サッカーを見ながら集団指向について考える
ワールドカップです。今日は負けてしまったみたいですね。
私は別にサッカーについて詳しいわけでもなく、それほど好きなわけでもなく、日本代表の試合を時々見るくらいの人間ですが、このビルを毎日目の前にしていると、いやでもワールドカップを意識せざるを得ない。

サッカーミュジアムのビル全体に日本代表の図柄が・・・

おまけに私のセラピールームは開放型のマンションのなかなので、ドアを開けるとザッケローニの大きな顔が・・・う~ん。
さて、普通のブログはここで終わると思うのですが、サッカーのことを知りもしないのに、余計なことをあーだこーだ言いたがるのが、私の悪癖です。
以前は、日本のチームの試合を見ていると、ゴール前「ここでシュート!」というときに、仲間にパスしちゃうというシーンが時々ありました。
(今はもうそんなことはないでしょうが)
「皆でやろうよ、俺だけじゃなく・・・」みたいな感じだったのでしょうか。
ところが海外のチームには、「えっ、ここで?!」という時に、仲間にまわさず自分でシュートしてしまう場面がある。
「ヒーローは俺!!」という感じです。
面白いですね。
鎖国の長かった島国農耕民族の日本人は、所属集団に調和することが何より大事。
この傾向はDNAに染み付いているのかもしれません。
自分だけ突出してはいけない。皆に変と思われることをしてはいけない。
それをするとなにか恐ろしいことが起こる・・・という潜在的な恐怖。
「出る杭は打たれる」恐怖ですね。
ちなみに英語圏にこういう言葉があるかどうか検索してみたら、以下のことわざが出てきました。
A tall tree catches much wind.
でも「打たれる」という表現よりマイルド。
「出る杭は打たれる」だと、少し頭角を現すと叩き潰されるというニュアンスが感じられます。
この日本的風土の葛藤をもろに体現しているのが対人恐怖の人かもしれません。
本当はもっと自分を表現したい。目立ちたい。
しかしそれをすると、他人からは好かれない(だろう)、失敗した時にサポートされない(だろう)。
自分を表現したい、しかし他人からも好かれたいという二つの欲求の葛藤がそのベースにあるような気がします。
確かに、突出したときに嫉妬されるということは、どの世界でもあることです。
しかし日本の場合、「自分は言いたいことも我慢しているのに、オマエは図々しくもここで発言するのか! 調和を乱して!」みたいな雰囲気が感じ取れます。
黙っているのが無難、目立たなければ安全。そういう社会です。
この集団指向は、利点もあるのかもしれませんが、日本の歴史や社会に様々な弊害を生み出してもいます。
「皆がやっていることを、同じようにやればいい」という自分自身の個としての考えのなさ、倫理観の曖昧さも出てくるでしょう。
さて、では対人恐怖の人はどうしたらいいのか?
私はよく「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」と言います。
誰かが一旦突出して、皆が認めてしまうとOKというところがあります。
(これも集団指向なのですけれどね。特に外国から認められたりしたら、もう太鼓判・・・・笑)
だからまずは表現しましょう。
そのためには、皆に好かれる工夫をするよりも実力をつける工夫をすればいい。
対人恐怖的な人は慎重ですから、多分「やりすぎる」ことはしないでしょう。
実力をつけると同時に「自立する」ということも大事です。
私たちは誰もが「社会」のなかに立つ一本の木。
吹いてくる風は自分の身で受けるしかない。
その自覚と覚悟ができさえすればいいのです。
あぁ、サッカーから遠く離れてしまいました。
私は別にサッカーについて詳しいわけでもなく、それほど好きなわけでもなく、日本代表の試合を時々見るくらいの人間ですが、このビルを毎日目の前にしていると、いやでもワールドカップを意識せざるを得ない。

サッカーミュジアムのビル全体に日本代表の図柄が・・・

おまけに私のセラピールームは開放型のマンションのなかなので、ドアを開けるとザッケローニの大きな顔が・・・う~ん。
さて、普通のブログはここで終わると思うのですが、サッカーのことを知りもしないのに、余計なことをあーだこーだ言いたがるのが、私の悪癖です。
以前は、日本のチームの試合を見ていると、ゴール前「ここでシュート!」というときに、仲間にパスしちゃうというシーンが時々ありました。
(今はもうそんなことはないでしょうが)
「皆でやろうよ、俺だけじゃなく・・・」みたいな感じだったのでしょうか。
ところが海外のチームには、「えっ、ここで?!」という時に、仲間にまわさず自分でシュートしてしまう場面がある。
「ヒーローは俺!!」という感じです。
面白いですね。
鎖国の長かった島国農耕民族の日本人は、所属集団に調和することが何より大事。
この傾向はDNAに染み付いているのかもしれません。
自分だけ突出してはいけない。皆に変と思われることをしてはいけない。
それをするとなにか恐ろしいことが起こる・・・という潜在的な恐怖。
「出る杭は打たれる」恐怖ですね。
ちなみに英語圏にこういう言葉があるかどうか検索してみたら、以下のことわざが出てきました。
A tall tree catches much wind.
でも「打たれる」という表現よりマイルド。
「出る杭は打たれる」だと、少し頭角を現すと叩き潰されるというニュアンスが感じられます。
この日本的風土の葛藤をもろに体現しているのが対人恐怖の人かもしれません。
本当はもっと自分を表現したい。目立ちたい。
しかしそれをすると、他人からは好かれない(だろう)、失敗した時にサポートされない(だろう)。
自分を表現したい、しかし他人からも好かれたいという二つの欲求の葛藤がそのベースにあるような気がします。
確かに、突出したときに嫉妬されるということは、どの世界でもあることです。
しかし日本の場合、「自分は言いたいことも我慢しているのに、オマエは図々しくもここで発言するのか! 調和を乱して!」みたいな雰囲気が感じ取れます。
黙っているのが無難、目立たなければ安全。そういう社会です。
この集団指向は、利点もあるのかもしれませんが、日本の歴史や社会に様々な弊害を生み出してもいます。
「皆がやっていることを、同じようにやればいい」という自分自身の個としての考えのなさ、倫理観の曖昧さも出てくるでしょう。
さて、では対人恐怖の人はどうしたらいいのか?
私はよく「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」と言います。
誰かが一旦突出して、皆が認めてしまうとOKというところがあります。
(これも集団指向なのですけれどね。特に外国から認められたりしたら、もう太鼓判・・・・笑)
だからまずは表現しましょう。
そのためには、皆に好かれる工夫をするよりも実力をつける工夫をすればいい。
対人恐怖的な人は慎重ですから、多分「やりすぎる」ことはしないでしょう。
実力をつけると同時に「自立する」ということも大事です。
私たちは誰もが「社会」のなかに立つ一本の木。
吹いてくる風は自分の身で受けるしかない。
その自覚と覚悟ができさえすればいいのです。
あぁ、サッカーから遠く離れてしまいました。
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