二元論から思うこと
前のブログで二元論の話が出たので、それから連想して思うことなど。
理屈っぽいのがお嫌いなかたはスルーしてください。
西洋って二元論の伝統があるのですよね、ソクラテスの昔から。
で、二元論って一見単純そうに見えるけれど、結構奥が深くて、何かを構築するときとか、ものごとを論理的にとらえるときなどには、土台になる考え方です。
コンピュータもこれにもとづいているとか。
西洋の哲学なども、この基礎があるから非常に精巧な論理が組み立てられるということがあるかもしれません。
時々、海外の論文とか哲学の古典とかを読むと、「これは建築か?」と思うほど、骨組みがイメージとして目の前に浮かんでくるような論理性を感じるものがあります。
言語化できる、論理的であるということは、学問の世界に必須なものなんでしょうね。
けれど、それは良いことばかりではなく、あまりに美しく構築された論理が、どんどん事実と離れていくということが起こり得ます。
ところがその論理や仮定が、これまたあまりにも魅力的に見えたり、知的に見えたりすると、あたかもそれが「事実」であるかのように信じ込まれてしまうことがあります。
多分、そのなかの一部は「事実」と近似のものなのでしょう。しかし一部の「事実」をもとに構築された思想体系であっても、すべてが事実ではないのかもしれないのです。
確かに優れた思想は、構築されて得られた仮定が、そののちに「事実」と証明されたりすることもあります。
思想が優れているかどうかは、仮定を論証しながらどれだけ事実に迫っていくことができたかによるのでしょう。
しかし、いくら精巧に組み立てられた理論でも、現実のすべての要素をそこに盛り込むことはできないのですよね。
それを現実に持ってきて実践しようとしたときに、予想もしなかった様々な要素が入り込んできて、まったく結果が違ったりします。
あ、マルクスの唯物論みたいですね。
では、ひるがえって日本はというと、思想家と言われる人たちの著作でも、時として論理がグジュグジュだったりします。
どうしてそこからそこへ飛ぶの!・・・みたいな。
こういうのもきっと土台が違うからなんですよね。
もっと具体的に話しましょう。
精神療法の話でこれを考えてみると・・・
フロイトの理論構築のしかた。あれはまさに西洋の思考方法の伝統にもとづいていて、実にしつこく網羅的です。ひとつのことを論証するのに、こんなに頁数を使う!
読んでいるほうは、なんだかクラクラしてきます。
強迫神経症的ですね。
しかしあの網羅癖のおかげでしょうか。これは心の事実だと思うことが、フロイトの頭のなかからたくさん考えだされています。
ひるがえって森田療法。
森田正馬もたくさん書物を残しました。
しかし彼は不安神経症タイプ、いや、体力がなかったということもあるかもしれません。
文章はしつこくありません。
「もう少し説明して!」と思うことが多々あります。
森田は何より事実の観察を重んじました。
そして、事実を何とか言葉に移そうというのがその書きものの方向性です。
論理性を重んじる西洋に森田療法がなかなか広がらないのも、そのせいなのでしょうね。
これほど「良く治る」治療法ってあまりないんですけれどね。
ダラダラ書いてしまいました。
フロイトも森田も事実の観察から出発したけれど、その思考の方向性がまったく違っていったのが、私にはすごく面白く感じられます。
西洋と東洋の思想的土台の違いですね。
どちらがいいとか、悪いとかいう問題ではないのですが。
しかし、つくづく私は比較文化が好きですね。
- 関連記事
-
- 変化のとき
- 二元論から思うこと
- ユダの福音書と逆転の発想