自分の神話、自分の物語
暑いです。
そのせいで頭がぼんやりしていたのか、ブログを書いて変なところをクリックして全部消してしまったり・・・。
暑いので、もう好きなことだけ書かせていただきます。
引き続きレナード・コーエンの話。
凝りだすと私はしつこい。
だって、モーセ、ユダヤ教、父・・・これはフロイトの「モーセと一神教」を思い起こさせるストーリーではないですか。
前回の話を少し詳しくすると、コーエン家というのは「モーセの兄の家系」と言われていて、ユダヤ教的に言えば、この家系から次のメシアが生まれてもおかしくないらしいのです。
皆さまご存知と思いますが、ユダヤ教というのは、ナザレのイエスをメシアとは認めていない。まだメシアを待ち望んでいる民族なのです。
コーエンは、自分が小さいころ、周囲にメシアを待ち望んでいる雰囲気があったと言います。彼の家系だからなのですね。
彼のイメージには、旧約聖書の世界や、ユダヤ民族の始祖であるモーセの姿が棲みついていたと思います。
これはその人にとってかなり大きなプレッシャーと影響を与えるものではないでしょうか。
自己愛的な人だったら、これで自分の人生をダメにしてしまいかねない。
詳しいことはわかりませんが、彼の過活動的な人生を見ると、彼はなにか大きな「責任感」のようなものを感じていたという印象があります。
「なにものかにならねば」という切実感があるようで、とにかく書き、作曲し、放浪し、動きまわり、探究しまわる。
ギリシャからイギリス、フランス、キューバ、イスラエル。
若い頃から動きまわり、書き続けます。
母からの遺伝らしい躁うつ的なものもあり、薬物への依存もありながらです。
そんな彼は1969年、ロサンゼルスで友人の結婚式に出席します。
結婚式は禅のスタイルで行われ、彼はここで初めて以後彼が傾倒することになる佐々木老師に会います。
そのとき老師は「禅の十戒」を読み上げていました(!)
それから彼は、禅に興味を持ち、厳しい修行から逃げ出したりしつつも、音楽活動のかたわら、佐々木老師に師事し、老師の講演のお供でいろいろな土地にでかけていくのです。
日本の京都にも来て、参禅しています。
彼はついに「父」を見つけたのですね。
そして60歳になったとき、「50歳で財産を放棄し、鉢ひとつで世界を歩き回れ」という仏陀の教えに従うため、ボルダー山の禅センターに引きこもって修行します。
そして僧になり、下山。
(でも、ユダヤ教も捨ててはいないらしいです)
これは大きな図で見ると、モーセのやったことの踏襲のように、私には見えるのです。
シナイ山に登り、そこで神から十戒を授けられ、山を降りる・・。
彼は自分のなかに棲みついていた神話を、はからずも生きてしまったのではないでしょうか。
とはいえ、これは彼にとっては、ある種のハッピーエンディングです。
必死に探究し、創作し、女性との関係に悩み、たくさんの挫折もしながら、宗教的な深みと平安にたどり着いたわけですから。
私たちだって、規模は小さいながら、同じように家族の「伝説」「物語」を聞かされて育つことがあると思います。
コーエンのような壮大な神話ではなく、「ご先祖様はこの土地を拓くのに大変な苦労をした」とか「先代の誰それは、それは絵がうまくて・・」とかあるいは少し前の代には、ウチもお大尽だったのだとか・・・。
そういう物語は、どこかで自分に影響を与える。
それは当然なことだと思います。
もしくは、小さい頃から憧れる物語があり、その主人公に自分を仮託し、まるでその物語の土地に生きているかのような空想をするということはないでしょうか。
家族から引き継いだ物語は、もしかしたらネガティブなものだったり、自分を圧迫するものだったりするかもしれない。
でも、ネガとポジとは紙一重。
そんな神話や物語を背負いながら、試行錯誤するうちに、もしかしたら不思議なハッピーエンドが訪れるかもしれない。
コーエンの生き方を見ていると、そんな気がしてくるのです。

そのせいで頭がぼんやりしていたのか、ブログを書いて変なところをクリックして全部消してしまったり・・・。
暑いので、もう好きなことだけ書かせていただきます。
引き続きレナード・コーエンの話。
凝りだすと私はしつこい。
だって、モーセ、ユダヤ教、父・・・これはフロイトの「モーセと一神教」を思い起こさせるストーリーではないですか。
前回の話を少し詳しくすると、コーエン家というのは「モーセの兄の家系」と言われていて、ユダヤ教的に言えば、この家系から次のメシアが生まれてもおかしくないらしいのです。
皆さまご存知と思いますが、ユダヤ教というのは、ナザレのイエスをメシアとは認めていない。まだメシアを待ち望んでいる民族なのです。
コーエンは、自分が小さいころ、周囲にメシアを待ち望んでいる雰囲気があったと言います。彼の家系だからなのですね。
彼のイメージには、旧約聖書の世界や、ユダヤ民族の始祖であるモーセの姿が棲みついていたと思います。
これはその人にとってかなり大きなプレッシャーと影響を与えるものではないでしょうか。
自己愛的な人だったら、これで自分の人生をダメにしてしまいかねない。
詳しいことはわかりませんが、彼の過活動的な人生を見ると、彼はなにか大きな「責任感」のようなものを感じていたという印象があります。
「なにものかにならねば」という切実感があるようで、とにかく書き、作曲し、放浪し、動きまわり、探究しまわる。
ギリシャからイギリス、フランス、キューバ、イスラエル。
若い頃から動きまわり、書き続けます。
母からの遺伝らしい躁うつ的なものもあり、薬物への依存もありながらです。
そんな彼は1969年、ロサンゼルスで友人の結婚式に出席します。
結婚式は禅のスタイルで行われ、彼はここで初めて以後彼が傾倒することになる佐々木老師に会います。
そのとき老師は「禅の十戒」を読み上げていました(!)
それから彼は、禅に興味を持ち、厳しい修行から逃げ出したりしつつも、音楽活動のかたわら、佐々木老師に師事し、老師の講演のお供でいろいろな土地にでかけていくのです。
日本の京都にも来て、参禅しています。
彼はついに「父」を見つけたのですね。
そして60歳になったとき、「50歳で財産を放棄し、鉢ひとつで世界を歩き回れ」という仏陀の教えに従うため、ボルダー山の禅センターに引きこもって修行します。
そして僧になり、下山。
(でも、ユダヤ教も捨ててはいないらしいです)
これは大きな図で見ると、モーセのやったことの踏襲のように、私には見えるのです。
シナイ山に登り、そこで神から十戒を授けられ、山を降りる・・。
彼は自分のなかに棲みついていた神話を、はからずも生きてしまったのではないでしょうか。
とはいえ、これは彼にとっては、ある種のハッピーエンディングです。
必死に探究し、創作し、女性との関係に悩み、たくさんの挫折もしながら、宗教的な深みと平安にたどり着いたわけですから。
私たちだって、規模は小さいながら、同じように家族の「伝説」「物語」を聞かされて育つことがあると思います。
コーエンのような壮大な神話ではなく、「ご先祖様はこの土地を拓くのに大変な苦労をした」とか「先代の誰それは、それは絵がうまくて・・」とかあるいは少し前の代には、ウチもお大尽だったのだとか・・・。
そういう物語は、どこかで自分に影響を与える。
それは当然なことだと思います。
もしくは、小さい頃から憧れる物語があり、その主人公に自分を仮託し、まるでその物語の土地に生きているかのような空想をするということはないでしょうか。
家族から引き継いだ物語は、もしかしたらネガティブなものだったり、自分を圧迫するものだったりするかもしれない。
でも、ネガとポジとは紙一重。
そんな神話や物語を背負いながら、試行錯誤するうちに、もしかしたら不思議なハッピーエンドが訪れるかもしれない。
コーエンの生き方を見ていると、そんな気がしてくるのです。
