「仕事に貴賎はない」 その1
前回のブログで、森田博士の「仕事に貴賎をつけない」という言葉を紹介しました。
あれから、この言葉について、調べたり、考えたりしてみました。
この言葉のもとになっているのは、集団療法「形外会」第59回の記録だと思います。
この会合で、まずのっけから驚かされるのは森田正馬の第一声のところに、(眼鏡を小型のペンチで修理しながら)というト書きがつくこと。
眼鏡を修理しながら、グループの自己紹介を聞いていたんですね!
本当に形にとらわれない人です。
そして眼鏡屋で修理の仕方を見ていて覚えて眼鏡が修理できるようになった話、下駄屋で鼻緒のすげ方を見ていて、自分でできるようになった話、女中の下駄の鼻緒をすげてやった話へと続いていきます。
その森田博士の行動を見て、人は軽蔑したり感心したりするけれど・・・と、下記の言葉に続きます。
「僕の感じからすれば、まだ十分用に立つ下駄を捨てるのがもったいないというだけのことである。物そのものになりきるのである。そのする事が下等であるとかいう意味は少しもない。土いじりをしたり、「知恵の駒」の遊び事をしたりする心持と同様である。女中のことをしてやる事を下品と思うような貴族根性は、僕などにはよほど劣等の思想のように感じられる。また下駄が汚いかと言えば、我々は医者として、常に糞小便をいじっているのである。つまり我々には、上品下品・ケチとか・おうようとかいうような思想の区別を超越しているのである」
美しくない言葉が出てきてごめんなさい。
森田博士の言葉には、耳にやさしい、漠然と良いことを言っている標語のようなものは、あまりないのですよね。
森田博士は、家庭的入院療法のなかで、炊事や掃除、土いじりなど、家庭生活に関わるものには何でも手を出し、なおかつ上手に適切にこなしたというのは有名です。
小さいころ、姉に家事や畑仕事を仕込まれたという育ち方も、影響しているのでしょう。
このような行動は、森田がフェミニストだったからというわけでもなく、人権に敏感だったから平等を希求して行ったというわけでもありません。
つまり森田博士の行動は何か大きな「主義」や「ポリシー」が先にあって、それにのっとって行うというものではないのです。
最初に「もったいない」「面白い」「汚い」などという「純なこころ」があり、それから行動すると、気持ちもそのなかに入り、ものそのものになっていくのでしょう。
たとえば、こんな話も五巻に載っています。
(また汚い話でごめんなさい)庭に犬の糞がある。誰かが片付けなくてはならないが、妻にやらせたら不器用だから、もっと汚くなる可能性がある。女中はまだ年端もいかず、そんなことをやらせるのは可哀想だ、だから森田自身が片付ける。
そんな話です。
つまり、思考のなかで「自分がすべき仕事ではない」とか「誰かがすべき」とか、そういうことを考えて実行するのではない。
そのときに、ものそのものになって、感じ、考え、判断したことによって行動しているのです。
つまりそこには上等、下等というような世間的な価値判断は入り込まない。
(どうもあまり損得勘定も入っていないような気もします)
だから、森田博士の行動は、あんなに自由だったわけです。
前回「仕事に貴賎をつけない」と書きましたが、これは多分「仕事に貴賎はない」としたほうが正解なのかもしれません。
厳密に言えば、「仕事と遊びの区別もない」のです。
この言葉を「家事にもなんでも手を出し取り組みましょう」という標語的なものとして解釈はしないでくださいね。
けれどこの「仕事に貴賎はない」という実践は、神経質症状克服につながる大きなヒントが含まれているのですね。
それは次回にまた。

北海道の秋
あれから、この言葉について、調べたり、考えたりしてみました。
この言葉のもとになっているのは、集団療法「形外会」第59回の記録だと思います。
この会合で、まずのっけから驚かされるのは森田正馬の第一声のところに、(眼鏡を小型のペンチで修理しながら)というト書きがつくこと。
眼鏡を修理しながら、グループの自己紹介を聞いていたんですね!
本当に形にとらわれない人です。
そして眼鏡屋で修理の仕方を見ていて覚えて眼鏡が修理できるようになった話、下駄屋で鼻緒のすげ方を見ていて、自分でできるようになった話、女中の下駄の鼻緒をすげてやった話へと続いていきます。
その森田博士の行動を見て、人は軽蔑したり感心したりするけれど・・・と、下記の言葉に続きます。
「僕の感じからすれば、まだ十分用に立つ下駄を捨てるのがもったいないというだけのことである。物そのものになりきるのである。そのする事が下等であるとかいう意味は少しもない。土いじりをしたり、「知恵の駒」の遊び事をしたりする心持と同様である。女中のことをしてやる事を下品と思うような貴族根性は、僕などにはよほど劣等の思想のように感じられる。また下駄が汚いかと言えば、我々は医者として、常に糞小便をいじっているのである。つまり我々には、上品下品・ケチとか・おうようとかいうような思想の区別を超越しているのである」
美しくない言葉が出てきてごめんなさい。
森田博士の言葉には、耳にやさしい、漠然と良いことを言っている標語のようなものは、あまりないのですよね。
森田博士は、家庭的入院療法のなかで、炊事や掃除、土いじりなど、家庭生活に関わるものには何でも手を出し、なおかつ上手に適切にこなしたというのは有名です。
小さいころ、姉に家事や畑仕事を仕込まれたという育ち方も、影響しているのでしょう。
このような行動は、森田がフェミニストだったからというわけでもなく、人権に敏感だったから平等を希求して行ったというわけでもありません。
つまり森田博士の行動は何か大きな「主義」や「ポリシー」が先にあって、それにのっとって行うというものではないのです。
最初に「もったいない」「面白い」「汚い」などという「純なこころ」があり、それから行動すると、気持ちもそのなかに入り、ものそのものになっていくのでしょう。
たとえば、こんな話も五巻に載っています。
(また汚い話でごめんなさい)庭に犬の糞がある。誰かが片付けなくてはならないが、妻にやらせたら不器用だから、もっと汚くなる可能性がある。女中はまだ年端もいかず、そんなことをやらせるのは可哀想だ、だから森田自身が片付ける。
そんな話です。
つまり、思考のなかで「自分がすべき仕事ではない」とか「誰かがすべき」とか、そういうことを考えて実行するのではない。
そのときに、ものそのものになって、感じ、考え、判断したことによって行動しているのです。
つまりそこには上等、下等というような世間的な価値判断は入り込まない。
(どうもあまり損得勘定も入っていないような気もします)
だから、森田博士の行動は、あんなに自由だったわけです。
前回「仕事に貴賎をつけない」と書きましたが、これは多分「仕事に貴賎はない」としたほうが正解なのかもしれません。
厳密に言えば、「仕事と遊びの区別もない」のです。
この言葉を「家事にもなんでも手を出し取り組みましょう」という標語的なものとして解釈はしないでくださいね。
けれどこの「仕事に貴賎はない」という実践は、神経質症状克服につながる大きなヒントが含まれているのですね。
それは次回にまた。

北海道の秋
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