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自分だけではない

先日、練馬集談会の500回記念会にお招きいただき、「生き生き森田ワーク」をさせていただきました。なんと50人のかたが集まってくださってびっくり。
九州から名古屋から関西、関東近県から来てくださったかたもいて、本当にありがたいことです。

さてその時にも話しましたが、この「純な心」を体得するワークの目的のひとつは、平等観を得、他者と共感的に交流できるようになることです。

とにかく神経質症のかたが持っている根源的な不安のベースには「自分は何か特別に変な部分がある」という疎外感にも通じるような感覚。
これがとても強烈なのです。

こんな悩みを持っている自分は、全人類(!)のなかでも特殊中の特殊、奇妙な人間で劣等であると信じ込んでいる。

だからこそ、同じ症状の人が集うグループに行くとホッとするのですが、今度はそのグループのなかでも「自分が一番症状がひどい」とか「私と同じ症状の人はいない」などと悩むことになるのです。

森田療法では「症状の発端」は「誰もが感じる感覚を異常と思い、それをなくそうとすることによってそれに執着してしまった」と解説しています。
つまり「誰もが感じる感覚」がもとにあるのです。

「プレゼンのときに声が震える」「狭い空間で息苦しく感じる」「病気になるのがこわい」「人に変に思われている気がする」「人のことが憎いと感じる」
実はそういう感覚は全部、誰もが持っているものです。
ただ多い少ないの差があり、フォーカスしていることが違うだけなのです。
神経症のかたはそれにとらわれてしまっただけです。

グループのなかで、そういう根源的な感覚を言葉に出し合うことで、「なんだ、自分だけではなかった」と思うことは、大きな気づきにつながるのではないかと思うのです。

ただもっと広い視野で考えると、神経症のグループのなかで「自分だけではなかった」と思ってそこに留まるのではなく、世間一般の人も同じように感じているだろうと推測することも大事かもしれないとこの頃思います。

グループのなかで固まっていると、まだまだ「自分はこのグループにはいられるけれど、世間ではのけ者」「世間の人はこわい」と思うこともあるかもしれません。
「やはりこのグループのなかだと安らげるわ」と思うかもしれません。

でも思い出してください。
「誰もが感じる感覚」なのです。

森田正馬が言ったように「目上の人の前では緊張し、好きな人の前では恥ずかしい」のが人間なのです。

世間の人は、それを「当たり前」と思って、そのまま生きているだけ。
神経症の人と同じように嫌なものは嫌なのです。
その感覚をコントロールしようとしなかっただけ。

けれどフォーカスのしかたが異なると、他の人の感情を聞くときに「えっ、そんなことを感じるの?!」と思ってしまうこともあります。
「誰かに猛烈な嫉妬を感じる」と言われた時、「え、私にはそんなことないなぁ」と思う。
しかし、本当は気づいていない、あるいは自分から隠しているだけだったりするのです。

よくよく考えてみると、実は一瞬だけでも感じていたりする。
すぐに次のことにフォーカスするので、それに気づかない。
たとえば「いいなぁ」と感じたら、自分のほうに返ってきて「くやしい。私のほうが劣等だ」とグルグル考えるのではなく、「どんなことをしてそういう結果になった?」⇒「では、私が真似できるところはどこ?」あるいは「いや、それは私には無理だから、何か他のこと(方法)に焦点をあてたほうがいい」等、現実検討へと向かっていけば、素直にその人のことを祝福できたり賞賛できたりするのです。

決して感情を無理やりねじ曲げる必要はない。

「純な心」は、症状を持っている・いないに関わらず、誰でもが持つ感じ。
それは神経症の人に限らないのです。
他の人はそれを目の敵にしていないだけなのです。

ゆしま2

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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