仕事に貴賎はない その2
さて、森田博士はこんなことを言っています。
「私の仕事の大部分は、いつも主観的には遊びであります」
またこんなことも言っています。
「読書も仕事も、知りたいため、興味のため、あるいは必要のため、捨てておけないためにするのであって、修養のためにするのではない。いま畳の上に煙草の吸殻が落ちていても、畳が焦げてもよいという風であったり、誰かがそのうち取るだろうという風に考えれば、そこに決して、仕事のあるはずはない。この事をよく理解しなければ、仕事も読書も苦しくてたまらないのである」
つまり、「仕事」を「義務」と考えれば、それは苦痛でたまらないことですが、目の前のことに対して必要があって、あるいは主体的になってそれに手を出せば、それは義務でも苦痛でもなくなるわけです。
その心境を森田は「ものそのものになる」と表現しました。
例えばただの掃除であっても、そのなかで「これは、違うところに置いたほうがいいかな」とか「本はこうやって揃えたほうが、調べるとき便利だ」とか考えながらやると、それが「工夫」ということであり、実践しているときは没頭できるし、終わったあとは達成感になるわけです。
それはもう「仕事」とか「遊び」とかいう言葉の区別を超えているわけです。
これが神経症とどう関係するのでしょうか。
どうも、神経症の人は、生活の中で自分が行うことの価値判断がはっきりしすぎているような気がします。
「仕事」と聞くと、それだけで憂うつな感じがしてくる。
出勤するとき頭のなかは「ヤダ、ヤダ、ヤダ」一色に染まる。
掃除家事は「ヤダ」の範疇。
自分の生活のなかで輝いているのは休日とかデートとか、たまに外出してライブや映画に行ったりすることだけ。
毎日はそのために耐え忍ばなければならない試練になるわけです。
こんなふうに「イヤなこと」と「楽しいこと」とが、過度にはっきり区別されているような気がします。
つまり森田博士が言ったように、何についても価値の軽重をはかる人なのですね。
しかしそれを脇に置いて、とにかく仕事のほうを見る、あるいは物事を注意深く見る、そして手をつけてみる。
そうすると頑固に頭のなかに居座る価値観とは別に、そのものが面白くなったり、達成感があったりという、まったく別の局面が出てくるのです。
それと同時に、自分のなかで「ヤダ」の筆頭だった「症状」も、たくさんのなかのひとつになってくる。
症状というのは、そんな位置づけでいいのです。
どうも、神経症のかたというのは、親にああだこうだコントロールされた経験があったり、学校教育や社会の価値観を取り入れて、とにかく順応しなくてはと思ってきたかたが多いような気がします。
「例えば、我々が、子供のときでも、自分で掃除をしている時に、親から、ついでにここも掃除するようにといわれるとか、あるいは、いま学校の復習をしようと考えているとき親から同じ事を指図されると、せっかく自分のしようと思っている事が、スッカリ張り合いがなくなってしまう、という経験はいくらでもある。(中略)当然自分の力でやるべき事を、それが人の力になり、その人の支配下に立つような形になる。我々の生命の喜びは、常に自分の力の発揮にある。抱負の成功にある。」
森田正馬
過重な価値観から徐々に離れ、自分の力の発揮をどんなときにも(晴れ舞台のときだけではなく)喜べるようになる。
そうすれば毎日がずいぶん違ってくるでしょう。
もしかしたら、これはアディクションの克服にも役立つ考え方かもしれませんね。
アディクションの人も、依存している時だけが、輝いている時間になっているのかもしれません。
こんな考えを、少しでも実行に移してみてはいかがでしょうか。

羊ヶ丘
「私の仕事の大部分は、いつも主観的には遊びであります」
またこんなことも言っています。
「読書も仕事も、知りたいため、興味のため、あるいは必要のため、捨てておけないためにするのであって、修養のためにするのではない。いま畳の上に煙草の吸殻が落ちていても、畳が焦げてもよいという風であったり、誰かがそのうち取るだろうという風に考えれば、そこに決して、仕事のあるはずはない。この事をよく理解しなければ、仕事も読書も苦しくてたまらないのである」
つまり、「仕事」を「義務」と考えれば、それは苦痛でたまらないことですが、目の前のことに対して必要があって、あるいは主体的になってそれに手を出せば、それは義務でも苦痛でもなくなるわけです。
その心境を森田は「ものそのものになる」と表現しました。
例えばただの掃除であっても、そのなかで「これは、違うところに置いたほうがいいかな」とか「本はこうやって揃えたほうが、調べるとき便利だ」とか考えながらやると、それが「工夫」ということであり、実践しているときは没頭できるし、終わったあとは達成感になるわけです。
それはもう「仕事」とか「遊び」とかいう言葉の区別を超えているわけです。
これが神経症とどう関係するのでしょうか。
どうも、神経症の人は、生活の中で自分が行うことの価値判断がはっきりしすぎているような気がします。
「仕事」と聞くと、それだけで憂うつな感じがしてくる。
出勤するとき頭のなかは「ヤダ、ヤダ、ヤダ」一色に染まる。
掃除家事は「ヤダ」の範疇。
自分の生活のなかで輝いているのは休日とかデートとか、たまに外出してライブや映画に行ったりすることだけ。
毎日はそのために耐え忍ばなければならない試練になるわけです。
こんなふうに「イヤなこと」と「楽しいこと」とが、過度にはっきり区別されているような気がします。
つまり森田博士が言ったように、何についても価値の軽重をはかる人なのですね。
しかしそれを脇に置いて、とにかく仕事のほうを見る、あるいは物事を注意深く見る、そして手をつけてみる。
そうすると頑固に頭のなかに居座る価値観とは別に、そのものが面白くなったり、達成感があったりという、まったく別の局面が出てくるのです。
それと同時に、自分のなかで「ヤダ」の筆頭だった「症状」も、たくさんのなかのひとつになってくる。
症状というのは、そんな位置づけでいいのです。
どうも、神経症のかたというのは、親にああだこうだコントロールされた経験があったり、学校教育や社会の価値観を取り入れて、とにかく順応しなくてはと思ってきたかたが多いような気がします。
「例えば、我々が、子供のときでも、自分で掃除をしている時に、親から、ついでにここも掃除するようにといわれるとか、あるいは、いま学校の復習をしようと考えているとき親から同じ事を指図されると、せっかく自分のしようと思っている事が、スッカリ張り合いがなくなってしまう、という経験はいくらでもある。(中略)当然自分の力でやるべき事を、それが人の力になり、その人の支配下に立つような形になる。我々の生命の喜びは、常に自分の力の発揮にある。抱負の成功にある。」
森田正馬
過重な価値観から徐々に離れ、自分の力の発揮をどんなときにも(晴れ舞台のときだけではなく)喜べるようになる。
そうすれば毎日がずいぶん違ってくるでしょう。
もしかしたら、これはアディクションの克服にも役立つ考え方かもしれませんね。
アディクションの人も、依存している時だけが、輝いている時間になっているのかもしれません。
こんな考えを、少しでも実行に移してみてはいかがでしょうか。

羊ヶ丘
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