今という貴重な時間
今まで森田正馬の生き方を書いたり、読んだりしていて、実感としてわかったことがあります。
森田正馬は、人生で何度も何度も危篤状態になりました。
本当に身体が弱かった人のようです。
おまけにその頃の医療も薬品も今ほど発達していません。
彼がかかった病気は、腸チフス、脚気、結核、腸炎、肺炎・・・とにかくいろいろな病気で「もうあぶない」と言われることも三、四回経験しています。
彼の強烈な生きることへの欲求、時間への執着、自分の人生を形として残すことへのこだわりは、この「危篤」状態を何度も経験したためでもあったのでしょう。
病弱なのに、いくつも仕事を掛け持ちして、なおかつ入院療法を行い、原稿を書きました。
自分の「死」を目前にする経験は、その人の人生観そのものを変化させます。
それを繰り返し体験したのですから、それが彼の思想に色濃く影響を与えたのだと思います。
若い頃は、自分には時間が無限にあるような気がします。
悩んでいても、まだまだこれから挽回できると、心の奥底では思っていたりします。
あるいは「死」というものがまだ漠然としているからこそ、簡単に「死」を考えたりします。
「今」という時間の貴重さは、その時間が限りあるものだと実感できたときに、やっとしっかり理解できるものかもしれません。
年齢を重ねてくると、当然のことながら自分の持ち時間の限界がわかってきます。
そうすると、心境も変化してきます。
自分について言えば、何か参加したいことがあったときに、以前ならためらって「次のときにするか・・」と消極的になったものです。
でも、今は「もう次はないかもしれない」と思いますから、簡単に決断して参加できます。
私には完全主義があって、小説なども読み始めたら読み終えないと気持ちがすっきりしないところがありました。
この頃は、時間がもったいなくて、「つまらない」と感じたらそこでやめます。
買って積んでおいた本も、「これはもう読まないな」と思ったらすぐ売ってしまいます。
ものを捨てるのも簡単になりました。
諦めも早くなりました。
その分、余分なものではなく、本当に自分が楽しめるもの、自分がどうしてもやりたい仕事に集中できているように思います。
これをもう少し若い頃からできていたら、消極的なせいでやらなかったことはもっと少なくなったし、時間の使い方も違ったかもしれません。
しかし、考えてみれば、いくら若くても自分の時間が有限であることに変わりはありません。
ただ、実感として感じられないだけなのですね。
旧い年と新しい年の境目。
時間にはっきりと区切りがつくこの時に、今という時間の貴重さを感じてみるのもいいかもしれません。
皆様、良いお年を!