気分本位 あれこれ その1
森田療法を学習なさっているかたは「気分本位」という言葉をご存じだと思います。
これは、自分の生活のベースを「気分」に置いてすすめていくこと、と森田の原典には書いてあります。
そう言われても難しいですね。
つまりこれは、「自分の気分が満足」だったらそれでOKという人生観のことを指します。
他の人生観としては「事実本位」「理知本位」があると言っています。
森田療法の言葉はすべて具体的に考えてみないと、間違えます。
「自分が満足だったら、それでいいじゃないの」という声も聞こえてきそう。
たとえば強迫行為のことを考えてみましょう。
歯磨きをきちんとした。時間をはかって30分歯磨きしたから自分はもう満足、安心して寝るという人がいます。
自分の気分は「満足できるまでやったから、もうそれについての心配は払拭されたし、安心して寝られる」ということなのだと思います。
けれど「事実」はどうでしょう。
30分も歯磨きしていた時間はロスです。
歯自体のためにも毎日そんなにせっせと磨くのがいいような気もしない。
事実を基本に考えると、1日の時間を強迫行為でロスしていて、睡眠時間や自分の楽しみの時間、家事の時間を削っていることになります。
たとえば対人恐怖の人が、グループでの発言がいやだから、なんとか発言しないですませる。
それでとりあえずはホッとする。
それが別に必要がない場ならよいけれど、それを続けていると、結局その人は他の人の目から見たら「自分の考えがない人」になり、自分から見ると自分の考えが何も伝えられていないことになります。
つまりものを見る視点が、自分の気分だけに偏っている。
これはアディクションについても言えるかもしれません。
お酒を飲んだり、ギャンブルをしたりして、一時的に快感を得る。
そのときは気分はいいのかもしれないけれど、事実をよく見ると、健康や経済状態を損なっている。
いやむしろ、人は事実をあまり見たくないから、「気分」に走るのかもしれません。
事実を見るのがこわい、事実に直面したくない。
だから気分的な満足のほうが大事と思いたがるのかもしれません。
しかしそのような本心に自分は気づかない。
それが「気分本位」の人の指向です。
自分をとりまく事実を見ることは、けれどとても難しいことです。
事実を見るという価値観が育っていないのも一因。
「価値の軽重をつけたがる」と森田正馬は神経質の人の事を言いました。
あまりにも(自分で考えて)立派なこと、理想的なことばかりを追っていると、自分の事実を見たらがっかりして、よく言う「落ち込む」という状態になります。
「事実」はただ事実。
自分の人生の時間は限られている。(これは事実)
自分の使える資源(能力、健康、お金、環境)も限られている。(これも事実)
その限られた時間を強迫観念、強迫行為やアディクションなど自分の気分を満足させるために使っている。
そのときそのときには、自分は安心しているかもしれないし、気持ちはいいかもしれない。
けれど、事実を見てみると大変なロスです。
だからこそ、森田は「人の性を尽くし、ものの性を尽くす」ということを言ったのですね。
限られた自分をどのように現実のなかで活かしていけるか。
この「限られた」というところがポイントです。
だからといって、森田は「有意義なことばかりしろ」とか「遊ぶな」ということを言っているわけではありません。
そこのところは、また次に・・・。

これは、自分の生活のベースを「気分」に置いてすすめていくこと、と森田の原典には書いてあります。
そう言われても難しいですね。
つまりこれは、「自分の気分が満足」だったらそれでOKという人生観のことを指します。
他の人生観としては「事実本位」「理知本位」があると言っています。
森田療法の言葉はすべて具体的に考えてみないと、間違えます。
「自分が満足だったら、それでいいじゃないの」という声も聞こえてきそう。
たとえば強迫行為のことを考えてみましょう。
歯磨きをきちんとした。時間をはかって30分歯磨きしたから自分はもう満足、安心して寝るという人がいます。
自分の気分は「満足できるまでやったから、もうそれについての心配は払拭されたし、安心して寝られる」ということなのだと思います。
けれど「事実」はどうでしょう。
30分も歯磨きしていた時間はロスです。
歯自体のためにも毎日そんなにせっせと磨くのがいいような気もしない。
事実を基本に考えると、1日の時間を強迫行為でロスしていて、睡眠時間や自分の楽しみの時間、家事の時間を削っていることになります。
たとえば対人恐怖の人が、グループでの発言がいやだから、なんとか発言しないですませる。
それでとりあえずはホッとする。
それが別に必要がない場ならよいけれど、それを続けていると、結局その人は他の人の目から見たら「自分の考えがない人」になり、自分から見ると自分の考えが何も伝えられていないことになります。
つまりものを見る視点が、自分の気分だけに偏っている。
これはアディクションについても言えるかもしれません。
お酒を飲んだり、ギャンブルをしたりして、一時的に快感を得る。
そのときは気分はいいのかもしれないけれど、事実をよく見ると、健康や経済状態を損なっている。
いやむしろ、人は事実をあまり見たくないから、「気分」に走るのかもしれません。
事実を見るのがこわい、事実に直面したくない。
だから気分的な満足のほうが大事と思いたがるのかもしれません。
しかしそのような本心に自分は気づかない。
それが「気分本位」の人の指向です。
自分をとりまく事実を見ることは、けれどとても難しいことです。
事実を見るという価値観が育っていないのも一因。
「価値の軽重をつけたがる」と森田正馬は神経質の人の事を言いました。
あまりにも(自分で考えて)立派なこと、理想的なことばかりを追っていると、自分の事実を見たらがっかりして、よく言う「落ち込む」という状態になります。
「事実」はただ事実。
自分の人生の時間は限られている。(これは事実)
自分の使える資源(能力、健康、お金、環境)も限られている。(これも事実)
その限られた時間を強迫観念、強迫行為やアディクションなど自分の気分を満足させるために使っている。
そのときそのときには、自分は安心しているかもしれないし、気持ちはいいかもしれない。
けれど、事実を見てみると大変なロスです。
だからこそ、森田は「人の性を尽くし、ものの性を尽くす」ということを言ったのですね。
限られた自分をどのように現実のなかで活かしていけるか。
この「限られた」というところがポイントです。
だからといって、森田は「有意義なことばかりしろ」とか「遊ぶな」ということを言っているわけではありません。
そこのところは、また次に・・・。

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