欲望探し
森田療法では、よく不安の裏側にある「欲望」を見ましょうと言います。
ところが、これが結構むずかしい。
「私の欲望はなんだろう?」とずっと探し続ける人がいますし、まったく手の届きそうにない欲望の対象を追い続ける人がいます。
よく対人恐怖の人が、「人のなかに入りたい。皆の人気者になりたい」と言うことがあります。
確かにそういう欲望があるから、対人恐怖になったわけです。
でも、その努力だけをすることは、「症状」を相手にするのとまったく同じことになりそうです。
今まで人と話せなかった人が突然人気者になれるわけがありません。
これが、厳しいけれど事実。
頭のなかでの「欲望探し」は、意外にまた「思想の矛盾」をはらんでしまったりする。
それがむずかしいところです。
たとえば、頭のなかではミュージカル女優になりたいと思っている。
しかし自分がそれに向かって何の努力もしていないとか、年齢のことを考えると実はもう無理。
これはとてもわかりやすい例です。
つまり欲望も「理想化」されてしまって、手が届かないものに憧れて、自分の現状を直視できないということになりがちです。
「本当は司法試験を目指したかった」「歌手になりたかった」「医師になりたかった」「起業家になりたかった」
それが、年齢的、金銭的、能力的に可能であれば、それでもいい。
「偉くなりたい」「尊敬される人になりたい」「金持ちになりたい」というのは、大抵の人が持つ欲望です。それはそれでいい。
でも、そこには現実検討能力というものが必要になってきます。
確かに森田正馬の言うように「欲望はこれをあきらめることはできない」。
しかし、森田はどのように、その人の欲望を発揮させたのでしょう?
「神経質の本態と療法」のなかに、「もし人が何事に対しても、はじめから少しも手を下さず、これを実行することがなければ、それは食わず嫌いと同様に、この成功欲、完全欲という感情は起こらない。すなわち仕事に対する興味を呼び起こすということはない。興味はただなすことによってのみ、はじめて起こるものである」
そうやって森田は、仕事の貴賤に関係なく、神経質者にいろいろなことに手を出させました。
つまりそれは、家事や掃除、日常の目の前にある仕事です。
そして自分でやってみせた。
彼は「自分のような医者になりなさい。人から尊敬される大学教授になりなさい」というような示唆は、いっさいしなかった。
だから神経質者を家庭に入れて、入院療法をしたのです。
ただの人間であるナマの自分を見せるためです。
これはもちろん、神経質者の観念的理想像に疑問を投げかけるという効果があったでしょう。
欲望というのは、目の前の事実から発展していくものなのです。
森田正馬の家庭的入院療法では、退院した人たちは、たいてい以前の仕事に戻っていったようです。
入院生として後に本の題材になった人たち、たとえば会計士の山野井房一郎氏や額縁商、草土舎の河原宗次郎氏なども、もとの仕事に戻り、そして発展していきました。
山野井氏は、会計学の本をコツコツと書き続け、それを出版して、結果たくさんの本をのこされました。
河原氏は、家業に励み大きくしました。
草土舎は今でも子孫のかたが経営をされて、神田でも有名な額縁・美術商となっています。
もちろん転職が容易でなかったという時代的背景もあると思います。
転職をしてはいけないとか、急に進路を変更してはいけない・・となると、これも「かくあるべし」です。
ただ、私たちは自分の今いる場所から出発するしかない。
目の前のことに精魂を尽くし、できそうなことには手を出してみる。
すると自分の具体的な行動の結果から、うれしい満足や自信が生まれる。
新しい体験のなかから、楽しみが見つかる。
そして発展していくのです。
手の届かない遠い星をめざすのは、そのあとでいいし、もしかしたらその遠い星(理想)は、現実の喜びという魅力の前では色あせるのかもしれません。
対人恐怖でお悩みのかた、一度ご相談ください。お茶の水セラピールーム
ところが、これが結構むずかしい。
「私の欲望はなんだろう?」とずっと探し続ける人がいますし、まったく手の届きそうにない欲望の対象を追い続ける人がいます。
よく対人恐怖の人が、「人のなかに入りたい。皆の人気者になりたい」と言うことがあります。
確かにそういう欲望があるから、対人恐怖になったわけです。
でも、その努力だけをすることは、「症状」を相手にするのとまったく同じことになりそうです。
今まで人と話せなかった人が突然人気者になれるわけがありません。
これが、厳しいけれど事実。
頭のなかでの「欲望探し」は、意外にまた「思想の矛盾」をはらんでしまったりする。
それがむずかしいところです。
たとえば、頭のなかではミュージカル女優になりたいと思っている。
しかし自分がそれに向かって何の努力もしていないとか、年齢のことを考えると実はもう無理。
これはとてもわかりやすい例です。
つまり欲望も「理想化」されてしまって、手が届かないものに憧れて、自分の現状を直視できないということになりがちです。
「本当は司法試験を目指したかった」「歌手になりたかった」「医師になりたかった」「起業家になりたかった」
それが、年齢的、金銭的、能力的に可能であれば、それでもいい。
「偉くなりたい」「尊敬される人になりたい」「金持ちになりたい」というのは、大抵の人が持つ欲望です。それはそれでいい。
でも、そこには現実検討能力というものが必要になってきます。
確かに森田正馬の言うように「欲望はこれをあきらめることはできない」。
しかし、森田はどのように、その人の欲望を発揮させたのでしょう?
「神経質の本態と療法」のなかに、「もし人が何事に対しても、はじめから少しも手を下さず、これを実行することがなければ、それは食わず嫌いと同様に、この成功欲、完全欲という感情は起こらない。すなわち仕事に対する興味を呼び起こすということはない。興味はただなすことによってのみ、はじめて起こるものである」
そうやって森田は、仕事の貴賤に関係なく、神経質者にいろいろなことに手を出させました。
つまりそれは、家事や掃除、日常の目の前にある仕事です。
そして自分でやってみせた。
彼は「自分のような医者になりなさい。人から尊敬される大学教授になりなさい」というような示唆は、いっさいしなかった。
だから神経質者を家庭に入れて、入院療法をしたのです。
ただの人間であるナマの自分を見せるためです。
これはもちろん、神経質者の観念的理想像に疑問を投げかけるという効果があったでしょう。
欲望というのは、目の前の事実から発展していくものなのです。
森田正馬の家庭的入院療法では、退院した人たちは、たいてい以前の仕事に戻っていったようです。
入院生として後に本の題材になった人たち、たとえば会計士の山野井房一郎氏や額縁商、草土舎の河原宗次郎氏なども、もとの仕事に戻り、そして発展していきました。
山野井氏は、会計学の本をコツコツと書き続け、それを出版して、結果たくさんの本をのこされました。
河原氏は、家業に励み大きくしました。
草土舎は今でも子孫のかたが経営をされて、神田でも有名な額縁・美術商となっています。
もちろん転職が容易でなかったという時代的背景もあると思います。
転職をしてはいけないとか、急に進路を変更してはいけない・・となると、これも「かくあるべし」です。
ただ、私たちは自分の今いる場所から出発するしかない。
目の前のことに精魂を尽くし、できそうなことには手を出してみる。
すると自分の具体的な行動の結果から、うれしい満足や自信が生まれる。
新しい体験のなかから、楽しみが見つかる。
そして発展していくのです。
手の届かない遠い星をめざすのは、そのあとでいいし、もしかしたらその遠い星(理想)は、現実の喜びという魅力の前では色あせるのかもしれません。
対人恐怖でお悩みのかた、一度ご相談ください。お茶の水セラピールーム