障害受容と「あるがまま」
前回、森田療法のパラドクスのことを書いていて、「障害受容」との関係を考えました。
「障害受容」と森田療法で言う「あるがまま」とは、似たところがあります。
文字や観念で言うと、「障害受容」の一言ですが、具体的によく考えてみると微妙です。
私は、10年ほど前に「突発難聴」になり、片耳の聴力が少し不自由になりました。それに常時、耳鳴りが聞こえています。
ところが現在、それは殆ど苦になりません。
耳鳴りなどは、注意を向ければ聞こえるのですが、たいていは聞こえていても聞こえていない状態。
喫茶店や騒がしい場所では相手の言葉が聞き取れず、「えっ、なに?」を連発していますが、それも苦になりません(相手には多大な迷惑をかけていますが)。
そのようになるまでにわかってきたのは、私の現状の聴力を回復させるのは、現在の医学ではとても難しいのだということ。
様々な方法を試した後のある時点で、限界を意識しました。
そして「もっと聞こえなくなったら補聴器があるじゃないか」という心境になりました。
徐々に耳のことが苦にならなくなったのです。
もちろん最初から苦にならなかったわけではなく、当初は入院もしてステロイドでずいぶんなレベルまで回復し、その後はそれをなんとかもとの聴力まで回復しようと、いろいろな代替療法を試したり、サプリを試したりもしました。
ある意味、これは森田療法の、症状はそのままにすることと似ているのかなと思います。
つまり、この耳の障害を取り去るのは不可能と知ったこと。
(これは、神経症の症状は自分の力でコントロール不能ということを知ること)
そして耳が悪いことに対する具体的な対策を考える。つまりレストランでは静かそうな席を選んだり、補聴器を着けるということも視野に入れる。
(症状はあっても、そのうえでできる具体的・現実的なことを考える)
聴力の回復は現実的には難しいのに、そこに力を注ぐのが人生の目標のようになってしまうことが多いかもしれません。
しかし、不可能なことにエネルギーを注ぐよりは、この障害(症状)がありながら、何ができるかを考えることのほうが実りがあるかもしれません。
障害(症状)がありながら、今何ができるかを現実的に考えていくなかで、障害(症状)は、あってもなくてもそれほど邪魔にならなくなってくる。
ちょうど、私の耳鳴りがあっても聞こえないようなものです。
ただ慢性の病気、進行性の病気、痛みがある場合は、もっと難しいことになるとは思います。
もうひとつ注意したいのは「障害受容」というと、神経質性格のかたは必ず「受容しよう」という姿勢になります。
そうではなく、この場合は「しかたなく、そのまま生きるしかない」というようなニュアンスに近いかと思います。
大きく考えると、人間の人生なんてそんなものかもしれませんよ。

「障害受容」と森田療法で言う「あるがまま」とは、似たところがあります。
文字や観念で言うと、「障害受容」の一言ですが、具体的によく考えてみると微妙です。
私は、10年ほど前に「突発難聴」になり、片耳の聴力が少し不自由になりました。それに常時、耳鳴りが聞こえています。
ところが現在、それは殆ど苦になりません。
耳鳴りなどは、注意を向ければ聞こえるのですが、たいていは聞こえていても聞こえていない状態。
喫茶店や騒がしい場所では相手の言葉が聞き取れず、「えっ、なに?」を連発していますが、それも苦になりません(相手には多大な迷惑をかけていますが)。
そのようになるまでにわかってきたのは、私の現状の聴力を回復させるのは、現在の医学ではとても難しいのだということ。
様々な方法を試した後のある時点で、限界を意識しました。
そして「もっと聞こえなくなったら補聴器があるじゃないか」という心境になりました。
徐々に耳のことが苦にならなくなったのです。
もちろん最初から苦にならなかったわけではなく、当初は入院もしてステロイドでずいぶんなレベルまで回復し、その後はそれをなんとかもとの聴力まで回復しようと、いろいろな代替療法を試したり、サプリを試したりもしました。
ある意味、これは森田療法の、症状はそのままにすることと似ているのかなと思います。
つまり、この耳の障害を取り去るのは不可能と知ったこと。
(これは、神経症の症状は自分の力でコントロール不能ということを知ること)
そして耳が悪いことに対する具体的な対策を考える。つまりレストランでは静かそうな席を選んだり、補聴器を着けるということも視野に入れる。
(症状はあっても、そのうえでできる具体的・現実的なことを考える)
聴力の回復は現実的には難しいのに、そこに力を注ぐのが人生の目標のようになってしまうことが多いかもしれません。
しかし、不可能なことにエネルギーを注ぐよりは、この障害(症状)がありながら、何ができるかを考えることのほうが実りがあるかもしれません。
障害(症状)がありながら、今何ができるかを現実的に考えていくなかで、障害(症状)は、あってもなくてもそれほど邪魔にならなくなってくる。
ちょうど、私の耳鳴りがあっても聞こえないようなものです。
ただ慢性の病気、進行性の病気、痛みがある場合は、もっと難しいことになるとは思います。
もうひとつ注意したいのは「障害受容」というと、神経質性格のかたは必ず「受容しよう」という姿勢になります。
そうではなく、この場合は「しかたなく、そのまま生きるしかない」というようなニュアンスに近いかと思います。
大きく考えると、人間の人生なんてそんなものかもしれませんよ。
