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欲望と不安

本日は、森田療法の根幹と言われる「欲望と不安」について。

森田療法を学習するときも、治療を受けるときも、本を読んでも、必ずこの「欲望と不安」という概念に行き当たります。

森田療法というのは一元論ですから、欲望と不安とは同じものであるという見方をします。
ある面から見ると「不安」ですが、また他の面から見ると「欲望」であるということ。
不安があるからには、必ず同じぐらいの大きさの欲望があるはずだということが前提にあります。

つまり欲望に沿って行動していけば、症状(不安)にそれほど煩わされなくなる。
それが森田療法の大きな前提です。

いろいろなかたとカウンセリングでお会いして、良くなっていくかたを見ると、リアルにこれが真実であるとわかります。

ところが、長い間(ときには何十年も)症状に悩んでいると、この「欲望」を全く見失ってしまうことがあります。
こんなときに「欲望」という言葉を使っても、「なんのことやら」という感じになります。
「この苦しみを取り除くことこそが自分の欲望」と思われるのも自然なことかもしれません。
不安という分厚い壁に阻まれて、目の前には何も見えない状態です。

森田正馬が行った入院療法は、そういう人たちを、自発的に自分の欲望に向かっていけるようにするためのものでした。

入院生が行っていたのは、何の変哲もない日常の家事などです。
でも彼らの大半は元気になって退院していきました。

これは私見ですが、彼らはきっと「自分の人生に関わる大きな欲望」を探し当てたわけではないように思うのです。

「欲望」と言葉で言われると、私たちは「〇〇の達成」とか「〇〇の取得」とか、大きな成果をイメージしがちです。
そういうものを探していると、いつまでも「欲望」と言われるものに行き当たらない。
「まだダメ」「まだまだ」という不全感をつのらせていくばかりだと思うのです。

森田がやったことは、その大それた野望を日常の些事へと向け替えることでした。
入院生が行ったことは、部屋の掃除や台所仕事、そんなことばかりです。

しかしそれがイヤイヤながらの仕事ではなく、楽しみになってくる。
もちろん、入院森田ですので「絶対臥褥」があり、その時点で不安障害の人は、「何かをやりたい」という意欲をかきたてられた状態になっています。

そして細かく仕事を指示されるのではなく、自分が仕事を探し、工夫をしていくという状況に置かれる。
その作業は観念的に「欲望を見つける」作業ではなく、自発性、自然な意欲を掘り起こしていく作業でした。

多分彼らは「人生の目的」や「達成すべき欲望」を見つけたわけではなく、自分のなかに自然に湧き上がってくる「何かをやりたい」という気持ち、好奇心、自分発の意欲のようなものを見つけたのだと思います。

そしてそれは、「不安」を持つ人なら誰でも持ち合わせている。
なぜなら、それは不安の裏側にいつも存在していたものだからです。

何かほんの少しの家事、ささいな仕事を達成したときに感じる喜び。
それが誘い水のようになって、次々に何かをしたいという意欲が湧きあがってくる。

大きな目標を達成しなくても、社会的に偉くなどならなくても、目の前のことを工夫してこなしていくことで、毎日は喜びに満ちたものになり得る。

森田正馬の行っていた治療とは、きっとそういうものだったと思うのです。

五月のバラ

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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