強迫神経症について その2
前回の続きを書こうと思いながら、ついつい時間がたってしまいました。
別に書こうということがまとまっていないわけでもないのに、文章にするまでが長くなるのですね。
考えるに、強迫タイプのかたはこういう傾向が大きいのではないでしょうか。
つまり、頭ではいろいろなイメージがあるのに、現実に手を出す(あるいは足を踏み出す)までの時間が途方もなく長い。
頭のなかでは、非常にクリアに「何かをする」イメージがあるのに、実際にはまったく何もしていない。
現実のものごとは進行していない。
強迫神経症の人の頭のなかは、実に忙しいのではないかと思います。
何かをする前にやらなくてはならない強迫行為の段取りとか・・・。
あとで後悔しないために、今やっておかなくてはならない強迫行為とか、考えておかなくてはならない強迫観念とか。
普通の人がぼんやり考えているようなときでも、いろいろときぜわしく考えていなくてはならない。
思考はフル回転です。(主に同じようなことを繰り返し考えているのですけれど)
それで一日が終わる頃には疲弊してしまう。
でも身体は何も動いていない。
不思議ですね。人間って何か行動をしていなくても、思考するだけで疲弊してしまうのです。
強迫神経症の人はその典型。
強迫タイプの人の頭のなかでは、思考(言葉)と現実との区別がついていないことが多いようです。
なんと表現したらいいのでしょう。
現実と自分との間に「言葉」が立ちはだかるというか・・・
言葉が現実のように思えてしまうのですね。
一つの言葉でも、それに負荷がかかって実感的に重いものになってしまう。
たとえば「面倒だ」という思いがあるなら、普通の人が感じる面倒さの何倍かの重さで、その面倒さがのしかかってくる。
もちろん強迫性があるからですが。
実際には何も面倒なことはしていないのに、前もってその面倒さを苦しんでしまうという損なところがあります。
そういうふうに、いろいろな意味で言葉や観念のほうが現実より(妙な言い方ですが)実感をもってせまってくるようです。
言葉や観念のなかに閉じ込められて、現実がリアルに感じられない状態ですね。
で、強迫行為などは、観念に支配されているのですから、現実のなかではまったく的外れな行動の繰り返しとなります。
強迫神経症の人はよく「五感にたちかえる」ということを言います。
それも大事なことです。
でも最初は、その五感ですら、観念からしか入れないところがあります。
冷たい水で手を洗い続けている人は、「○回洗う」ということのほうが重大すぎて、手の痛みも感じる余裕がありません。
とにかく頭のなかのことがリアルで重大なので、往々にして強迫の人は「思考」や「観念」で、自分のこの苦しみを解決しようとします。
自分のやっていること、自分の考えていることが常識的にはおかしいということを、自分では十分わかっている。
この妙な考えを打ち消したい。
けれど、思考は思考で打ち消すことができない。この強迫思考を生み出す背後には大きな不安があるからです。
思考ではこの苦しみはどうにもできない。これを心にとめて、とにもかくにも、「現実」に向かって踏み出すしかない。
現在、強迫神経症を持ちながらもなんとか仕事をしている、社会で生きているというかたは、多分半分夢のようでありながら必死だと思います。
そういうかたでも、「もっと現実に直面する」ということが必要になってきます。
不快なことが嫌いな人が多いので不本意だとは思いますが、気楽にのんびりできる境遇では多分いつまでも苦しいままです。
締め切りのあることに挑戦する。他の人が待っているという環境をつくり、そのうえで何かをする。時間を区切ってものごとをする。
とにかく自分以外の、外側の人、外側のものを利用して、いやいやでも現実へと踏み出していくのです。
強迫神経症についてはまた次回に。
強迫神経症でお悩みの方どうぞご利用ください。お茶の水セラピールーム
別に書こうということがまとまっていないわけでもないのに、文章にするまでが長くなるのですね。
考えるに、強迫タイプのかたはこういう傾向が大きいのではないでしょうか。
つまり、頭ではいろいろなイメージがあるのに、現実に手を出す(あるいは足を踏み出す)までの時間が途方もなく長い。
頭のなかでは、非常にクリアに「何かをする」イメージがあるのに、実際にはまったく何もしていない。
現実のものごとは進行していない。
強迫神経症の人の頭のなかは、実に忙しいのではないかと思います。
何かをする前にやらなくてはならない強迫行為の段取りとか・・・。
あとで後悔しないために、今やっておかなくてはならない強迫行為とか、考えておかなくてはならない強迫観念とか。
普通の人がぼんやり考えているようなときでも、いろいろときぜわしく考えていなくてはならない。
思考はフル回転です。(主に同じようなことを繰り返し考えているのですけれど)
それで一日が終わる頃には疲弊してしまう。
でも身体は何も動いていない。
不思議ですね。人間って何か行動をしていなくても、思考するだけで疲弊してしまうのです。
強迫神経症の人はその典型。
強迫タイプの人の頭のなかでは、思考(言葉)と現実との区別がついていないことが多いようです。
なんと表現したらいいのでしょう。
現実と自分との間に「言葉」が立ちはだかるというか・・・
言葉が現実のように思えてしまうのですね。
一つの言葉でも、それに負荷がかかって実感的に重いものになってしまう。
たとえば「面倒だ」という思いがあるなら、普通の人が感じる面倒さの何倍かの重さで、その面倒さがのしかかってくる。
もちろん強迫性があるからですが。
実際には何も面倒なことはしていないのに、前もってその面倒さを苦しんでしまうという損なところがあります。
そういうふうに、いろいろな意味で言葉や観念のほうが現実より(妙な言い方ですが)実感をもってせまってくるようです。
言葉や観念のなかに閉じ込められて、現実がリアルに感じられない状態ですね。
で、強迫行為などは、観念に支配されているのですから、現実のなかではまったく的外れな行動の繰り返しとなります。
強迫神経症の人はよく「五感にたちかえる」ということを言います。
それも大事なことです。
でも最初は、その五感ですら、観念からしか入れないところがあります。
冷たい水で手を洗い続けている人は、「○回洗う」ということのほうが重大すぎて、手の痛みも感じる余裕がありません。
とにかく頭のなかのことがリアルで重大なので、往々にして強迫の人は「思考」や「観念」で、自分のこの苦しみを解決しようとします。
自分のやっていること、自分の考えていることが常識的にはおかしいということを、自分では十分わかっている。
この妙な考えを打ち消したい。
けれど、思考は思考で打ち消すことができない。この強迫思考を生み出す背後には大きな不安があるからです。
思考ではこの苦しみはどうにもできない。これを心にとめて、とにもかくにも、「現実」に向かって踏み出すしかない。
現在、強迫神経症を持ちながらもなんとか仕事をしている、社会で生きているというかたは、多分半分夢のようでありながら必死だと思います。
そういうかたでも、「もっと現実に直面する」ということが必要になってきます。
不快なことが嫌いな人が多いので不本意だとは思いますが、気楽にのんびりできる境遇では多分いつまでも苦しいままです。
締め切りのあることに挑戦する。他の人が待っているという環境をつくり、そのうえで何かをする。時間を区切ってものごとをする。
とにかく自分以外の、外側の人、外側のものを利用して、いやいやでも現実へと踏み出していくのです。
強迫神経症についてはまた次回に。
強迫神経症でお悩みの方どうぞご利用ください。お茶の水セラピールーム