一日ひとつ新しいことを
安心・安全を過度に求める傾向にある人たちは、同じことを習慣的に繰り返すことになりがちです。
行動がパタ-ン化してしまうのですね。
そうしておけば、ひとまず安心だからです。
精神分析家であり、森田療法家でもあった故・近藤章久先生は、論文のなかでこう書いています。
「神経症者にとっては、安全とは何よりも現状(status quo)の維持を意味する。したがって如何にして現状維持を計るかに腐心するのである」
つまり変化に弱い。
こういう人たちにとっては、変化は不安を呼びます。
しかし変化のない毎日は、安心感はありますが、好奇心や前向きな欲求を活性化はしない。
マンネリな刺激のない毎日は、ますます自分特有の不安(神経症)を活性化する余地を作ります。
かといって、挑戦するのもこわい・・・。
そんなときには手始めとして、簡単なことでもいいから、何かひとつ新しいことをしてみることです。
会社の帰りにいつもは通ったことのない道を通ってみる。
そうすると、知らなかったレストランや喫茶店を発見できたり、面白い建物を発見できたりするかもしれない。
買い物もいつものスーパーではなく、違う店に行ってみる。
初めて見る商品があるかもしれないし、値段の比較もできる。
いつもは推理小説ばかり読んでいたのを、たまにはSFを読んでみる。
家事も順番を変えてみたり、作ったことのない料理に挑戦する。
家事をしたことのない人は、試しにやってみる。
そんな繰り返しのなかから、外の世界に向かう好奇心が生まれてくるものです。
少なくとも新鮮な感覚は味わえるでしょう。
やってみないとわからないことです。
さて、私も早速先日試してみました。
私の決まりきった習慣は、図書館に行った帰りに、近くの喫茶店に寄って、借りてきた本をざっと読んでみること。
そして買い物をして家に帰るというパターンでした。
それで新しいことと思って、喫茶店を変えてみることにしました。
図書館から少し離れたところに、巨大ビルが新築され、そこの一階に新しい喫茶店があるようです。
スマホの地図を頼りに(ひどい方向音痴なので)そのビルにたどり着きました。
喫茶店は、セルフサービスですが、適度に広く、外のテラスでもお茶が飲めるようになっています。外のテラスの向こうには、ささやかな木立もあります。
「うん、なかなかいい」と思いながら、その日は古典を読み始めました。
ところが・・・・またしても。
店の奥の席から、何やら男性の声が聞こえてくる。
いや、別に声高に怒鳴ったり、不穏な雰囲気があるわけではないのですが、なんだかやけに力強いのですね。
諄々と「仕事論」みたいなことを誰かに話しているのです。
「つまりな・・・そういうときこそ・・・仕事のしどころ・・」みたいな、言っていることは別にいいのですが、私の気になるところは、聞いている相手の声がひとつも聞こえないということ。
自分の考えをひたすら相手に押し付けているという感じがします。
つまり、これは「説教」ですね。
「説教は攻撃である」と言ったのは精神科医の斉藤学先生。
相手が大人しかったり、何も言えないのを見越して、自分の持論を展開するのは気持ちのいいことでしょう。
相手がその人に心酔している、あるいは話を聞きたがっているならいいのですが・・・
喫茶店を説教の場に使わないでほしい。
ま、話はそれましたが、新しいことを試して、それがどういう結果になるかはわからないということです。
が、少なくとも自分にとって、いつもと違う刺激が得られるのは確かなことです(苦笑)。
行動がパタ-ン化してしまうのですね。
そうしておけば、ひとまず安心だからです。
精神分析家であり、森田療法家でもあった故・近藤章久先生は、論文のなかでこう書いています。
「神経症者にとっては、安全とは何よりも現状(status quo)の維持を意味する。したがって如何にして現状維持を計るかに腐心するのである」
つまり変化に弱い。
こういう人たちにとっては、変化は不安を呼びます。
しかし変化のない毎日は、安心感はありますが、好奇心や前向きな欲求を活性化はしない。
マンネリな刺激のない毎日は、ますます自分特有の不安(神経症)を活性化する余地を作ります。
かといって、挑戦するのもこわい・・・。
そんなときには手始めとして、簡単なことでもいいから、何かひとつ新しいことをしてみることです。
会社の帰りにいつもは通ったことのない道を通ってみる。
そうすると、知らなかったレストランや喫茶店を発見できたり、面白い建物を発見できたりするかもしれない。
買い物もいつものスーパーではなく、違う店に行ってみる。
初めて見る商品があるかもしれないし、値段の比較もできる。
いつもは推理小説ばかり読んでいたのを、たまにはSFを読んでみる。
家事も順番を変えてみたり、作ったことのない料理に挑戦する。
家事をしたことのない人は、試しにやってみる。
そんな繰り返しのなかから、外の世界に向かう好奇心が生まれてくるものです。
少なくとも新鮮な感覚は味わえるでしょう。
やってみないとわからないことです。
さて、私も早速先日試してみました。
私の決まりきった習慣は、図書館に行った帰りに、近くの喫茶店に寄って、借りてきた本をざっと読んでみること。
そして買い物をして家に帰るというパターンでした。
それで新しいことと思って、喫茶店を変えてみることにしました。
図書館から少し離れたところに、巨大ビルが新築され、そこの一階に新しい喫茶店があるようです。
スマホの地図を頼りに(ひどい方向音痴なので)そのビルにたどり着きました。
喫茶店は、セルフサービスですが、適度に広く、外のテラスでもお茶が飲めるようになっています。外のテラスの向こうには、ささやかな木立もあります。
「うん、なかなかいい」と思いながら、その日は古典を読み始めました。
ところが・・・・またしても。
店の奥の席から、何やら男性の声が聞こえてくる。
いや、別に声高に怒鳴ったり、不穏な雰囲気があるわけではないのですが、なんだかやけに力強いのですね。
諄々と「仕事論」みたいなことを誰かに話しているのです。
「つまりな・・・そういうときこそ・・・仕事のしどころ・・」みたいな、言っていることは別にいいのですが、私の気になるところは、聞いている相手の声がひとつも聞こえないということ。
自分の考えをひたすら相手に押し付けているという感じがします。
つまり、これは「説教」ですね。
「説教は攻撃である」と言ったのは精神科医の斉藤学先生。
相手が大人しかったり、何も言えないのを見越して、自分の持論を展開するのは気持ちのいいことでしょう。
相手がその人に心酔している、あるいは話を聞きたがっているならいいのですが・・・
喫茶店を説教の場に使わないでほしい。
ま、話はそれましたが、新しいことを試して、それがどういう結果になるかはわからないということです。
が、少なくとも自分にとって、いつもと違う刺激が得られるのは確かなことです(苦笑)。