ひきこもりと不寛容社会
川崎殺傷事件にはじまる「ひきこもり」と呼称される人たち関連の事件が起き、当ルームにいらっしゃるクライエントさんにも波紋が広がっています。
「私もひきこもりではないかしら?」
「世間の人からそういう目で見られるのではないでしょうか?」
「私もそうなってしまうのでは?」
こういうのは典型的な神経症の人たちの反応です。全然そういう事実もないのに心配するという傾向ですね。
そういう心配はまったく無用な場合が多いのにです。
しかし、もっと深刻なのは、本当にそういう呼称に当てはまってしまう人たちと、その家族のかたがたです。
でもね、これってそんなに「特殊」な問題ではないと思います。
今回の事件が特殊なだけです。
私は昔「一家に一人ひきこもり」の時代だと友人に言ったことがあります。
今は社会生活をしているけれど、以前は学校に行けなかった、社会に出られなかった人はたくさんいると思います。
そういう人を含めて「一家に一人」。
以前はそうだったけれど、今は学校に行っている、会社に行っているという人は多いです。
いつかは自立することだってあるという希望的側面もメディアは伝えてほしいですね。
現代ではなく、昔だってそういう人はいたと思います。
漱石の小説の主人公たちだって、「高等遊民」などと言っているけれど、似たような感じだし。
いっそ「ひきこもり」などというレッテル貼りはやめて「高等遊民」というネーミングにすればいいのではないでしょうか。
そして堂々と遊ぶのです!
しかし、そういう悩みを持つクライエントさんのお話を聞いてつくづく思うのは、働こうと思って入社試験を受けると、時にはかなり屈辱的な目にあうらしいということです。
「この(空白の)一年間は何していたの?」
「なぜこの学校を中退したの?」
「前の会社はなぜやめたの?」
まるで悪い事でもしたかのように根掘り葉掘り訊かれるという話です。
そのあげく不採用になったりしたら、踏んだり蹴ったりです。
ますます自尊感情は低くなり、「私は社会に通用しないのだ」「結局どこに行ってもダメだ」という妙な確信ができあがってしまう。
出ようにも出られない状態になります。
学校に始まって、減点主義の社会が彼らを追い詰めているのだと思います。
この減点主義は、結局、学校や企業の利益のためでしょう。
欠点ばかりに目を向け、それを撲滅しようとする不寛容な社会です。
一元論的に見れば、欠点の裏には美質があるはず。
それを育てようとする人があまりいない。
家庭まで減点主義になってしまったら、気持ちのやり場はどこにもなくなる。
結果、生き延びるのは学歴社会的能力に恵まれた、適応力のある人だけになります。
それ以外の人だって、世の中にはたくさんいます。
今回の一連の騒動で危惧するのは、家にいること自体が「恥」であり「落ちこぼれ」であるというレッテル貼りが進んでいくことです。
それがますます状況を悪化させるでしょう。
大事なのは「一家に一人ひきこもり」の時代と考えて、本人も家族もそれを隠さないことです。
支援している公共の窓口、本人たちのグループもたくさんあります。
そういうところとつながれば、自分たちが一人ではないということがわかります。
それこそが、大きな一歩になるはずです。