面倒臭さの心理
「面倒臭い」という言葉、よく聞きます。
「やろうとしたけれど、面倒臭くて・・・」と皆さん、よく言われます。
私にも「面倒臭い」という言葉には変換しないけれど、やらないで放ってあることがいくつもあります。
そういうときの心理を深く細かく考えてみると、この「面倒臭さ」を少し和らげるコツみたいなものが、見えてくるようです。
たとえば、部屋を片付けたい。
いろいろな片付け本を買ってきて、読んではみたものの、手をつけるというところまで至らない。
「いい方法だな」と思いながらそのまま。
そんなときの心理を考えると、過度なシュミレーションが関係しているかなと思うことがあります。
頭のなかでのシュミレーションです。
たとえば
「あそこの隅を片付けるには、まず掃除機を出して、あのまわりの埃を吸い取ってから、手をつける。いや、手をつける前に雑巾がけもしなくては。それから要る書類と要らない書類を分けるから、ゴミ箱と収納するファイルの用意をして・・・。きっと片付けたらまた埃が出るから、もう一度掃除機をかけて・・・で、ゴミはまとめていつ出せばいいんだろう? それから新しくできたファイルを置く場所はどこにしたらいいんだろう?・・・・」
無限に続くシュミレーション。
そういえば、森田正馬博士に師事して後に教育者となり、子どもたちを「一心寮」というところに合宿させて森田的教育をしていた和田重正氏が、ずっと以前、こんなことを書いていました。
「この頃の子に薪割りをさせると、薪に向かい、斧を手にしたまま、ずっとじっとしている。いつまでも、薪を割るという動作に入らない」
わかるような気がします。
頭のなかで考えているんですね。薪を割るにはどうしたらいいのか。
こんなふうに自分のやることを前もってシュミレーションしていると、実際の生活はものすごく能率の悪いものになります。
それだけでなく、どうも強迫神経症のかたがたは、このシュミレーションが日常になっているような感じがあります。
「今これをやっておかないと、後でこういう状況になったときに、また不安が湧いてくるに違いない、だから今とりあえずこの強迫行為をやっておこう」というのが、結構多いパターンのように思います。
とにかくこういう頭のなかのシュミレーションが極端になってくると、なぜか(不思議ですね)とても疲れてきます。
空想なのに、まるでもうそれをやったかのように疲労してくる。
それが「面倒臭さ」につながってくるようです。
何もしていないのにヘトヘトになるということが、実際起こるのです。
脳の疲労ということでしょうか。
ここらへんで、「では、どうすればいいの?」という声が聞こえてきそう。
森田的には簡単なこと。
シュミレーションはイコール現実ではない。
面倒な気持ちはそのまま、まず手を出し、いやになったらやめる。
そんなことか! だから森田療法は単純でイヤだ。 そう思う人もいるでしょう。
それでは、面倒な気持ちを分析しますか? 表でも書いて思考を変えますか?
私はそういうこと自体が、イヤなものを楽にしたいという不可能な欲求を強めているような気がします。
こういう過度なシュミレーションをする人たちは完全主義者が多いようですし、やっていることとは反対に、実は能率とか損得を考えている人たちなのです。
失敗したくない、無駄なことはしたくない。
できれば楽にやりたい。
そういう指向が、無駄な時間を生み出すことにつながってくるのは皮肉なことですが。

「やろうとしたけれど、面倒臭くて・・・」と皆さん、よく言われます。
私にも「面倒臭い」という言葉には変換しないけれど、やらないで放ってあることがいくつもあります。
そういうときの心理を深く細かく考えてみると、この「面倒臭さ」を少し和らげるコツみたいなものが、見えてくるようです。
たとえば、部屋を片付けたい。
いろいろな片付け本を買ってきて、読んではみたものの、手をつけるというところまで至らない。
「いい方法だな」と思いながらそのまま。
そんなときの心理を考えると、過度なシュミレーションが関係しているかなと思うことがあります。
頭のなかでのシュミレーションです。
たとえば
「あそこの隅を片付けるには、まず掃除機を出して、あのまわりの埃を吸い取ってから、手をつける。いや、手をつける前に雑巾がけもしなくては。それから要る書類と要らない書類を分けるから、ゴミ箱と収納するファイルの用意をして・・・。きっと片付けたらまた埃が出るから、もう一度掃除機をかけて・・・で、ゴミはまとめていつ出せばいいんだろう? それから新しくできたファイルを置く場所はどこにしたらいいんだろう?・・・・」
無限に続くシュミレーション。
そういえば、森田正馬博士に師事して後に教育者となり、子どもたちを「一心寮」というところに合宿させて森田的教育をしていた和田重正氏が、ずっと以前、こんなことを書いていました。
「この頃の子に薪割りをさせると、薪に向かい、斧を手にしたまま、ずっとじっとしている。いつまでも、薪を割るという動作に入らない」
わかるような気がします。
頭のなかで考えているんですね。薪を割るにはどうしたらいいのか。
こんなふうに自分のやることを前もってシュミレーションしていると、実際の生活はものすごく能率の悪いものになります。
それだけでなく、どうも強迫神経症のかたがたは、このシュミレーションが日常になっているような感じがあります。
「今これをやっておかないと、後でこういう状況になったときに、また不安が湧いてくるに違いない、だから今とりあえずこの強迫行為をやっておこう」というのが、結構多いパターンのように思います。
とにかくこういう頭のなかのシュミレーションが極端になってくると、なぜか(不思議ですね)とても疲れてきます。
空想なのに、まるでもうそれをやったかのように疲労してくる。
それが「面倒臭さ」につながってくるようです。
何もしていないのにヘトヘトになるということが、実際起こるのです。
脳の疲労ということでしょうか。
ここらへんで、「では、どうすればいいの?」という声が聞こえてきそう。
森田的には簡単なこと。
シュミレーションはイコール現実ではない。
面倒な気持ちはそのまま、まず手を出し、いやになったらやめる。
そんなことか! だから森田療法は単純でイヤだ。 そう思う人もいるでしょう。
それでは、面倒な気持ちを分析しますか? 表でも書いて思考を変えますか?
私はそういうこと自体が、イヤなものを楽にしたいという不可能な欲求を強めているような気がします。
こういう過度なシュミレーションをする人たちは完全主義者が多いようですし、やっていることとは反対に、実は能率とか損得を考えている人たちなのです。
失敗したくない、無駄なことはしたくない。
できれば楽にやりたい。
そういう指向が、無駄な時間を生み出すことにつながってくるのは皮肉なことですが。

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