事実唯真
「事実唯真」は「じじつただしん」と読むのだそうです。
私は口調が簡単なので、いつも「じじつゆいしん」と読んでいました。
「森田正馬」もそうです。
口調が簡単なので「しょうま」と読んでいました。
こちらは「まさたけ」でなく「しょうま」が正解だそうです。
本人が海外論文を書くときに「しょうま」と言っているので、森田本人の意向はこっちなのでしょう。
私にはどっちでもいいような気がします。
「意味が通じればいい」というのは、森田本人が言っていること。
学生の提出物を見るときも、誤字などはあまり注意せず、何を言っているかのほうを見ているというようなことを言っていますね。
話がそれました。
私が初めて「事実唯真」という言葉を見たとき「なんと当たり前のことを・・・」と感じたものです。
その頃は森田療法のなかの「事実唯真」の大切さを知らなかったのですね。
あるいは森田療法のなかだけでなく、現代社会でも「事実唯真」はとても大切な概念かもしれません。
ネット社会で流れてくる雑多な情報、そのなかにはただの憶測や偽情報、陰謀論などもあります。
そういうものがあふれている時代、「何が現実なのか」を調べたり、問うたりするのはとても大事なことになっています。
「現実、事実」に基づいて推論し、行動することがますます大切になってきているのです。
さて、では森田療法の方法における「事実唯真」はどういう意味を持っているのか、ということです。
症状の真っ只中にいるとき、その人は自分で作り出した恐怖の世界にいます。
自分で作り上げた「恐ろしいもの」から逃れることに必死で、必死だからこそ「精神交互作用」でますます世界は恐怖に満ちたものになるという悪循環にはまっています。
こんなときには、現実(事実)と自分の空想・思考の区別がつきません。
実際、そうなるのです。
症状から抜け始めると、やっと周囲の「事実」に気付くことができるようになり、そのうち自分を客観的に見られるようになります。
人や自分の視線が気になり、それをどうにかしようと座る位置を調節し、立ち居振る舞いに注意することに一生懸命だった人がいます。
けれど、会社にとってはそんなことはちっとも重要なことでなく、いかに仕事の能率をあげるか、仕事をどんどん達成していくかが大切なことなのです。
そして本当に症状から回復していくと、きちんと仕事をしているとばかり思っていたのに、こんなに不十分なところがあった、と気づくものです。
皆が厳しいと思っていたけれど、それは「症状」のせいではなく、自分の仕事ぶりや他者への気配りが至らなかったからということがわかるのです。
森田が言っている「事実唯真」というのは、そういうことなのです。
「思考」は「思考」であって事実ではない。
空想・思考は行動に移さない限り、外界には何の影響も及ぼさないものなのです。
いまだに症状的思考に悩んでいらっしゃるかた、症状的な悩みはそのままでは出口がありません。
まずは、ご自身の「空想、思考」と、「現実、事実」とを区別するところから始めてみませんか。
私は口調が簡単なので、いつも「じじつゆいしん」と読んでいました。
「森田正馬」もそうです。
口調が簡単なので「しょうま」と読んでいました。
こちらは「まさたけ」でなく「しょうま」が正解だそうです。
本人が海外論文を書くときに「しょうま」と言っているので、森田本人の意向はこっちなのでしょう。
私にはどっちでもいいような気がします。
「意味が通じればいい」というのは、森田本人が言っていること。
学生の提出物を見るときも、誤字などはあまり注意せず、何を言っているかのほうを見ているというようなことを言っていますね。
話がそれました。
私が初めて「事実唯真」という言葉を見たとき「なんと当たり前のことを・・・」と感じたものです。
その頃は森田療法のなかの「事実唯真」の大切さを知らなかったのですね。
あるいは森田療法のなかだけでなく、現代社会でも「事実唯真」はとても大切な概念かもしれません。
ネット社会で流れてくる雑多な情報、そのなかにはただの憶測や偽情報、陰謀論などもあります。
そういうものがあふれている時代、「何が現実なのか」を調べたり、問うたりするのはとても大事なことになっています。
「現実、事実」に基づいて推論し、行動することがますます大切になってきているのです。
さて、では森田療法の方法における「事実唯真」はどういう意味を持っているのか、ということです。
症状の真っ只中にいるとき、その人は自分で作り出した恐怖の世界にいます。
自分で作り上げた「恐ろしいもの」から逃れることに必死で、必死だからこそ「精神交互作用」でますます世界は恐怖に満ちたものになるという悪循環にはまっています。
こんなときには、現実(事実)と自分の空想・思考の区別がつきません。
実際、そうなるのです。
症状から抜け始めると、やっと周囲の「事実」に気付くことができるようになり、そのうち自分を客観的に見られるようになります。
人や自分の視線が気になり、それをどうにかしようと座る位置を調節し、立ち居振る舞いに注意することに一生懸命だった人がいます。
けれど、会社にとってはそんなことはちっとも重要なことでなく、いかに仕事の能率をあげるか、仕事をどんどん達成していくかが大切なことなのです。
そして本当に症状から回復していくと、きちんと仕事をしているとばかり思っていたのに、こんなに不十分なところがあった、と気づくものです。
皆が厳しいと思っていたけれど、それは「症状」のせいではなく、自分の仕事ぶりや他者への気配りが至らなかったからということがわかるのです。
森田が言っている「事実唯真」というのは、そういうことなのです。
「思考」は「思考」であって事実ではない。
空想・思考は行動に移さない限り、外界には何の影響も及ぼさないものなのです。
いまだに症状的思考に悩んでいらっしゃるかた、症状的な悩みはそのままでは出口がありません。
まずは、ご自身の「空想、思考」と、「現実、事実」とを区別するところから始めてみませんか。
御茶ノ水の桜