「反省」はいらない?
昨日、コンビニに行きました。
品物を買い終わってレジで、一瞬、店員さんと見合う感じでなにか気まずい沈黙。
「あれ?」と思い、「あ、お金出していなかった」と気づきました。
「わぁ、ごめんなさい」と言い、お金を払って店を出ましたが、結構恥ずかしかった。
誰にでもこういうことは時々あると思います。
「恥ずかしい!」とか「しまった!」という感覚。
そのとき大抵の人が考える事。
「もう、絶対にこんな恥ずかしい思いをしないようにしよう」
そうして頭で反省を始めるのです。
「ボ―ッとしていないで、もっと注意しよう」とか「レジに行く時にもうお金準備しておこう」とか「暑さのせいだったのかもしれない」とか「ボケの始まりか?」とか・・・
あるい他に責任転嫁したり。
「あの店員さんは、『〇〇円です』と声に出して言ってくれなかったじゃないか、だから自分はうっかりしてしまった」など。
これが通常の感覚なのかもしれませんが、執着性の強い方はこの「恥ずかしさ」や「しまった」を避けることにこだわり始めて、結局それを「悩み」にまで育てあげることになるのです。
人前で発言した。
ところが自分にとって恥ずかしいと思えることがあった。
それで「反省」が始まる。
今度からああしよう、こうしよう。
発言のタイミングを考えたり、内容を吟味したり、声の出し方を考えたり・・・そうしているうちに、実際の場になるとこわくなってひとことも発言できなくなる。
さて、こういうふうに知性での反省は、結局は役に立たないことが多いものです。
そして実は、何かまずいことが起こったとき、その後の対処は心が自然にしてくれるのです。
そこのところを森田博士はこんなふうに言っています。
「皿を割って、『ああ、惜しいことをした』というのは、自然の心で、この心はそのまま私のいわゆる『あるがままの心』で、自然に時とともに流れ去って、しかも再び同様の失敗を起こさないが 『皿を割ってはならぬ。しくじりを繰り返さないように』 と考えることは、ことさら自分の心をため直し、型にはめようとする心で、拙著ではこれ『思想の矛盾』として説明してあります。すなわちそう思えば思うほど反対になり、注意しようとすればかえってできないで、いわゆる『気がきいて間が抜ける』ようになり、失敗しないようにと思えば、かえって失敗を重ねるというふうになるのであります」
(全集四巻、若干字句を整えました)
不安の強い方は、「では、同様の失敗を起こさないと、どう保証してくれるのか」と考えるかもしれません。
もし何か起こったときにしっかりと「しまった!」と感じていれば、何も知性で考えなくても、同じような場面になったとき、以前の経験がふっと意識に湧き上がってくる。
そして、ごく自然に適切な行動ができるようになる・・・と森田博士は言っています。
つまり自分の心身の自然にまかせるのです。
知性で何か対策しようとすると、かえって注意が失敗に向かい、行動は自然さを失い、また失敗したという感覚が加わって、悪循環になります。
精神交互作用ですね。
そこに注意を向け続けていると、ただ失敗したという思いが積み重なるだけです。
何か失敗したとき、次にくるのは「反省」ではなく、「では(現実的に)どうするか」です。
皿を割った・・・では、かけらを拾って、他の人が怪我しないようにする。
お金を出し忘れた・・・では、急いでお財布からお金を出せばいい。
言い間違って相手に意味が通じなかった・・・では、言い直すか、あるいはもう話題が他に行っているなら、それを聞いていればいい。
「しまった!」という感覚、「恥ずかしい」という感覚。
いやだけれど、それは感じたまま。
ただそれだけでいいのです。

品物を買い終わってレジで、一瞬、店員さんと見合う感じでなにか気まずい沈黙。
「あれ?」と思い、「あ、お金出していなかった」と気づきました。
「わぁ、ごめんなさい」と言い、お金を払って店を出ましたが、結構恥ずかしかった。
誰にでもこういうことは時々あると思います。
「恥ずかしい!」とか「しまった!」という感覚。
そのとき大抵の人が考える事。
「もう、絶対にこんな恥ずかしい思いをしないようにしよう」
そうして頭で反省を始めるのです。
「ボ―ッとしていないで、もっと注意しよう」とか「レジに行く時にもうお金準備しておこう」とか「暑さのせいだったのかもしれない」とか「ボケの始まりか?」とか・・・
あるい他に責任転嫁したり。
「あの店員さんは、『〇〇円です』と声に出して言ってくれなかったじゃないか、だから自分はうっかりしてしまった」など。
これが通常の感覚なのかもしれませんが、執着性の強い方はこの「恥ずかしさ」や「しまった」を避けることにこだわり始めて、結局それを「悩み」にまで育てあげることになるのです。
人前で発言した。
ところが自分にとって恥ずかしいと思えることがあった。
それで「反省」が始まる。
今度からああしよう、こうしよう。
発言のタイミングを考えたり、内容を吟味したり、声の出し方を考えたり・・・そうしているうちに、実際の場になるとこわくなってひとことも発言できなくなる。
さて、こういうふうに知性での反省は、結局は役に立たないことが多いものです。
そして実は、何かまずいことが起こったとき、その後の対処は心が自然にしてくれるのです。
そこのところを森田博士はこんなふうに言っています。
「皿を割って、『ああ、惜しいことをした』というのは、自然の心で、この心はそのまま私のいわゆる『あるがままの心』で、自然に時とともに流れ去って、しかも再び同様の失敗を起こさないが 『皿を割ってはならぬ。しくじりを繰り返さないように』 と考えることは、ことさら自分の心をため直し、型にはめようとする心で、拙著ではこれ『思想の矛盾』として説明してあります。すなわちそう思えば思うほど反対になり、注意しようとすればかえってできないで、いわゆる『気がきいて間が抜ける』ようになり、失敗しないようにと思えば、かえって失敗を重ねるというふうになるのであります」
(全集四巻、若干字句を整えました)
不安の強い方は、「では、同様の失敗を起こさないと、どう保証してくれるのか」と考えるかもしれません。
もし何か起こったときにしっかりと「しまった!」と感じていれば、何も知性で考えなくても、同じような場面になったとき、以前の経験がふっと意識に湧き上がってくる。
そして、ごく自然に適切な行動ができるようになる・・・と森田博士は言っています。
つまり自分の心身の自然にまかせるのです。
知性で何か対策しようとすると、かえって注意が失敗に向かい、行動は自然さを失い、また失敗したという感覚が加わって、悪循環になります。
精神交互作用ですね。
そこに注意を向け続けていると、ただ失敗したという思いが積み重なるだけです。
何か失敗したとき、次にくるのは「反省」ではなく、「では(現実的に)どうするか」です。
皿を割った・・・では、かけらを拾って、他の人が怪我しないようにする。
お金を出し忘れた・・・では、急いでお財布からお金を出せばいい。
言い間違って相手に意味が通じなかった・・・では、言い直すか、あるいはもう話題が他に行っているなら、それを聞いていればいい。
「しまった!」という感覚、「恥ずかしい」という感覚。
いやだけれど、それは感じたまま。
ただそれだけでいいのです。

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