人生の主人公になろう(神経症篇)
禅語に「随所に主となる」(ずいしょにしゅとなる)という言葉があります。
きちんと全文を書くと「随所に主となれば、立処(りっしょ)皆真なり」。
意味は「その場になりきって主体的に行動すれば、いついかなるところでも真実を把握でき、自在の働きができる」というようなことだそうです。
森田博士も時々引用していましたね。
神経症のさなかにいるかたは、恐怖のためか、不安のためか、まったく主体性がなくなってしまう場合があります。
よく、神経症の人は「依存的」と言われますが、その時期はそういう状態なのでしょうね。
たとえば強迫神経症などの場合は、他人を巻き込むことが多いようです。
自分の安心のために家族に代わりに確認してもらったり、自分の強迫行為で家族に多大な負担をかけているのに、そのことから目をそむけたりします。
不安神経症などの場合、自分が信頼出来る人と一緒なら電車に乗れるとか、いろいろなところについていってもらったりします。
対人恐怖の人も、身体症状の人も、自分の症状で頭がいっぱいで、自分ができないところは他人にまかせっぱなし、あるいは放りっぱなしということもあります。
そんなとき、神経症の人たちは、人生の主人公になるのを避けているわけです。
なんとか「脇役」に徹し、嵐が去るまでものかげに隠れていようという感じでしょうか。
自分が今たいへんなんだから、責任の重いことはしたくないのかもしれません。
ちょっと手厳しいことを言えば、こんなときの神経症の人は、本当に「気がきかない」人たちです。
指示待ち人間。
森田博士は「お使い根性」と言いました。
そういう時期、症状が楽になってから、何かをしましょうというのではなく、「主体的に」なってしまえば、むしろ症状が消えていくのです。
「随所に主となる」
これは、大舞台で主人公になるということではないのです。
「随所」ですから。
いついかなるときも・・・です。
たとえば、森田博士は入院している人たちのハタキの音を聞いただけで、その人が良くなっているのか、まだまだなのか見分けたと言います。
リズミカルに一定の間隔で聞こえてくるハタキの音は、「まだまだ」の人。
なぜならその人は、ただの「仕事」として家具をはたいているので、リズムが一定なのです。
ずいぶん良くなった人のハタキの音は一定ではない。
その人は、義務的な「仕事」としてやっているわけではなく、家具の埃を見たり、障子紙を破らないように気をつけたりしているから、音が変化するのです。
これが「随所に主となる」態度なのですね。
たとえ言いつけられた仕事でも、自分が従業員であっても、主体的に仕事をすることはできるのです。
どんなつまらないと思える仕事でも、面白くすることはできるのです。
それは、自分次第。
自分の工夫次第です。
症状が治るまではと目をつぶっていたこと、放り投げていたことに、もう一度主体的に取り組んでみる。
それこそが、症状を忘れる近道。
本当は「主人公」になりたいあなた。
その道は意外に簡単なところにあるようです。
なるべく意識して人生の主人公でいましょうよ、自分の人生なんですから。

きちんと全文を書くと「随所に主となれば、立処(りっしょ)皆真なり」。
意味は「その場になりきって主体的に行動すれば、いついかなるところでも真実を把握でき、自在の働きができる」というようなことだそうです。
森田博士も時々引用していましたね。
神経症のさなかにいるかたは、恐怖のためか、不安のためか、まったく主体性がなくなってしまう場合があります。
よく、神経症の人は「依存的」と言われますが、その時期はそういう状態なのでしょうね。
たとえば強迫神経症などの場合は、他人を巻き込むことが多いようです。
自分の安心のために家族に代わりに確認してもらったり、自分の強迫行為で家族に多大な負担をかけているのに、そのことから目をそむけたりします。
不安神経症などの場合、自分が信頼出来る人と一緒なら電車に乗れるとか、いろいろなところについていってもらったりします。
対人恐怖の人も、身体症状の人も、自分の症状で頭がいっぱいで、自分ができないところは他人にまかせっぱなし、あるいは放りっぱなしということもあります。
そんなとき、神経症の人たちは、人生の主人公になるのを避けているわけです。
なんとか「脇役」に徹し、嵐が去るまでものかげに隠れていようという感じでしょうか。
自分が今たいへんなんだから、責任の重いことはしたくないのかもしれません。
ちょっと手厳しいことを言えば、こんなときの神経症の人は、本当に「気がきかない」人たちです。
指示待ち人間。
森田博士は「お使い根性」と言いました。
そういう時期、症状が楽になってから、何かをしましょうというのではなく、「主体的に」なってしまえば、むしろ症状が消えていくのです。
「随所に主となる」
これは、大舞台で主人公になるということではないのです。
「随所」ですから。
いついかなるときも・・・です。
たとえば、森田博士は入院している人たちのハタキの音を聞いただけで、その人が良くなっているのか、まだまだなのか見分けたと言います。
リズミカルに一定の間隔で聞こえてくるハタキの音は、「まだまだ」の人。
なぜならその人は、ただの「仕事」として家具をはたいているので、リズムが一定なのです。
ずいぶん良くなった人のハタキの音は一定ではない。
その人は、義務的な「仕事」としてやっているわけではなく、家具の埃を見たり、障子紙を破らないように気をつけたりしているから、音が変化するのです。
これが「随所に主となる」態度なのですね。
たとえ言いつけられた仕事でも、自分が従業員であっても、主体的に仕事をすることはできるのです。
どんなつまらないと思える仕事でも、面白くすることはできるのです。
それは、自分次第。
自分の工夫次第です。
症状が治るまではと目をつぶっていたこと、放り投げていたことに、もう一度主体的に取り組んでみる。
それこそが、症状を忘れる近道。
本当は「主人公」になりたいあなた。
その道は意外に簡単なところにあるようです。
なるべく意識して人生の主人公でいましょうよ、自分の人生なんですから。

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