心の境界線
前回のブログの対人恐怖のかたもそうでしたが、人と交わる経験を積むと、「皆は私を嫌ってはいない、たいていの人は受け入れてくれるものだ」という気持ちが生まれてきます。
これはとても大切なことです。
対人恐怖の人は、どこかで「人は私を受け入れてくれない。嫌っている。馬鹿にしている」などの感じを持っています。
人は、自分自身を好きでなかったり、自信がなかったりすると、自分を見ている他の人も当然自分のイヤな部分を察知しているような気がします。
これもまた「投影」という防衛機制かもしれません。
それになぜか、自分自身が嫌いで自分の欠点ばかりあげつらっている人は、他人の欠点にも目ざといような気がします。
そうなると、周りはいやな人ばかりのように感じられ、外に出ると自尊心を傷つけられるのではと絶え間なく戦闘態勢になります。
けれどとにかく外に出る、怖くても人とまじわるということを繰り返していく。
「体験」の積み重ねです。
普段接している世間の人は、実はそれほど人に対して厳しくないのです。
言い換えましょう。「自分ほど」人に対して厳しくないのです。
皆、自分のことに精一杯で、そこまで人にかまう余裕はない。
もちろん一部には嫌な人もいる。
嫌なことを言う人もいる。
これも世の中の事実です。
こういうとき自信のない人は、「私のせいだ。私が○○だからだ。私が何か悪いことを言ったに違いない」と悩み、ますます自信をなくしていきます。
これは人との間に心の境界線が引けていないということです。
なんでも自分のせいにする。
自分に自分の世界があるように、相手もまた独自の世界を持っているということがわかっていないということかもしれません。
相手が嫌なことをしたり、嫌なことを言ったりしたら、怒りを感じる。
それだけでいいのです。
その先のことは理性が判断する。
「私」には「その人」の心のなかも「その人」の状況もわからない。
その人は今何か悩みや怒りを抱えていて、誰かにあたりたかったのかもしれない。
忙しくて、人のことなど考えられない状況かもしれない。
いずれにしろ、(私が何か明らかにその人に対して謝らなくてはならないことをしたのではないかぎり)その人が私に嫌なことをしてきたことは、「私」とは関係ないのです。
こうして他人と心の境界線が引けるようになると、対人関係がずいぶん楽になります。
そしていろいろな人と接していくうちに、実は殆どの人はそれほど人に対して厳しくない、自然に自分を受け入れてくれるということが体感できてきます。
それがまた、自分への見方を変えていきます。
「私」はそれほど特殊ではない。
それほど特別に変でもないし、特別に目立ってもいない。
「私」は彼らのなかの一員(one of them)なのです。
ただそれだけの事実がわかれば、社会の中に出ていく恐怖は少しずつ溶けていくものだと思います。
これはとても大切なことです。
対人恐怖の人は、どこかで「人は私を受け入れてくれない。嫌っている。馬鹿にしている」などの感じを持っています。
人は、自分自身を好きでなかったり、自信がなかったりすると、自分を見ている他の人も当然自分のイヤな部分を察知しているような気がします。
これもまた「投影」という防衛機制かもしれません。
それになぜか、自分自身が嫌いで自分の欠点ばかりあげつらっている人は、他人の欠点にも目ざといような気がします。
そうなると、周りはいやな人ばかりのように感じられ、外に出ると自尊心を傷つけられるのではと絶え間なく戦闘態勢になります。
けれどとにかく外に出る、怖くても人とまじわるということを繰り返していく。
「体験」の積み重ねです。
普段接している世間の人は、実はそれほど人に対して厳しくないのです。
言い換えましょう。「自分ほど」人に対して厳しくないのです。
皆、自分のことに精一杯で、そこまで人にかまう余裕はない。
もちろん一部には嫌な人もいる。
嫌なことを言う人もいる。
これも世の中の事実です。
こういうとき自信のない人は、「私のせいだ。私が○○だからだ。私が何か悪いことを言ったに違いない」と悩み、ますます自信をなくしていきます。
これは人との間に心の境界線が引けていないということです。
なんでも自分のせいにする。
自分に自分の世界があるように、相手もまた独自の世界を持っているということがわかっていないということかもしれません。
相手が嫌なことをしたり、嫌なことを言ったりしたら、怒りを感じる。
それだけでいいのです。
その先のことは理性が判断する。
「私」には「その人」の心のなかも「その人」の状況もわからない。
その人は今何か悩みや怒りを抱えていて、誰かにあたりたかったのかもしれない。
忙しくて、人のことなど考えられない状況かもしれない。
いずれにしろ、(私が何か明らかにその人に対して謝らなくてはならないことをしたのではないかぎり)その人が私に嫌なことをしてきたことは、「私」とは関係ないのです。
こうして他人と心の境界線が引けるようになると、対人関係がずいぶん楽になります。
そしていろいろな人と接していくうちに、実は殆どの人はそれほど人に対して厳しくない、自然に自分を受け入れてくれるということが体感できてきます。
それがまた、自分への見方を変えていきます。
「私」はそれほど特殊ではない。
それほど特別に変でもないし、特別に目立ってもいない。
「私」は彼らのなかの一員(one of them)なのです。
ただそれだけの事実がわかれば、社会の中に出ていく恐怖は少しずつ溶けていくものだと思います。
T.H氏撮影