過去や養育環境をどう考えるか
さて、なぜ私は長々と漱石のことを書いてきたのでしょうか。
漱石は、日本を代表する優れた作家でありながら、自身の養育環境と過去とを(自分ではそれとは自覚せず)背負っていた人でした。
決して漱石自身の性格が悪いから、あんな病的状態に苦しんだわけではなかったのです。
その頃の精神医学は、育ってきた環境がその人にどんな影響を及ぼすかについて、あまり考察することはありませんでした。
しかし、最近では、幼児期あるいは育つ過程で体験した環境が、その人の心身にどのような影響を及ぼすか、研究が進みつつあります。
けれどそういう動きを面白くなく思う人もいるようです。
「トラウマなどあり得ない」とか「過去のことを考えてもどうしようもない」とか書いてある本があるようです。
それぞれの論拠はあるのでしょうが、なぜこんなに頑なに否定するのか、不思議な気がします。
あるいは養育環境や親のことを、問題としてとりあげるのは、多くの人に何か抵抗を感じさせることなのかもしれません。
「なんでも親のせいにして」と言う人もいます。
こういう人は、不可抗力だった幼児期の影響の責任まで、本人が背負わなければならないと思っているのでしょうか。
あるいは、自分自身が不遇ななかで泣き言を言わず、努力し葛藤してきた人は、そうやって養育環境のことを言う人を見ると、「自分は我慢してきたのに・・・」と嫌悪感を覚えるのかもしれません。
また、養育環境や過去の出来事の影響を受けていると認めることは、自分が病的な人間と定義されるようで、恐ろしく感じる人もいるのかもしれません。
過去に起こったことは変えられないことなので、現在のことを見ていきましょうという考えもあります。
これは正解です。
「現在のことを見ていく」というのは、精神療法の基本だと思います。
そして、現在が充実して、その人自身の生命力が発現されれば、過去からの影響は小さくなっていくでしょう。
「過去の事実を変えることはできない」
しかし、過去の事実に起因する感情、たとえば罪責感やいわれのない不安感、他人に対する不信感、これは過去のものではありません。
現在の感情の事実です。
あるいは、育ってきた環境に起因する人間関係や行動のパターン。
これも現在のものです。
たとえば、父親が暴君で、幼児期から常に恐れて生活してきた人は、年上の男性が苦手になるかもしれません。
そんなとき、「これはただの過去からのパターンだ」と自覚するだけで人間関係が変化することもあるのです。
人間というのは、過去も現在もひっくるめて、全体であり、一人の人間です。
いたずらに「過去のトラウマや両親に対する思いは脇に置いておきましょう」などと言われれば、過去の悲しみや怒りを自分のなかで否定していくことになります。
当然のことながら、感情を自分のなかで押し殺せば、それは不健全な形で現れてくることになるでしょう。
感情はそのまま、感じているしかない。
そして時には目をそむけることなく、辛いけれどそのときの自分や家族の状況を考えてみる。
そうすると、自分のことだけでなく、その当時の家族の心や、自分の立ち位置も見えてくる。
過去を見ることのなかから発見できることだってあるのです。
日本でも、AC(養育環境のなかできちんとした子供時代を送れなかった人たち/病名ではありません)という概念が紹介され、児童虐待やDVということが認知されるようになり、救われた人がたくさんいると思います。
それは、犠牲者を「自分の責任」という重荷から解き放ち、自分主体の人生を取り戻す契機になった流れなのだと思います。

漱石は、日本を代表する優れた作家でありながら、自身の養育環境と過去とを(自分ではそれとは自覚せず)背負っていた人でした。
決して漱石自身の性格が悪いから、あんな病的状態に苦しんだわけではなかったのです。
その頃の精神医学は、育ってきた環境がその人にどんな影響を及ぼすかについて、あまり考察することはありませんでした。
しかし、最近では、幼児期あるいは育つ過程で体験した環境が、その人の心身にどのような影響を及ぼすか、研究が進みつつあります。
けれどそういう動きを面白くなく思う人もいるようです。
「トラウマなどあり得ない」とか「過去のことを考えてもどうしようもない」とか書いてある本があるようです。
それぞれの論拠はあるのでしょうが、なぜこんなに頑なに否定するのか、不思議な気がします。
あるいは養育環境や親のことを、問題としてとりあげるのは、多くの人に何か抵抗を感じさせることなのかもしれません。
「なんでも親のせいにして」と言う人もいます。
こういう人は、不可抗力だった幼児期の影響の責任まで、本人が背負わなければならないと思っているのでしょうか。
あるいは、自分自身が不遇ななかで泣き言を言わず、努力し葛藤してきた人は、そうやって養育環境のことを言う人を見ると、「自分は我慢してきたのに・・・」と嫌悪感を覚えるのかもしれません。
また、養育環境や過去の出来事の影響を受けていると認めることは、自分が病的な人間と定義されるようで、恐ろしく感じる人もいるのかもしれません。
過去に起こったことは変えられないことなので、現在のことを見ていきましょうという考えもあります。
これは正解です。
「現在のことを見ていく」というのは、精神療法の基本だと思います。
そして、現在が充実して、その人自身の生命力が発現されれば、過去からの影響は小さくなっていくでしょう。
「過去の事実を変えることはできない」
しかし、過去の事実に起因する感情、たとえば罪責感やいわれのない不安感、他人に対する不信感、これは過去のものではありません。
現在の感情の事実です。
あるいは、育ってきた環境に起因する人間関係や行動のパターン。
これも現在のものです。
たとえば、父親が暴君で、幼児期から常に恐れて生活してきた人は、年上の男性が苦手になるかもしれません。
そんなとき、「これはただの過去からのパターンだ」と自覚するだけで人間関係が変化することもあるのです。
人間というのは、過去も現在もひっくるめて、全体であり、一人の人間です。
いたずらに「過去のトラウマや両親に対する思いは脇に置いておきましょう」などと言われれば、過去の悲しみや怒りを自分のなかで否定していくことになります。
当然のことながら、感情を自分のなかで押し殺せば、それは不健全な形で現れてくることになるでしょう。
感情はそのまま、感じているしかない。
そして時には目をそむけることなく、辛いけれどそのときの自分や家族の状況を考えてみる。
そうすると、自分のことだけでなく、その当時の家族の心や、自分の立ち位置も見えてくる。
過去を見ることのなかから発見できることだってあるのです。
日本でも、AC(養育環境のなかできちんとした子供時代を送れなかった人たち/病名ではありません)という概念が紹介され、児童虐待やDVということが認知されるようになり、救われた人がたくさんいると思います。
それは、犠牲者を「自分の責任」という重荷から解き放ち、自分主体の人生を取り戻す契機になった流れなのだと思います。
