気分本位 あれこれ その2
「気分本位」について続けます。
「言葉は聞いたことがあるけれど、具体的にはどういうこと?」とわからない人もいそうなので。
たとえば、「完全主義者」というのも、「気分本位」になりがちです。
どうしても「完全に近いもの」が要求される仕事、というのはもちろんあると思います。
手順をパーフェクトに踏まないといけない、ミスのないように細心の注意を払わなければいけない、それは仕事というものの常識かもしれません。
しかし「そこまでやらなくてもいいよ」という本筋と関係ないところを入念にやってしまって、時間ばかりかかる・・・そういう完全主義者もいます。
たとえば、家で期限のあるレポートなどを書いていたりするときに、ちょっとシュレッダーを使ったら、それが詰まってしまった。
逆転をかけたり、少しいじってみたけれど、まだ詰まっている。
でも、このあたりをピンセットなどでつまんだら詰まりはとれそう・・・。
なんていうときに、ムクムクと「すっきりしたい」気持ちが湧いてきます。
ここまでやったんだから、完全に直してしまいたい。
「直してすっきりした気持ちで、またレポートにとりかかりたい」
これが気分本位です。
「事実」としては、レポートの期限は迫っている。
もっと資料を読み込んだら、いいレポートになりそう。
ところが、その貴重な時間を、「シュレッダーを完全に直してすっきりしてからレポートを書きたい」という気分で、そっちにかかりきりになってしまう。
「事実本位」になれば、まずはレポートに必要な調べ物をして、書き上げてからゆっくり直せばいいわけです。
ただ、その「すっきりしない」感覚がいやで、目の前の緊急のこととは全く方向違いのものにかかりきりになったりするのです。
ここまで書いてきて、これはまったく神経症の症状と同じだなぁと、ふと感じました。
強迫神経症にしろ、対人恐怖にしろ、身体の違和感にしろ、それは目の前のものごとを「事実本位」にこなしていけば、シュレッダーのように自分で修理する必要もなく、忘れてしまうのです。
「そうは言っても、これはただの気分とは思えない」とおっしゃるかたもいるでしょう。
「すっきりさせたい」という感覚の裏に、「不安」があるからですね。
神経症の場合、「何か悪いことが起こるかもしれない」という漠然とした不安に駆り立てられて、この場はすっきりとしておきたい、と思われるのかもしれません。
しかし実は、その方向違いの不安に駆り立てられて「気分」をすっきりさせたい(安心したい)と思っている間に、事実(現実)はどんどん推移してゆき、仕事や生活の面で取り残されてしまっているのかもしれません。
自分では一生懸命仕事をしているつもりでも、「なんかあの人は仕事がのろいなぁ」と思われていたり、事実、仕事が締め切りに間に合わなくて、周りをイライラさせているかもしれません。
あるいは必要な会合に出席しなかったりして、どんどん人の輪から取り残されているかもしれません。
すっきりしたい気持ちの裏にある不安は「実際の不安」ではありません。
自分の空想による漠然とした不安です。
そして不思議なことですが、そうやって自分の空想で作り上げた不安のほうが人間には恐ろしいものなのです。
空想はどこまでも広がっていきます。
現実の、事実に対する不安は、対処可能ですし、行動していくうちに消えたり、対象が移ったりします。
あるいは消えないかもしれませんが、それはそれでいいのです。
現実のものごとは進んでいますので。
「気分」や「不安」をすっきりさせることに時間とエネルギーを費やすより、もっと事実に近い、現実の生活をすっきりしないまま進めていくこと。
これが「気分本位」から「事実本位」へということです。
「気分本位」まだ続けます!

「言葉は聞いたことがあるけれど、具体的にはどういうこと?」とわからない人もいそうなので。
たとえば、「完全主義者」というのも、「気分本位」になりがちです。
どうしても「完全に近いもの」が要求される仕事、というのはもちろんあると思います。
手順をパーフェクトに踏まないといけない、ミスのないように細心の注意を払わなければいけない、それは仕事というものの常識かもしれません。
しかし「そこまでやらなくてもいいよ」という本筋と関係ないところを入念にやってしまって、時間ばかりかかる・・・そういう完全主義者もいます。
たとえば、家で期限のあるレポートなどを書いていたりするときに、ちょっとシュレッダーを使ったら、それが詰まってしまった。
逆転をかけたり、少しいじってみたけれど、まだ詰まっている。
でも、このあたりをピンセットなどでつまんだら詰まりはとれそう・・・。
なんていうときに、ムクムクと「すっきりしたい」気持ちが湧いてきます。
ここまでやったんだから、完全に直してしまいたい。
「直してすっきりした気持ちで、またレポートにとりかかりたい」
これが気分本位です。
「事実」としては、レポートの期限は迫っている。
もっと資料を読み込んだら、いいレポートになりそう。
ところが、その貴重な時間を、「シュレッダーを完全に直してすっきりしてからレポートを書きたい」という気分で、そっちにかかりきりになってしまう。
「事実本位」になれば、まずはレポートに必要な調べ物をして、書き上げてからゆっくり直せばいいわけです。
ただ、その「すっきりしない」感覚がいやで、目の前の緊急のこととは全く方向違いのものにかかりきりになったりするのです。
ここまで書いてきて、これはまったく神経症の症状と同じだなぁと、ふと感じました。
強迫神経症にしろ、対人恐怖にしろ、身体の違和感にしろ、それは目の前のものごとを「事実本位」にこなしていけば、シュレッダーのように自分で修理する必要もなく、忘れてしまうのです。
「そうは言っても、これはただの気分とは思えない」とおっしゃるかたもいるでしょう。
「すっきりさせたい」という感覚の裏に、「不安」があるからですね。
神経症の場合、「何か悪いことが起こるかもしれない」という漠然とした不安に駆り立てられて、この場はすっきりとしておきたい、と思われるのかもしれません。
しかし実は、その方向違いの不安に駆り立てられて「気分」をすっきりさせたい(安心したい)と思っている間に、事実(現実)はどんどん推移してゆき、仕事や生活の面で取り残されてしまっているのかもしれません。
自分では一生懸命仕事をしているつもりでも、「なんかあの人は仕事がのろいなぁ」と思われていたり、事実、仕事が締め切りに間に合わなくて、周りをイライラさせているかもしれません。
あるいは必要な会合に出席しなかったりして、どんどん人の輪から取り残されているかもしれません。
すっきりしたい気持ちの裏にある不安は「実際の不安」ではありません。
自分の空想による漠然とした不安です。
そして不思議なことですが、そうやって自分の空想で作り上げた不安のほうが人間には恐ろしいものなのです。
空想はどこまでも広がっていきます。
現実の、事実に対する不安は、対処可能ですし、行動していくうちに消えたり、対象が移ったりします。
あるいは消えないかもしれませんが、それはそれでいいのです。
現実のものごとは進んでいますので。
「気分」や「不安」をすっきりさせることに時間とエネルギーを費やすより、もっと事実に近い、現実の生活をすっきりしないまま進めていくこと。
これが「気分本位」から「事実本位」へということです。
「気分本位」まだ続けます!
