見つめよ
森田正馬の言葉のなかに「見つめよ」というのがあります。
それだけでは何だかわからない。
以前「森田理論学習の要点」という小冊子にこの言葉を入れたら、何だか不評だった記憶があります。
でも、この「見つめる」ということは、症状のグルグルから脱するための大きなきっかけにもなることです。
神経症の症状にはまっている最中は、実は自分の周囲のことはほとんど見えていません。
「私はきちんと見ている」とおっしゃるかもしれませんが、頭のなかは80%ぐらい自分の悩みのことになっているはずです。
その証拠に、症状から解放されると、「花がこんなにきれいだったとは!」「空がやけに青い」とか皆さんおっしゃいます。
仕事のことも、自分は「なんとかできている」と思っていても、あとひとつのところで気がきかなかったり、他の人のことが考えられなかったりしているものです。
それは自分ではわかりません。
何しろ「見えていない」のですから。
ですから、頭のなかは症状のことで苦しくても、苦しいまま周囲を見てみる。
ただぼんやり見るのではなく、「見つめる」。
対象によって何らかの「感じ」が湧いてくるまで見るのです。
よく見ると毎日使っている鏡が曇っている。
毎日見ているから、そんなものだと思っていたけれど、試しに拭いてみると、ずいぶんクリアに自分の顔が見えたりする。
植木を眺めてみると、枯れた葉がそのままになっている。枯れたものを摘み取ると、前より緑がきれいに見える。
職場の机の上に、習慣のように書類を積み上げているけれど、それを簡単に分類して一部を引き出しにしまうと、作業をするスペースが広くなって、仕事がしやすい。
スマホだって、決まりきった使い方ばかりしているけれど、音声録音や新しいアプリや、まだまだ便利な機能があって興味は尽きない。
特に家族と住んでいる人は、少しぐらい家が汚れていても、「それは自分の仕事ではない」と思ってほったらかして、自分の悩みに没頭しているかもしれません。
それを「家族に依存している」と言います。
あなたがいくつであっても(この文章が読めるくらいの年齢であれば)、男性であっても、女性であっても、あなたの家の自分の身の周りのことはなるべく自分でやるのが本筋でしょう。
周囲のことにはまったく構わず、ネットで悩みの解消方法ばかり検索している人も多いのではないでしょうか。
残念ながら、ネットで耳に快い言葉を聞いても、それがただちに神経症のとらわれを解消してくれることはまずないでしょう。
まず、「見つめる」。そして「手を出す」。
そんな単純なことが自分の悩みの解消に役立つはずがない、これほどの苦しみを消すのは、もっと高等な理論や方法であるはずだ。
そう思われる人も多いかもしれません。
しかし、神経症のかたは、自分の頭のなかに巨大な不安の世界を築き上げています。
その強固な世界から歩を踏み出すためには、まずは周囲を見つめ、動くことが、一番てっとり早い方法なのです。
