漱石の妻
昨日、12月9日は、漱石の命日だったのですね。98回目の命日。
年表を見ていて気づきました。
なんのはずみか書き始めた漱石の話の続き。
漱石の妻、鏡子が口述した本に「漱石の思い出」というものがあります。
これは漱石の死後13年ほどたった昭和4年(1929年)に出版されたものです。
世間の人は、鏡子が漱石の精神の病のことなどをこの本に赤裸々に書いたので、彼女を「悪妻」と呼んだようです。
その当時からしてみれば、かなりセンセーショナルな本だったのかもしれません。
何しろ、あの文豪・夏目漱石が正体不明の精神の病いを持っていて、時にそれがひどくなると、妄想をもとに周囲を疑い、わけもなくものにあたり、妻や子に暴力をふるった、ということが書いてあったからです。
絶えず誰かが自分を監視し、悪口を言い、意地悪をしてくるという妄想を、漱石は持っていました。
そういうことがひどくなる時期があって、そういう時には「夜中に何が癪にさわるのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何と言わず、手当たりしだいのものを放り出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分1人で怒り出しては、当たり散らしております。どうにも手がつけられません」という状態だったと書いてあります。
これだけ読むとDV亭主のようですが、実はいつもの漱石はこんな人ではないのです。
ちょっと頑固ではありますが、普段は妻に対しては鷹揚で、執筆中に子どもたちが騒いでも気にすることもなく、子たちと遊んだり、動物を可愛がったり、ユーモラスな面もあるのです。
それに、周囲の弟子や友人に対しても実に面倒見の良い人でした。
周期的にこのような異常な時期が来て、鏡子は悩み、当時最高の精神科医、呉秀三に診察を頼みます。
呉は「追跡狂」と診断し(今でいえば統合失調症なのでしょうか)一生治らないと言います。
鏡子の親戚筋は、何をされるかわからないから、一刻も早く実家に引き取ったほうがいいと、騒ぎます。
ところが鏡子はここで「覚悟」するのです。
彼女はこう言います。
「夏目が精神病と決まればなおさらのこと私はこの家をどきません。なるほど私一人が実家へ帰ったら、私一人はそれで安全かもしれません。しかし子供や主人はどうなるのです。病気と決まれば、そばにおって及ばずながら看病するのが妻の役目ではありませんか」
彼女の覚悟はすごいものです。
何しろ病気の時期の漱石は、妻が自分への嫌がらせでいろいろな細工をするからけしからんと、身重の彼女を追い出しにかかるのです。
何をされても彼女は頑として動かず、日々の生活を続けます。
実に骨太な女性です。
漱石が憧れ、小説によく登場するのが、線の細い、かげろうのような女性です。
それは彼の「幻想の母」を反映し、夢のなかにしか存在しないような「幻想の女性」です。
もし漱石が、容姿だけに惹かれてそんな女性と結婚していたら、彼はもっと不幸だったでしょう。
鏡子夫人は「寝坊」とか「占い好き」とかあげつらわれることもあったようです。
しかし、この「思い出」のなかでは、貧しかった時代も工夫でやりくりをし、泥棒に入られても、家庭に何かが起こってもどっしりとして対処している様子が伺われます。
小説の世界や妄想に生きている夫に比べ、地に足のついた現実的な人です。
漱石は重症の胃潰瘍もあり、44歳のとき修善寺で吐血して瀕死の状態に陥ります。
このとき初めて、人間不信だった漱石が周囲で支えてくれる人の思いを信じられるようになるのです。
その彼の目の前には当然のことながら、鏡子夫人がいます。
幼児期、父母にも愛されず、邪魔者扱いされていた漱石。
その漱石が狂ったときに、何をされても離れなかった妻。
彼女こそが、漱石が求め続けていた愛を与えてくれる人だと、彼は気づいたのではないでしょうか。

次回は漱石の病気について。
年表を見ていて気づきました。
なんのはずみか書き始めた漱石の話の続き。
漱石の妻、鏡子が口述した本に「漱石の思い出」というものがあります。
これは漱石の死後13年ほどたった昭和4年(1929年)に出版されたものです。
世間の人は、鏡子が漱石の精神の病のことなどをこの本に赤裸々に書いたので、彼女を「悪妻」と呼んだようです。
その当時からしてみれば、かなりセンセーショナルな本だったのかもしれません。
何しろ、あの文豪・夏目漱石が正体不明の精神の病いを持っていて、時にそれがひどくなると、妄想をもとに周囲を疑い、わけもなくものにあたり、妻や子に暴力をふるった、ということが書いてあったからです。
絶えず誰かが自分を監視し、悪口を言い、意地悪をしてくるという妄想を、漱石は持っていました。
そういうことがひどくなる時期があって、そういう時には「夜中に何が癪にさわるのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何と言わず、手当たりしだいのものを放り出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分1人で怒り出しては、当たり散らしております。どうにも手がつけられません」という状態だったと書いてあります。
これだけ読むとDV亭主のようですが、実はいつもの漱石はこんな人ではないのです。
ちょっと頑固ではありますが、普段は妻に対しては鷹揚で、執筆中に子どもたちが騒いでも気にすることもなく、子たちと遊んだり、動物を可愛がったり、ユーモラスな面もあるのです。
それに、周囲の弟子や友人に対しても実に面倒見の良い人でした。
周期的にこのような異常な時期が来て、鏡子は悩み、当時最高の精神科医、呉秀三に診察を頼みます。
呉は「追跡狂」と診断し(今でいえば統合失調症なのでしょうか)一生治らないと言います。
鏡子の親戚筋は、何をされるかわからないから、一刻も早く実家に引き取ったほうがいいと、騒ぎます。
ところが鏡子はここで「覚悟」するのです。
彼女はこう言います。
「夏目が精神病と決まればなおさらのこと私はこの家をどきません。なるほど私一人が実家へ帰ったら、私一人はそれで安全かもしれません。しかし子供や主人はどうなるのです。病気と決まれば、そばにおって及ばずながら看病するのが妻の役目ではありませんか」
彼女の覚悟はすごいものです。
何しろ病気の時期の漱石は、妻が自分への嫌がらせでいろいろな細工をするからけしからんと、身重の彼女を追い出しにかかるのです。
何をされても彼女は頑として動かず、日々の生活を続けます。
実に骨太な女性です。
漱石が憧れ、小説によく登場するのが、線の細い、かげろうのような女性です。
それは彼の「幻想の母」を反映し、夢のなかにしか存在しないような「幻想の女性」です。
もし漱石が、容姿だけに惹かれてそんな女性と結婚していたら、彼はもっと不幸だったでしょう。
鏡子夫人は「寝坊」とか「占い好き」とかあげつらわれることもあったようです。
しかし、この「思い出」のなかでは、貧しかった時代も工夫でやりくりをし、泥棒に入られても、家庭に何かが起こってもどっしりとして対処している様子が伺われます。
小説の世界や妄想に生きている夫に比べ、地に足のついた現実的な人です。
漱石は重症の胃潰瘍もあり、44歳のとき修善寺で吐血して瀕死の状態に陥ります。
このとき初めて、人間不信だった漱石が周囲で支えてくれる人の思いを信じられるようになるのです。
その彼の目の前には当然のことながら、鏡子夫人がいます。
幼児期、父母にも愛されず、邪魔者扱いされていた漱石。
その漱石が狂ったときに、何をされても離れなかった妻。
彼女こそが、漱石が求め続けていた愛を与えてくれる人だと、彼は気づいたのではないでしょうか。