「個」であることと「同じ」であること
先日、猛暑の日に、日傘をさしている男性とすれ違いました。
正確には、さしていたのは雨傘でしたが。
私はつねづね、どうして男性は日傘をささないのかと思っていましたので、「やるじゃない」と感じました。
だって、連日のこの猛暑。
日傘をさしていると、少しは暑さを避けることはできます。
男性は帽子を身につけているかたも多いですが、帽子は面積も狭いし、むれますよね。
女性がさしているのだから、男性がさしてもいいではないかと思いますが、男性はどんなに暑い日でも日傘をさしている人は一人もいません。
なぜなのでしょう?
皆がささないから?
笑われるかもしれないから?
男性たるもの直射日光などに怯えてはならないから?
男性用の日傘が販売されていないから?
傘を持ち歩くのが面倒だから?
私にはよくわかりませんが、別に社会的なルール違反になるわけでもなし、暑かったらさせばいいのではと思いますが、これだけ誰もさしていないということは、よほど抵抗があるのでしょうね。
これは別に日本だけのことではなく、どんな社会にもあるのでしょう。
たとえば、アメリカなどでは、日本でおなじみのマスクをしている人などは見かけないようです。
こういうことを見てもわかるように、自分のいる社会で誰もやっていないことというのは、たとえそれが何のルール違反でもなく、何の迷惑にもならないことでも、実行するのはむずかしい。
「変な人」と思われたくないのでしょう。
それも自然なことだとは思いますが。
たとえ、日差しがきつくても、皆と同じでいるという安心感。
いつもと同じことをしているという安心感。
唐突ですが、こういうとき、森田正馬だったらどうしただろう、と考えてしまいます。
間違いなく日傘が涼しかったらさしますよね。
乳母車に乗っている写真でも、傘をさしていました。
本当に「個」(孤)であることを恐れない人だったのですね。
たとえそれが「奇行」と言われようと、合理的な理由があれば実行する。
ところが神経症の人たちは、「個」でありたいと願いながら、「皆の一員でありたい」とも願い、その葛藤に引き裂かれている人です。
森田正馬という人は、「個」でありながら「皆の一員」でもいられるということを示したかったのでしょうか。
それは深読みで、ただ便利だから、自分がそうしたいから、していたのでしょうか。
彼の行動は治療という文脈からも読み解くことができるし、日本の近代という文脈から読むこともできる。
もちろん日本の文化、社会という文脈からも見ることができる。
そんな難しいことを考えずとも、彼という存在が私たちにつきつけてくるものは、結構大きいのではないかと、このところ思うのです。

正確には、さしていたのは雨傘でしたが。
私はつねづね、どうして男性は日傘をささないのかと思っていましたので、「やるじゃない」と感じました。
だって、連日のこの猛暑。
日傘をさしていると、少しは暑さを避けることはできます。
男性は帽子を身につけているかたも多いですが、帽子は面積も狭いし、むれますよね。
女性がさしているのだから、男性がさしてもいいではないかと思いますが、男性はどんなに暑い日でも日傘をさしている人は一人もいません。
なぜなのでしょう?
皆がささないから?
笑われるかもしれないから?
男性たるもの直射日光などに怯えてはならないから?
男性用の日傘が販売されていないから?
傘を持ち歩くのが面倒だから?
私にはよくわかりませんが、別に社会的なルール違反になるわけでもなし、暑かったらさせばいいのではと思いますが、これだけ誰もさしていないということは、よほど抵抗があるのでしょうね。
これは別に日本だけのことではなく、どんな社会にもあるのでしょう。
たとえば、アメリカなどでは、日本でおなじみのマスクをしている人などは見かけないようです。
こういうことを見てもわかるように、自分のいる社会で誰もやっていないことというのは、たとえそれが何のルール違反でもなく、何の迷惑にもならないことでも、実行するのはむずかしい。
「変な人」と思われたくないのでしょう。
それも自然なことだとは思いますが。
たとえ、日差しがきつくても、皆と同じでいるという安心感。
いつもと同じことをしているという安心感。
唐突ですが、こういうとき、森田正馬だったらどうしただろう、と考えてしまいます。
間違いなく日傘が涼しかったらさしますよね。
乳母車に乗っている写真でも、傘をさしていました。
本当に「個」(孤)であることを恐れない人だったのですね。
たとえそれが「奇行」と言われようと、合理的な理由があれば実行する。
ところが神経症の人たちは、「個」でありたいと願いながら、「皆の一員でありたい」とも願い、その葛藤に引き裂かれている人です。
森田正馬という人は、「個」でありながら「皆の一員」でもいられるということを示したかったのでしょうか。
それは深読みで、ただ便利だから、自分がそうしたいから、していたのでしょうか。
彼の行動は治療という文脈からも読み解くことができるし、日本の近代という文脈から読むこともできる。
もちろん日本の文化、社会という文脈からも見ることができる。
そんな難しいことを考えずとも、彼という存在が私たちにつきつけてくるものは、結構大きいのではないかと、このところ思うのです。
