無理をしない
前回、私は自分であまり無理をしないようにしていると書きました。
今だから、無理をするとどんな目にあうか、経験から十分わかっているので、少しは余裕を持ったペースで暮らすこともできます。
しかし、ずっと若かった頃は、身体の調子がどうこうというよりも、「仕事をこなすこと」が一番大事なことと思っていました。
スケジュール通りに仕事をこなす、家事もする、それが当然のことのように思っていて、ハードスケジュールでもこなせる自分が、どこか誇らしくもありました。
誰ですか、家事や仕事をきちんとこなすのは基本中の基本でしょと思っているかた・・・・
しかし、これをよ~く考えてみると、少しおかしいと思いませんか?
だって、なぜ仕事や家事が、自分が生きていくことよりも大事なことになってしまうのでしょう?
生きているのは「自然な人間としての私」。
自然な生命力を持ち、その生命力のなかに各々の体力や気力などがあるわけです。
でも時として人間はその発想を逆転させてしまう。
「思考」によって、「これだけのことをしなくてはいけない」「これだけがんばるのが根性というものだ」と観念的に思い、自然体としての自分をそれに従わせようとする。
そうやって、自分の心身をこわしていくのです。
「あの人はこんなにがんばっている。それができない私には根性がないんだ」
「1日、◯◯時間勉強しなければ、いい学校に入れない」
「ノルマを達成するために、もっと残業したり、得意先まわりをして、がんばらなくてはならない」
現代人の頭のなかにはこういう言葉が満ち溢れています。
ときとしてこれは、自分の「事実」を無視した観念的な思考です。
各々の人には、各々の体力があり、能力がある。
皆が、ものすごい体力や能力に恵まれているわけではないのです。
人はどうあがいても、自分の現実に従わざるを得ない。
そうしないと、生命体としての人間が危機に陥るわけです。
確かに、現代の労働環境はひどく、若い人たちは朝早くから深夜まで働かされています。
しかし、先日、そういう過重労働を強いた会社を訴えた社員が勝訴しましたよね。
「赤信号、皆で渡ればこわくない」
こんな劣悪な労働環境に「NO」という人が増えてくれば、企業も考え直さなくてはならないでしょう。
そうでもしないと、この国では貴重な存在の若い人たちは、中高年になったときにバタバタと倒れていくかもしれません。
若い時の無理は、歳をとってから出ますから。
あるいは、その前に「うつ」になってしまうか・・・。
とにかく、「観念」で自分にムチ打つのはやめましょう。
身体の感覚をよ~く感じましょう。
觀念の世界のほうが優勢な人は、自分の本当の身体感覚をとらえるのが下手です。
これは、「うつ」的な人にも「神経症」的な人にも言えるのではないでしょうか。
觀念が優勢というのは、もしかしたら、「欲望」のほうに突き動かされているのかもしれませんね。
「こんなに仕事ができる私」「がんばりがきく私」「職場で好成績をあげられる私」という自己イメージに酔っているのかもしれない。
「もっと収入がほしい」「地位、役職、名誉がほしい」「尊敬されたい」「人に勝ちたい」という欲望にも尽きないものがあります。
それぞれの人にはそれぞれの生き方があっていい。
がんばるのを否定はしないけれど、時としてそれは自然な自分を犠牲にしたがんばりかもしれない。
疲労に疲労を重ね、「うつ」になる危険性をはらんだ生き方かもしれないのです。
「私」は「私」のためにある。
「私」を本当に大事にしてくれるのも「私」です。
他の人や職場にそれを期待してはいけない。
「自然の一部としての私」の声をよく聞いて、あまり無理せず、自分の身の丈に合った欲求を追求して生きていきたいものです。

今だから、無理をするとどんな目にあうか、経験から十分わかっているので、少しは余裕を持ったペースで暮らすこともできます。
しかし、ずっと若かった頃は、身体の調子がどうこうというよりも、「仕事をこなすこと」が一番大事なことと思っていました。
スケジュール通りに仕事をこなす、家事もする、それが当然のことのように思っていて、ハードスケジュールでもこなせる自分が、どこか誇らしくもありました。
誰ですか、家事や仕事をきちんとこなすのは基本中の基本でしょと思っているかた・・・・
しかし、これをよ~く考えてみると、少しおかしいと思いませんか?
だって、なぜ仕事や家事が、自分が生きていくことよりも大事なことになってしまうのでしょう?
生きているのは「自然な人間としての私」。
自然な生命力を持ち、その生命力のなかに各々の体力や気力などがあるわけです。
でも時として人間はその発想を逆転させてしまう。
「思考」によって、「これだけのことをしなくてはいけない」「これだけがんばるのが根性というものだ」と観念的に思い、自然体としての自分をそれに従わせようとする。
そうやって、自分の心身をこわしていくのです。
「あの人はこんなにがんばっている。それができない私には根性がないんだ」
「1日、◯◯時間勉強しなければ、いい学校に入れない」
「ノルマを達成するために、もっと残業したり、得意先まわりをして、がんばらなくてはならない」
現代人の頭のなかにはこういう言葉が満ち溢れています。
ときとしてこれは、自分の「事実」を無視した観念的な思考です。
各々の人には、各々の体力があり、能力がある。
皆が、ものすごい体力や能力に恵まれているわけではないのです。
人はどうあがいても、自分の現実に従わざるを得ない。
そうしないと、生命体としての人間が危機に陥るわけです。
確かに、現代の労働環境はひどく、若い人たちは朝早くから深夜まで働かされています。
しかし、先日、そういう過重労働を強いた会社を訴えた社員が勝訴しましたよね。
「赤信号、皆で渡ればこわくない」
こんな劣悪な労働環境に「NO」という人が増えてくれば、企業も考え直さなくてはならないでしょう。
そうでもしないと、この国では貴重な存在の若い人たちは、中高年になったときにバタバタと倒れていくかもしれません。
若い時の無理は、歳をとってから出ますから。
あるいは、その前に「うつ」になってしまうか・・・。
とにかく、「観念」で自分にムチ打つのはやめましょう。
身体の感覚をよ~く感じましょう。
觀念の世界のほうが優勢な人は、自分の本当の身体感覚をとらえるのが下手です。
これは、「うつ」的な人にも「神経症」的な人にも言えるのではないでしょうか。
觀念が優勢というのは、もしかしたら、「欲望」のほうに突き動かされているのかもしれませんね。
「こんなに仕事ができる私」「がんばりがきく私」「職場で好成績をあげられる私」という自己イメージに酔っているのかもしれない。
「もっと収入がほしい」「地位、役職、名誉がほしい」「尊敬されたい」「人に勝ちたい」という欲望にも尽きないものがあります。
それぞれの人にはそれぞれの生き方があっていい。
がんばるのを否定はしないけれど、時としてそれは自然な自分を犠牲にしたがんばりかもしれない。
疲労に疲労を重ね、「うつ」になる危険性をはらんだ生き方かもしれないのです。
「私」は「私」のためにある。
「私」を本当に大事にしてくれるのも「私」です。
他の人や職場にそれを期待してはいけない。
「自然の一部としての私」の声をよく聞いて、あまり無理せず、自分の身の丈に合った欲求を追求して生きていきたいものです。
