかもしれません。
他の人たちは、楽に生きているように見える。
あんなふうに楽に生きるためには何かコツがあるのか、それとも私は特別変で、だから毎日がこんなに苦しいのか・・・
できればそのコツを知りたい。
普通の人のように楽に生きたい。
そんなふうな思いがあるのかもしれません。
しかし、よく考えてみると、「楽に生きたい」というのはたいていの人が持っている欲求です。
なぜ神経症の人だけが、袋小路にはまってしまったのでしょう。
きっとそれは、楽なことや気持よくすっきりしたいということが、自分の内面、気分にだけ向けられてしまったからではないでしょうか。
たとえば鍵を確認してしまう人。
その人は「鍵がかかっていないのではないか」という不安ないやな気持をすっきりしたいと思う。
では、鍵をもう一度確認すればいいと思い、確認して「気分」をチェックする。
でもまだ不安。
だからもう一度確認。・・・と際限がなくなるのです。
「鍵がかかっていないのでは」という不安、それはだれでもが少しは感じるものです。
でも、大抵の人は「戸締まりは、不安だな」と思うだけで、その不安は当たり前のものと受けとめるのです。
決して不安がないわけではない。
ただその不安は「しかたない」と思っているだけなのです。
ですから、大きな不安のなかにいる神経症の人が、「この不安は消えない、苦しさも消えない、楽にはならない」と、(頭だけの操作ではなく)身体全体で悟ったとき、不思議なことに「症状」と言われる異常な不安は、消えるのです。
これが森田療法のパラドクス。
同じように「楽になりたい」と思っていても、神経症的にならない人は、どこが違うのでしょうか。
そういう人たちは、気分ではなく、現実的なところで「楽になる」道を探すのです。
「戸締まりが不安」と思ったら、鍵を見る。鍵はかかっている。それが現実(事実)。
そして気分がざわついても、それはどうしようもないから、何かあったらその時に対処しようと思う。
何かにとりかかるのが、面倒臭くてイヤ。
しかし、イヤなことはどうあがいても、永遠にイヤなのです。
イヤなことが突然楽しくなることなどあり得ない。
だったら現実的なただひとつの楽になる方法はイヤイヤでもそれをやってしまうことなのです。
あるいは職場の人間関係がイヤ。
そんなときに、すぐ自分の社交下手を責めたり、人を嫌う自分を責めたりして落ち込むのが神経症的な人です。
そういう思考のなかには、イヤという感じをなんとか自分の力で楽なものに変えたいという希望があります。
でも自分と合わない人がいてイヤというのは、事実。
そのイヤさが、パワハラからくるものだったりして、仕事に支障が出るのだったら、考えていくべきはその部分なのです。
イヤなものはイヤ。その感情を拭い去ることはできない。
楽になることは不可能と悟ったときに、別の道が開けてくる。
体験してみないとわからないパラドクスなのかもしれません。

もっと楽に生きたい、こんな苦しいことから抜け出したい、何か楽になる方法があるに違いない。
そんな考えが毎日毎日、頭のなかを行き来しているのかもしれません。
他の人たちは、楽に生きているように見える。
あんなふうに楽に生きるためには何かコツがあるのか、それとも私は特別変で、だから毎日がこんなに苦しいのか・・・
できればそのコツを知りたい。
普通の人のように楽に生きたい。
そんなふうな思いがあるのかもしれません。
しかし、よく考えてみると、「楽に生きたい」というのはたいていの人が持っている欲求です。
なぜ神経症の人だけが、袋小路にはまってしまったのでしょう。
きっとそれは、楽なことや気持よくすっきりしたいということが、自分の内面、気分にだけ向けられてしまったからではないでしょうか。
たとえば鍵を確認してしまう人。
その人は「鍵がかかっていないのではないか」という不安ないやな気持をすっきりしたいと思う。
では、鍵をもう一度確認すればいいと思い、確認して「気分」をチェックする。
でもまだ不安。
だからもう一度確認。・・・と際限がなくなるのです。
「鍵がかかっていないのでは」という不安、それはだれでもが少しは感じるものです。
でも、大抵の人は「戸締まりは、不安だな」と思うだけで、その不安は当たり前のものと受けとめるのです。
決して不安がないわけではない。
ただその不安は「しかたない」と思っているだけなのです。
ですから、大きな不安のなかにいる神経症の人が、「この不安は消えない、苦しさも消えない、楽にはならない」と、(頭だけの操作ではなく)身体全体で悟ったとき、不思議なことに「症状」と言われる異常な不安は、消えるのです。
これが森田療法のパラドクス。
同じように「楽になりたい」と思っていても、神経症的にならない人は、どこが違うのでしょうか。
そういう人たちは、気分ではなく、現実的なところで「楽になる」道を探すのです。
「戸締まりが不安」と思ったら、鍵を見る。鍵はかかっている。それが現実(事実)。
そして気分がざわついても、それはどうしようもないから、何かあったらその時に対処しようと思う。
何かにとりかかるのが、面倒臭くてイヤ。
しかし、イヤなことはどうあがいても、永遠にイヤなのです。
イヤなことが突然楽しくなることなどあり得ない。
だったら現実的なただひとつの楽になる方法はイヤイヤでもそれをやってしまうことなのです。
あるいは職場の人間関係がイヤ。
そんなときに、すぐ自分の社交下手を責めたり、人を嫌う自分を責めたりして落ち込むのが神経症的な人です。
そういう思考のなかには、イヤという感じをなんとか自分の力で楽なものに変えたいという希望があります。
でも自分と合わない人がいてイヤというのは、事実。
そのイヤさが、パワハラからくるものだったりして、仕事に支障が出るのだったら、考えていくべきはその部分なのです。
イヤなものはイヤ。その感情を拭い去ることはできない。
楽になることは不可能と悟ったときに、別の道が開けてくる。
体験してみないとわからないパラドクスなのかもしれません。
