慢性病と森田療法
前回のブログで、慢性の病気、進行性の病気、痛みのある症状などのことに少し言及しました。
これは、前回書いた「障害」と対処が違うのは当然です。
「障害」は、どこか諦める部分が出てくる。
コントロールできないところは相手にせず、コントロールできるところに心を向ける。
つまり環境や、道具や、そういう部分で補うという方向です。
しかし、病気はそのまま諦めることはできない。
実は私には慢性の病気もあります。
(セラピストはあまり自分のことを書いてはいけないのですが、例として)
心配するほど重い病気ではないのです。ただ、物心ついたときから、お腹が弱い。
すぐお腹をこわすので「食べられないものリスト」は膨大です。
食べ物のせいだけではなく、疲れても、睡眠不足でも、寒い思いをしても、すぐお腹にきます。
若いころなどは、一ヶ月に一回ぐらいは自家中毒を起こし、発熱して寝込んでいました。
これでも丈夫になったほうです。
ですから、体力のなさもあり、何かする時にすぐ「大丈夫かしら」と考えてしまって、あまり行動の幅を広げられない。
それを治すために、実に様々なものを試しました。
薬、サプリ、幾多の代替療法。身体を温める方法やらヨガやらウォーキングやら。
結局、今に至るまで治っていないのですが、では諦められるかというと、そういうわけにはいかない。
きっとまだまだ治すための試行錯誤をするでしょう。
慢性病や進行性の病気を持っている場合、もちろん治す努力は必要です。
でも、もっと大切なことは、「病気があるけれど、できることは何だろう」と考える事。
私は旅行が好きなので、時々海外旅行に行きます。
しかし、ほとんどの場合、水や食べ物にあたります。
ひどい時には、パリで食あたりのためにホテルに寝ていて、ノートルダムもエッフェル塔も見られなかったことがあります。
それでも旅行には行きます。
どうしても行きたいから。
エジプトに行ったときは、パンとミネラルウォーターだけで過ごすつもりで行きました。
それでも最後の日にダウン。
けれどその苦しさより思い切って出かけて壮大な風景を見られたことが一生の宝になりました。
インドにも行きたいけれど、これは確実に死ぬと思うので諦めています。
病気は苦しい。
けれど病気を治すことだけが日常になってしまったら、それは神経症と同じ状態です。
そんな状態でも、今自分に何ができるかを考える。
何がしたいのかを考える。
森田正馬自身も身体が弱い人でした。
しかし病気を持ちながら、養生しながら、できることをやりました。
何しろ、病気のとき布団に寝ながら集団療法をやった人です。
それが森田療法で考える「生きる」ということなのだと思います。
その考え方は、現在「生きがい療法」という癌の治療に応用されています。
「病気」によって、私たちは自分の限界を意識します。
体力の限界、できることの限界を意識するだけではなく、癌などの場合、私たちは自分の時間の限界を意識します。
そんなふうに限界を意識したときこそ、自分の生の大切さが理解でき、生きている時間が輝き始めるのかもしれません。

これは、前回書いた「障害」と対処が違うのは当然です。
「障害」は、どこか諦める部分が出てくる。
コントロールできないところは相手にせず、コントロールできるところに心を向ける。
つまり環境や、道具や、そういう部分で補うという方向です。
しかし、病気はそのまま諦めることはできない。
実は私には慢性の病気もあります。
(セラピストはあまり自分のことを書いてはいけないのですが、例として)
心配するほど重い病気ではないのです。ただ、物心ついたときから、お腹が弱い。
すぐお腹をこわすので「食べられないものリスト」は膨大です。
食べ物のせいだけではなく、疲れても、睡眠不足でも、寒い思いをしても、すぐお腹にきます。
若いころなどは、一ヶ月に一回ぐらいは自家中毒を起こし、発熱して寝込んでいました。
これでも丈夫になったほうです。
ですから、体力のなさもあり、何かする時にすぐ「大丈夫かしら」と考えてしまって、あまり行動の幅を広げられない。
それを治すために、実に様々なものを試しました。
薬、サプリ、幾多の代替療法。身体を温める方法やらヨガやらウォーキングやら。
結局、今に至るまで治っていないのですが、では諦められるかというと、そういうわけにはいかない。
きっとまだまだ治すための試行錯誤をするでしょう。
慢性病や進行性の病気を持っている場合、もちろん治す努力は必要です。
でも、もっと大切なことは、「病気があるけれど、できることは何だろう」と考える事。
私は旅行が好きなので、時々海外旅行に行きます。
しかし、ほとんどの場合、水や食べ物にあたります。
ひどい時には、パリで食あたりのためにホテルに寝ていて、ノートルダムもエッフェル塔も見られなかったことがあります。
それでも旅行には行きます。
どうしても行きたいから。
エジプトに行ったときは、パンとミネラルウォーターだけで過ごすつもりで行きました。
それでも最後の日にダウン。
けれどその苦しさより思い切って出かけて壮大な風景を見られたことが一生の宝になりました。
インドにも行きたいけれど、これは確実に死ぬと思うので諦めています。
病気は苦しい。
けれど病気を治すことだけが日常になってしまったら、それは神経症と同じ状態です。
そんな状態でも、今自分に何ができるかを考える。
何がしたいのかを考える。
森田正馬自身も身体が弱い人でした。
しかし病気を持ちながら、養生しながら、できることをやりました。
何しろ、病気のとき布団に寝ながら集団療法をやった人です。
それが森田療法で考える「生きる」ということなのだと思います。
その考え方は、現在「生きがい療法」という癌の治療に応用されています。
「病気」によって、私たちは自分の限界を意識します。
体力の限界、できることの限界を意識するだけではなく、癌などの場合、私たちは自分の時間の限界を意識します。
そんなふうに限界を意識したときこそ、自分の生の大切さが理解でき、生きている時間が輝き始めるのかもしれません。

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