試しにダラダラしてみた
先日ここでご紹介した本の言う通りに、試しに1日ダラダラしてみました。
いつも、寸暇を惜しんで働いているわけではありません。
ダラダラしていても、心のどこかでいつも「このダラダラをやめて、―――をしなくてはいけない」という声がしているのです。
ワーカホリック的な心の癖なのでしょうか。
だから休んでいても、どこか心が後ろめたい。
もちろん旅行に行ってしまうとか、「しなければならないこと」から離れていられる環境になると、あっさりそんな心境から離れられるのですが。
で、今日一日は何もやらずにダラダラしよう、と決めてみました。
好きな音楽をかけて、ボーっとしたり、以前読んで印象に残っていた本をパラパラとめくってみたり。
そうしたら、いろいろな感情が湧いては消えていきました。
本当に様々な感情です。
軽い心配、不安。それからちょっとした寂しさ、虚しさ、悲しさ。
そういう感情は浮かんでは消え、流れていきました。
そして明るい日差しを眺めていたら、どことなく幸福感が湧いてきました。
この歳なので、記憶の断片があぶくのように浮かんで消えていきます。
あまり嫌な記憶は浮かんでこず、旅をして素敵だった風景、誰かといて楽しかった瞬間もふっと浮かび消えていきます。
不思議なことに、今まで本を書いたりたくさん仕事をしてきたはずなのに、そういう場面は浮かんできません。
私の場合は、人と一緒にいて楽しかった記憶が浮かんできます。
もうそばにいない人の記憶も同じように浮かんできます。
これは、きっと人によって様々でしょう。
仕事の成果を思う人もいれば、自分の成し得た冒険とか、旅のこととか、読んだ本の情景とかを思う人もいるかもしれません。
そしてコーヒーを飲みながらそんな時間が過ぎると、台所の隅っこのスペースが気になってきました。
以前から片付けなくてはと思っていたコーナー。
しかし、これもいつもの「あ~あ、散らかって・・・だらしないんだわ、私」みたいな感じと少し違う。
なんとなく手をつけて、不要なものは捨て、以前からここをこうしよう・・・と思っていた配置に直しました。
つまらないことなのに、何だかものすごい満足感。
かすかな差なのですが、いつもの「しなくてはならない」感覚とは少し違う・・・。
ここで私は考えました。
「またそこに行くか!」と言われそうですが、森田療法の絶対臥褥と軽作業期。
これって究極のダラダラ時間ではないですか!
考えてみれば、「症状」というのは、アディクションも含め、この「浮かんでくる感情」を避けたいために起きてくることなのですよね。ワーカホリックなど特にそうです。
自分の根底にある(ように思える)虚無感や挫折感や怒りやらの恐ろしいものに直面するのを、無意識が回避しているのかもしれません。
臥褥していれば何もできないので、どんな感情が湧いてきても湧くに任せるしかない。
そしてそれが流れていくのを体感できて、前のブログで書いた心のオートパイロット機能が働き出す。
そうすると仕事は、他人(あるいは自分の責めたてる心)にやらされるものではなくなってくる。
そんな浮かんでは消える感情とはまた別に存在する、自分のなかの何か大きな力に直面する・・・・絶対臥褥や軽作業期の意味を実感できたかもしれない・・と思った休日でした。

いつも、寸暇を惜しんで働いているわけではありません。
ダラダラしていても、心のどこかでいつも「このダラダラをやめて、―――をしなくてはいけない」という声がしているのです。
ワーカホリック的な心の癖なのでしょうか。
だから休んでいても、どこか心が後ろめたい。
もちろん旅行に行ってしまうとか、「しなければならないこと」から離れていられる環境になると、あっさりそんな心境から離れられるのですが。
で、今日一日は何もやらずにダラダラしよう、と決めてみました。
好きな音楽をかけて、ボーっとしたり、以前読んで印象に残っていた本をパラパラとめくってみたり。
そうしたら、いろいろな感情が湧いては消えていきました。
本当に様々な感情です。
軽い心配、不安。それからちょっとした寂しさ、虚しさ、悲しさ。
そういう感情は浮かんでは消え、流れていきました。
そして明るい日差しを眺めていたら、どことなく幸福感が湧いてきました。
この歳なので、記憶の断片があぶくのように浮かんで消えていきます。
あまり嫌な記憶は浮かんでこず、旅をして素敵だった風景、誰かといて楽しかった瞬間もふっと浮かび消えていきます。
不思議なことに、今まで本を書いたりたくさん仕事をしてきたはずなのに、そういう場面は浮かんできません。
私の場合は、人と一緒にいて楽しかった記憶が浮かんできます。
もうそばにいない人の記憶も同じように浮かんできます。
これは、きっと人によって様々でしょう。
仕事の成果を思う人もいれば、自分の成し得た冒険とか、旅のこととか、読んだ本の情景とかを思う人もいるかもしれません。
そしてコーヒーを飲みながらそんな時間が過ぎると、台所の隅っこのスペースが気になってきました。
以前から片付けなくてはと思っていたコーナー。
しかし、これもいつもの「あ~あ、散らかって・・・だらしないんだわ、私」みたいな感じと少し違う。
なんとなく手をつけて、不要なものは捨て、以前からここをこうしよう・・・と思っていた配置に直しました。
つまらないことなのに、何だかものすごい満足感。
かすかな差なのですが、いつもの「しなくてはならない」感覚とは少し違う・・・。
ここで私は考えました。
「またそこに行くか!」と言われそうですが、森田療法の絶対臥褥と軽作業期。
これって究極のダラダラ時間ではないですか!
考えてみれば、「症状」というのは、アディクションも含め、この「浮かんでくる感情」を避けたいために起きてくることなのですよね。ワーカホリックなど特にそうです。
自分の根底にある(ように思える)虚無感や挫折感や怒りやらの恐ろしいものに直面するのを、無意識が回避しているのかもしれません。
臥褥していれば何もできないので、どんな感情が湧いてきても湧くに任せるしかない。
そしてそれが流れていくのを体感できて、前のブログで書いた心のオートパイロット機能が働き出す。
そうすると仕事は、他人(あるいは自分の責めたてる心)にやらされるものではなくなってくる。
そんな浮かんでは消える感情とはまた別に存在する、自分のなかの何か大きな力に直面する・・・・絶対臥褥や軽作業期の意味を実感できたかもしれない・・と思った休日でした。
