神経症が治るということ
本日は森田療法の基本中の基本。
森田療法の目指しているところについて、誤解をするかたが若干いらっしゃるようですので、確認の意味で、森田療法にとって「治る」とはどういうことか書いてみます。
大体のかたはご存知と思いますが、森田療法の治癒とは、違和感や不安感がすべてなくなることではありません。
・・・と書くと、「そんなことはわかっている」とおっしゃるかたが多いと思います。
言い古された言葉ですので、わかったような気になっている場合もあります。
実感(現実)として考えてみるとどうでしょうか。
実は対人恐怖とただの対人緊張や対人トラブルの違いがわからなかったり・・・
乗り物に乗って不安を感じるので「まだ治っていない」と思ったり・・・
森田療法の治癒と症状真っ最中の状態は、紙一重のところがあるのですね。
どうも西洋の治療法は「治してしまおう」「無くしてしまおう」「変えてしまおう」という姿勢が強いようです。
森田療法の姿勢は「共存」です。
たとえ症状や不安があっても、それが日常生活ややりたいことの邪魔をしなければいい。
端的に言えばそういうことです。
仕事や家事ができればいい、必要なときには人と交わることができればいい。
逆に言えば、そういうことができないときが「症状」に悩んでいる状態と言えます。
神経質の人は「もっと」の人です。
一応日常生活が不自由でなくなっても、「もっと」を探し求めます。
その「もっと」が現実的な部分に向けられることは、森田療法の目指していることです。
しかし、自分の内的な違和感に対して「もっと快適になりたい」「不安のかけらも感じたくない」「この違和感がいやだ」「これは症状かもしれない」などと考えると、結局症状的な状態に逆戻りします。
これも言い古されたことですが、不安も違和感もなくなることはない。
それは必要なときには出てきます。
そしてそれにとらわれるときに増強されます。
「職場のあの人がいやだ」「このいやさは、なんとかならないものか」「毎日、仕事場でもっと快適に過ごしたい」
そういう思いが、その人に対する嫌悪感を憎悪させます。
嫌いな人がいるのも人間として当然なことです。
しかしその不快感をどうにかするために仕事場へ行くわけではない。
仕事を片付けるために行くのです。
もっと能率的に、もっと創造的に仕事をするためです。
1, 2回くらい確認行為をすることは、別に日常生活に支障はないことです。
それまで「完全に」根絶しようとすることは、かえってそれにとらわれることです。
それではそういうことにとらわれないようにしよう、というのではありません。
森田療法的に行動していれば、自然にそんなことはどうでもいいことになるのです。
現実の世界で、今までできなかったことができるようになること。
どんな違和感が出てきても、どんな感情が出てきても自分はOKだと体験すること。
それは、自分のなかに眠っていた「力」を実感することです。
目の前の現実のなかで、日常的なことのなかで、自分が何かをできると体験することや、現実的なものごとが前に進んでいくことを体感することで、その「力」は目覚めるのです。
そんなふうになれば、今まで夢想していた途方もない「理想像」や途方もない「パワーの幻想」は、自分にはまったく必要のないことになってくるのです。
森田療法のことをもっと知りたいかたぜひご利用ください お茶の水セラピールーム
森田療法の目指しているところについて、誤解をするかたが若干いらっしゃるようですので、確認の意味で、森田療法にとって「治る」とはどういうことか書いてみます。
大体のかたはご存知と思いますが、森田療法の治癒とは、違和感や不安感がすべてなくなることではありません。
・・・と書くと、「そんなことはわかっている」とおっしゃるかたが多いと思います。
言い古された言葉ですので、わかったような気になっている場合もあります。
実感(現実)として考えてみるとどうでしょうか。
実は対人恐怖とただの対人緊張や対人トラブルの違いがわからなかったり・・・
乗り物に乗って不安を感じるので「まだ治っていない」と思ったり・・・
森田療法の治癒と症状真っ最中の状態は、紙一重のところがあるのですね。
どうも西洋の治療法は「治してしまおう」「無くしてしまおう」「変えてしまおう」という姿勢が強いようです。
森田療法の姿勢は「共存」です。
たとえ症状や不安があっても、それが日常生活ややりたいことの邪魔をしなければいい。
端的に言えばそういうことです。
仕事や家事ができればいい、必要なときには人と交わることができればいい。
逆に言えば、そういうことができないときが「症状」に悩んでいる状態と言えます。
神経質の人は「もっと」の人です。
一応日常生活が不自由でなくなっても、「もっと」を探し求めます。
その「もっと」が現実的な部分に向けられることは、森田療法の目指していることです。
しかし、自分の内的な違和感に対して「もっと快適になりたい」「不安のかけらも感じたくない」「この違和感がいやだ」「これは症状かもしれない」などと考えると、結局症状的な状態に逆戻りします。
これも言い古されたことですが、不安も違和感もなくなることはない。
それは必要なときには出てきます。
そしてそれにとらわれるときに増強されます。
「職場のあの人がいやだ」「このいやさは、なんとかならないものか」「毎日、仕事場でもっと快適に過ごしたい」
そういう思いが、その人に対する嫌悪感を憎悪させます。
嫌いな人がいるのも人間として当然なことです。
しかしその不快感をどうにかするために仕事場へ行くわけではない。
仕事を片付けるために行くのです。
もっと能率的に、もっと創造的に仕事をするためです。
1, 2回くらい確認行為をすることは、別に日常生活に支障はないことです。
それまで「完全に」根絶しようとすることは、かえってそれにとらわれることです。
それではそういうことにとらわれないようにしよう、というのではありません。
森田療法的に行動していれば、自然にそんなことはどうでもいいことになるのです。
現実の世界で、今までできなかったことができるようになること。
どんな違和感が出てきても、どんな感情が出てきても自分はOKだと体験すること。
それは、自分のなかに眠っていた「力」を実感することです。
目の前の現実のなかで、日常的なことのなかで、自分が何かをできると体験することや、現実的なものごとが前に進んでいくことを体感することで、その「力」は目覚めるのです。
そんなふうになれば、今まで夢想していた途方もない「理想像」や途方もない「パワーの幻想」は、自分にはまったく必要のないことになってくるのです。
満開の藤の花(あしかがフラワーパーク)
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