日常的な「思想の矛盾」
どなたか調べたところによると、森田正馬全集5巻(形外会の記録)で、森田自身が一番使用している森田用語は「思想の矛盾」なのだそうです。
それだけ、森田にとっては大切なワードだったんですね。
私もこのところ、この「思想の矛盾」を自覚することが、「神経質性格の陶冶」に必須のことなのではないかと思うようになってきました。
「陶冶」というのは、その性格を成熟したものにしていくという意味だと思います。
たとえ症状を克服しても、それですべてOKというわけではない。
長い間、ひとつのことに集中して、自分のことにばかりかまけていたわけですから、知らないこと、気づいていないこと、社会に適応できていないことなど多々あるという自覚は必要です。
その一つが、「思想の矛盾」です。
「かくあるべし」とも言い換えられます。
神経質の中でも、性格に様々なバリエーションがありますが、この「かくあるべし」が非常に強いかたもいるようです。
これは言い換えれば「自分のなかの規則」です。
私が度々出す例ですが、とある人が、「待ち合わせには必ず10分前に行かなくてはならない」という「かくあるべし」を持っていたとします。
自分がこれを守っているぶんには、それはそれでいいと思います。
けれど、こういう人は、他の人もこれを守るべきだと(無意識に)思っています。
だから相手が遅れてくると、口に出さないまでも、ものすごい怒りを感じる。
本当は、「純な心」的には、相手が遅れたら、心配が先にきていいはずなのです。
「どうしたんだろう?」「交通機関が遅れたかな?」という感じがあるはず。
ところが、「こんなに人を待たせておいて、非常識だ」という怒りがきてしまい、その後、相手につんけんした態度をしてしまう。
待ち合わせの時間などもケースバイケース。
大事な会議、会合、飛行機の時間などはもちろん遅れないように気をつけるべき。
場によって厳しさや緩さは違っていいはずです。
別に法律で決まっているわけではない。
「出された食事は全部食べるのが当たり前」と言われて育った人は、たくさん残す人を「無作法」と感じるでしょう。
だから相手が食べたくもないのに、「まだ残っているよ」と強要したりします。
(ちなみに、私自身は小食でなおかつお腹が弱いので食べられないものがたくさんあり、この手の強要に、辟易したことが多々あります。)
これだって、その家の文化というだけで、誰にでも共通するものではありません。
その人にとっての「かくあるべし」はたくさんあり、たくさんあればあるほど、その「かくあるべし」を守らない相手に対して怒りを感じることが多くなるでしょう。
非常に厳しく相手を裁くことになりがちですし、たとえ口に出さなくても、厳しく見られた相手は、息苦しさを感じるでしょう。
神経質の人が、なんとなく人と親しめないと感じるのは、こんな部分もあるのではないでしょうか?
つまり、自分に厳しいだけではなく、その「かくあるべし」を守らない人々にも反発を感じる。
その「かくあるべし」を緩めていくのは、やはり「相手の身になって考える」「相手に共感する」ということを重ねていくことではないかと思います。
(神経質の人だけでなく)いろいろな人と交わって、その人たちのやることを見てみる。
そして、世間は自分が考えているほど厳しいところではないと、実感していくことです。
それだけ、森田にとっては大切なワードだったんですね。
私もこのところ、この「思想の矛盾」を自覚することが、「神経質性格の陶冶」に必須のことなのではないかと思うようになってきました。
「陶冶」というのは、その性格を成熟したものにしていくという意味だと思います。
たとえ症状を克服しても、それですべてOKというわけではない。
長い間、ひとつのことに集中して、自分のことにばかりかまけていたわけですから、知らないこと、気づいていないこと、社会に適応できていないことなど多々あるという自覚は必要です。
その一つが、「思想の矛盾」です。
「かくあるべし」とも言い換えられます。
神経質の中でも、性格に様々なバリエーションがありますが、この「かくあるべし」が非常に強いかたもいるようです。
これは言い換えれば「自分のなかの規則」です。
私が度々出す例ですが、とある人が、「待ち合わせには必ず10分前に行かなくてはならない」という「かくあるべし」を持っていたとします。
自分がこれを守っているぶんには、それはそれでいいと思います。
けれど、こういう人は、他の人もこれを守るべきだと(無意識に)思っています。
だから相手が遅れてくると、口に出さないまでも、ものすごい怒りを感じる。
本当は、「純な心」的には、相手が遅れたら、心配が先にきていいはずなのです。
「どうしたんだろう?」「交通機関が遅れたかな?」という感じがあるはず。
ところが、「こんなに人を待たせておいて、非常識だ」という怒りがきてしまい、その後、相手につんけんした態度をしてしまう。
待ち合わせの時間などもケースバイケース。
大事な会議、会合、飛行機の時間などはもちろん遅れないように気をつけるべき。
場によって厳しさや緩さは違っていいはずです。
別に法律で決まっているわけではない。
「出された食事は全部食べるのが当たり前」と言われて育った人は、たくさん残す人を「無作法」と感じるでしょう。
だから相手が食べたくもないのに、「まだ残っているよ」と強要したりします。
(ちなみに、私自身は小食でなおかつお腹が弱いので食べられないものがたくさんあり、この手の強要に、辟易したことが多々あります。)
これだって、その家の文化というだけで、誰にでも共通するものではありません。
その人にとっての「かくあるべし」はたくさんあり、たくさんあればあるほど、その「かくあるべし」を守らない相手に対して怒りを感じることが多くなるでしょう。
非常に厳しく相手を裁くことになりがちですし、たとえ口に出さなくても、厳しく見られた相手は、息苦しさを感じるでしょう。
神経質の人が、なんとなく人と親しめないと感じるのは、こんな部分もあるのではないでしょうか?
つまり、自分に厳しいだけではなく、その「かくあるべし」を守らない人々にも反発を感じる。
その「かくあるべし」を緩めていくのは、やはり「相手の身になって考える」「相手に共感する」ということを重ねていくことではないかと思います。
(神経質の人だけでなく)いろいろな人と交わって、その人たちのやることを見てみる。
そして、世間は自分が考えているほど厳しいところではないと、実感していくことです。