コップの水半分
コッブに水が半分入っているとしたら、「あと半分足りない」と思う人と「半分は入っている」と思う人がいる。
これはよく言われるたとえです。
神経症の人は典型的に「あと半分足りない」と思う人でしょう。
自分には足りないものがたくさんある。
もっと何かしなければ十分ではない。
まだまだ、、、もっともっと、、、
根底にあるのは、こんな思考でしょう。
「症状」なんかに苦しんでいる自分はとんでもない。
早く克服して普通の人になりたい。
そして自分の理想像に近づく努力をしたい。
それはある意味、欲求が大きいということも関連しているでしょう。
向上欲求ととらえればいいのかもしれません。
そういうふうにとらえれば「もっともっと」は必然だし「あっていいこと」です。
向上欲求を具体化して、少しずつ努力し、実現していけばいいだけです。
けれど「あと半分足りない」が、日常生活に浸透していて、足りないことだけに目が向くという傾向はありそうです。
足りないことにだけ目を向けていると、自分は何にも恵まれていない、惨めな存在に思われてきます。
自信もなくなり、前に進む気力もそがれます。
足りないものがあるから、何もできないという思考になります。
しかしコップには確かに水が入っているのです。
もしコップが空であれば、神経症に悩むという余裕すらないはずです。
時として、もう癖になっている「足りない」という考え方をいったん脇に置いて、コップに残っている水をしっかり確かめることも必要。
それが、毎日の生活を少し楽にしてくれると思います。
コップの水は、そこまで特別のものである必要はない。
健康状態、家族や友人がいてくれること、仕事があることなどの基本的な生活に恵まれていること。
今日うれしいメールをもらった、食事が美味しかった、天気が良かった、たまたま見たアニメ(小説、ドラマなど)が面白かった。
それに、このご時世なのに、コロナにかからず無事でいられる・・・(^^;
もちろん人それぞれ違いますが、そういうふうにコップに半分入っている水のことを考えると、気持ちが少し違ってくるはずです。
本当はたくさんのものを持っている。
自分の味方だっている。
決して、マイナスにはなっていない。
そのことに気づいて、その気づきが頭だけでなく、少しでも心や感情に浸み込んできたら、症状という架空の産物に対する見方も変化してくるでしょう。
これはよく言われるたとえです。
神経症の人は典型的に「あと半分足りない」と思う人でしょう。
自分には足りないものがたくさんある。
もっと何かしなければ十分ではない。
まだまだ、、、もっともっと、、、
根底にあるのは、こんな思考でしょう。
「症状」なんかに苦しんでいる自分はとんでもない。
早く克服して普通の人になりたい。
そして自分の理想像に近づく努力をしたい。
それはある意味、欲求が大きいということも関連しているでしょう。
向上欲求ととらえればいいのかもしれません。
そういうふうにとらえれば「もっともっと」は必然だし「あっていいこと」です。
向上欲求を具体化して、少しずつ努力し、実現していけばいいだけです。
けれど「あと半分足りない」が、日常生活に浸透していて、足りないことだけに目が向くという傾向はありそうです。
足りないことにだけ目を向けていると、自分は何にも恵まれていない、惨めな存在に思われてきます。
自信もなくなり、前に進む気力もそがれます。
足りないものがあるから、何もできないという思考になります。
しかしコップには確かに水が入っているのです。
もしコップが空であれば、神経症に悩むという余裕すらないはずです。
時として、もう癖になっている「足りない」という考え方をいったん脇に置いて、コップに残っている水をしっかり確かめることも必要。
それが、毎日の生活を少し楽にしてくれると思います。
コップの水は、そこまで特別のものである必要はない。
健康状態、家族や友人がいてくれること、仕事があることなどの基本的な生活に恵まれていること。
今日うれしいメールをもらった、食事が美味しかった、天気が良かった、たまたま見たアニメ(小説、ドラマなど)が面白かった。
それに、このご時世なのに、コロナにかからず無事でいられる・・・(^^;
もちろん人それぞれ違いますが、そういうふうにコップに半分入っている水のことを考えると、気持ちが少し違ってくるはずです。
本当はたくさんのものを持っている。
自分の味方だっている。
決して、マイナスにはなっていない。
そのことに気づいて、その気づきが頭だけでなく、少しでも心や感情に浸み込んできたら、症状という架空の産物に対する見方も変化してくるでしょう。