自分の中の「恐ろしい」ものへの恐怖
今回はいつにも増して抽象的になりますが、わかるかたにはわかってもらえると思います。
なんのこと?と感じる人はスルーしてください。
神経症(不安障害)になる人の「不安」って何だろう、とよく考えます。
もちろん森田療法での説明では、それは「死の不安」であり、対人的なことを気にする人にとっては「社会的死の不安」です。
それにしても神経症的不安というのは、その人の置かれている環境が安定しているときにも出てくる場合があるのです。
社会的不安が大きい時(たとえば災害時、不景気で生活が苦しい時、クビ寸前のときなど)には、むしろ神経症になる人は少なくなるのです。これは森田正馬も言っています。
現実的な不安があまりないのに、なぜ神経症になるのか。
それは「自分のなかに潜んでいるものへの恐怖」のせいではないかと思います。
それが何かは人それぞれでしょうが、「感情」にまつわる恐怖の場合が多いでしょう。
自分のなかに、自分で制御できない恐ろしいものが潜んでいるという感覚があり、それが外に出ないようにしているのが、強迫神経症だったりするのではないか、と私は思います。
なぜそんな感覚が出てくるのかというと、神経症の人のたくさんの「かくあるべし」が関係していると思います。
「自分はこんな人間であってはならない」「人に失礼なことをしてはいけない」「立派な人間でなければならない」「人より優位に立たなくてはいけない」
そういう考え方でいるためには、自分を監視していなくてはならない。
自分の言動をいちいち見て、自制しなくてはならない。
ずっと自分を監視し自制し続けている人には、それを脅かす危機がたくさん訪れます。
周囲は自分の「かくあるべし」通りに動いてくれない。
自身もまた「かくあるべし」通りの人間ではない。
ここで「かくあるべし」を緩める方向でいけば、それはその人が「人間的」になったということです。
ところが、ここで「もっと自制しよう」としてしまう場合がある。
すると自分のなかの「感情」(=制御できないもの)は、窮屈になり、その人にとって出てきてもらっては困る「オソロシイもの」に変化していきます。
ですから、症状というものは、自分のなかで制御できずに湧き上がってくる「何か」をなんとしても閉じ込めておこうという努力の表れになります。
わかりにくいかもしれません。
ちょっと簡単に具体例にしてみましょう。
たとえば赤面恐怖の人が、赤面を隠そうとするのは、「自分の弱さ」を人目にさらしたくないからです。
けれどその人のなかでは、そんな簡単な図式や言葉におさまる生易しいものではない。
赤面を隠す努力をしないと、人に見せてはならないオソロシイものが自分を制圧して崩してしまうような恐怖感があるのではないかと推測するのです。
そしてもうひとつ私が推測するのは、自分で感じている得体の知れないものは、実は「かくあるべし」と「感情を制圧する努力」とが生み出した幻想ではないかということです。
そのオソロシイ幻想を消滅させてくれるもの、それは自分の「かくあるべし」を削いでゆくことなのか、あるいは「恐怖突入」することなのか、経験を積んでゆくことなのか。
いずれにしろ、神経症から回復するということは、自分のなかの「恐ろしいもの」が実は「人間的」なもので、豊かなものだと自覚できるようになることなのでしょう。

なんのこと?と感じる人はスルーしてください。
神経症(不安障害)になる人の「不安」って何だろう、とよく考えます。
もちろん森田療法での説明では、それは「死の不安」であり、対人的なことを気にする人にとっては「社会的死の不安」です。
それにしても神経症的不安というのは、その人の置かれている環境が安定しているときにも出てくる場合があるのです。
社会的不安が大きい時(たとえば災害時、不景気で生活が苦しい時、クビ寸前のときなど)には、むしろ神経症になる人は少なくなるのです。これは森田正馬も言っています。
現実的な不安があまりないのに、なぜ神経症になるのか。
それは「自分のなかに潜んでいるものへの恐怖」のせいではないかと思います。
それが何かは人それぞれでしょうが、「感情」にまつわる恐怖の場合が多いでしょう。
自分のなかに、自分で制御できない恐ろしいものが潜んでいるという感覚があり、それが外に出ないようにしているのが、強迫神経症だったりするのではないか、と私は思います。
なぜそんな感覚が出てくるのかというと、神経症の人のたくさんの「かくあるべし」が関係していると思います。
「自分はこんな人間であってはならない」「人に失礼なことをしてはいけない」「立派な人間でなければならない」「人より優位に立たなくてはいけない」
そういう考え方でいるためには、自分を監視していなくてはならない。
自分の言動をいちいち見て、自制しなくてはならない。
ずっと自分を監視し自制し続けている人には、それを脅かす危機がたくさん訪れます。
周囲は自分の「かくあるべし」通りに動いてくれない。
自身もまた「かくあるべし」通りの人間ではない。
ここで「かくあるべし」を緩める方向でいけば、それはその人が「人間的」になったということです。
ところが、ここで「もっと自制しよう」としてしまう場合がある。
すると自分のなかの「感情」(=制御できないもの)は、窮屈になり、その人にとって出てきてもらっては困る「オソロシイもの」に変化していきます。
ですから、症状というものは、自分のなかで制御できずに湧き上がってくる「何か」をなんとしても閉じ込めておこうという努力の表れになります。
わかりにくいかもしれません。
ちょっと簡単に具体例にしてみましょう。
たとえば赤面恐怖の人が、赤面を隠そうとするのは、「自分の弱さ」を人目にさらしたくないからです。
けれどその人のなかでは、そんな簡単な図式や言葉におさまる生易しいものではない。
赤面を隠す努力をしないと、人に見せてはならないオソロシイものが自分を制圧して崩してしまうような恐怖感があるのではないかと推測するのです。
そしてもうひとつ私が推測するのは、自分で感じている得体の知れないものは、実は「かくあるべし」と「感情を制圧する努力」とが生み出した幻想ではないかということです。
そのオソロシイ幻想を消滅させてくれるもの、それは自分の「かくあるべし」を削いでゆくことなのか、あるいは「恐怖突入」することなのか、経験を積んでゆくことなのか。
いずれにしろ、神経症から回復するということは、自分のなかの「恐ろしいもの」が実は「人間的」なもので、豊かなものだと自覚できるようになることなのでしょう。
