頭のなかが煮詰まるとき
「頭のなかが煮詰まる」という表現は奇妙かもしれませんが、実感のあるかたも多いのではないでしょうか。
特に強迫神経症に悩むかたのなかに、こういう時期があるように思います。
考えることがあまりに多くて、まったく行動できなくなるような、「うつ」的な時間です。
強迫神経症のかたは、「どうしたらいい?」という質問をなさる方が多い。
つまりこの苦しさを抜けるには必ず何か方法があり、それを会得すれば、この苦しさが薄れるに違いないと思う傾向があるのです。
森田療法での神経質症成立の過程をご存じのかたならおわかりになるように、この「どうしたらいい?」傾向が、精神交互作用を昂進させ、苦しさを増幅します。
しかし苦しいことは苦しいので、頭のなかは言葉でいっぱい。
なんとかしてこの苦しさや「イヤな感覚」から脱出したいと、言葉が頭のなかを駆け巡る。
あるいは「イヤなこと」から未来永劫逃れるために、どうしたらいいかを考え続ける。
強迫神経症のかたの頭のなかはこうなっているのではないかと、私は想像します。
そんな時は、外側から見るとそのかたは殆ど無表情、でも内面はヒートアップしているのではないでしょうか。
「森田療法は行動を勧めているから」と行動しようとする。
しかし「行動しよう」という言葉が頭をぐるぐるめぐっているだけで、何もできない。
それが自責感となり、またイヤな感覚を積み重ねていく。
そんなときに参考になるかなと思われる文章に出会ったので、ご紹介します。
他の病状のかたに向けて言っていることなので、意訳してご紹介します。
「できるだけ役に立たないことをどんどんやってもらってください。価値のないもの。そのへんにある石を蹴っ飛ばしたりするような。」
「小さい頃読書が好きだった人には、<本屋に行きなさい。それで、本を読んではいけません。ただ本屋のなかを歩くだけ>という、そうすると足腰が丈夫になる(笑)。そうして、<脳が回復してくると、必ずどこかの棚にある本があなたの脳を呼ぶから、呼べば自然に手が伸びて、触るようになってきて、見るようになるから。それまでは自分の意志で本を触ったりしてはいけません。ただそのなかを歩いてみる>。そしたら幼稚園ぐらいのときに本好きだった気分が、だんだん引っぱり出されてくる。そうすると子供時代と今がつながる」
「大事なことをなぜやらせんかというと、大事なことや有益なことやると、ずっとそこばっかりするから」
(神田橋條治「ちばの集い2」)
この文章の本来の趣旨からは少し違うのですが、「~をしなくてはならない」という妙な目的意識で埋まった強迫神経症のかたには、いいかなと思うのです。
損得勘定が働くので、症状治癒に一番有効なことをやって最短距離で楽な状態に到達したい。
その性向が自分を追い詰めていくような気がします。
ですから無駄なことをする、目的のないことを試しにやってみるということは良いかなと思ったのです。
ただ、「無駄なことをする」がまた標語になり、目的になって自分を縛るというサイクルができてしまうかもしれません。
「無駄なこと」をして、子供のころ感じた自分の「純なこころ」が沸き上がってくるといいのですが。
むずかしいですね!
きっと森田先生の入院療法は「あれをしろ、これをしろ」というものではなかったはずです。日常生活の場に入院生を置いて、身体や興味が自然に動くような環境を作ったのではないかと思います。
特に強迫神経症に悩むかたのなかに、こういう時期があるように思います。
考えることがあまりに多くて、まったく行動できなくなるような、「うつ」的な時間です。
強迫神経症のかたは、「どうしたらいい?」という質問をなさる方が多い。
つまりこの苦しさを抜けるには必ず何か方法があり、それを会得すれば、この苦しさが薄れるに違いないと思う傾向があるのです。
森田療法での神経質症成立の過程をご存じのかたならおわかりになるように、この「どうしたらいい?」傾向が、精神交互作用を昂進させ、苦しさを増幅します。
しかし苦しいことは苦しいので、頭のなかは言葉でいっぱい。
なんとかしてこの苦しさや「イヤな感覚」から脱出したいと、言葉が頭のなかを駆け巡る。
あるいは「イヤなこと」から未来永劫逃れるために、どうしたらいいかを考え続ける。
強迫神経症のかたの頭のなかはこうなっているのではないかと、私は想像します。
そんな時は、外側から見るとそのかたは殆ど無表情、でも内面はヒートアップしているのではないでしょうか。
「森田療法は行動を勧めているから」と行動しようとする。
しかし「行動しよう」という言葉が頭をぐるぐるめぐっているだけで、何もできない。
それが自責感となり、またイヤな感覚を積み重ねていく。
そんなときに参考になるかなと思われる文章に出会ったので、ご紹介します。
他の病状のかたに向けて言っていることなので、意訳してご紹介します。
「できるだけ役に立たないことをどんどんやってもらってください。価値のないもの。そのへんにある石を蹴っ飛ばしたりするような。」
「小さい頃読書が好きだった人には、<本屋に行きなさい。それで、本を読んではいけません。ただ本屋のなかを歩くだけ>という、そうすると足腰が丈夫になる(笑)。そうして、<脳が回復してくると、必ずどこかの棚にある本があなたの脳を呼ぶから、呼べば自然に手が伸びて、触るようになってきて、見るようになるから。それまでは自分の意志で本を触ったりしてはいけません。ただそのなかを歩いてみる>。そしたら幼稚園ぐらいのときに本好きだった気分が、だんだん引っぱり出されてくる。そうすると子供時代と今がつながる」
「大事なことをなぜやらせんかというと、大事なことや有益なことやると、ずっとそこばっかりするから」
(神田橋條治「ちばの集い2」)
この文章の本来の趣旨からは少し違うのですが、「~をしなくてはならない」という妙な目的意識で埋まった強迫神経症のかたには、いいかなと思うのです。
損得勘定が働くので、症状治癒に一番有効なことをやって最短距離で楽な状態に到達したい。
その性向が自分を追い詰めていくような気がします。
ですから無駄なことをする、目的のないことを試しにやってみるということは良いかなと思ったのです。
ただ、「無駄なことをする」がまた標語になり、目的になって自分を縛るというサイクルができてしまうかもしれません。
「無駄なこと」をして、子供のころ感じた自分の「純なこころ」が沸き上がってくるといいのですが。
むずかしいですね!
きっと森田先生の入院療法は「あれをしろ、これをしろ」というものではなかったはずです。日常生活の場に入院生を置いて、身体や興味が自然に動くような環境を作ったのではないかと思います。