北のまほろば
先般、夏休みをとって青森に旅行しました。
「北のまほろば」(「街道をゆく41」 司馬遼太郎)をバッグに入れていきました。
これは「街道をゆく」シリーズのなかでも、青森の旅をとりあげて書いた巻。
(ちなみにこの本は1995年刊行で、まだ3・11が起こっていなかった頃に書かれています)
「まほろば」とは、「住みやすい場所」「素晴らしい場所」という意味です。
東北がなぜ「まほろば」なのか?
縄文時代、東北は、今よりもっと豊かで住みやすい国ではなかったか・・というのが司馬遼太郎の仮説です。
確かに近年、亀が岡遺跡、三内丸山遺跡、砂沢遺跡など縄文時代の遺跡がたくさん発見されています。
北海道、青森、秋田、岩手に遺跡群、ストーンサークルなどが広がっているところを見ると、やはりこのあたりは食料も豊富で、住みやすく、人が集まった土地だったに違いありません。
「山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べ物のほうから、身をよじるようにして――サケ・マスのことだが――やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」(司馬遼太郎)
しかし、私たちが教科書で習う東北の歴史的イメージは、冷害に悩まされ、何度も飢饉に襲われた地方、子供を間引きしたり、娘が身を売ったりという悲劇のあった地方ということです。
この食料が豊富なはずの地域で、なぜそんなことが起こるのか。
それは藩政によるのだと、この本は言います。
中世までは、東北は北海道・擦文文化との交易で栄え、「まほろば」だったのではないか。
豊臣時代、藩というものが成立してから状況が変わってきた。
藩は収入を「米」に頼り、「米」は当時の通貨でもあるので、自分たちの威信はその石高にかかっていた。
だから藩主は、東北には向かない稲作を無理やり農民に義務付け、他の作物の割合を少なくし、そのために、冷害の被害を受けると、東北中のひとたちが飢えることになった・・・。
なるほど、そういうことだったんですね。
教科書で通り一遍に習っただけではわからないことです。
たしかに今回の旅行でも、東北の自然の豊かさを感じることができました。
食べ物がおいしいとか、それだけの豊かさではなく、自然の豊穣さです。
まだ日本にこれだけの緑があったんだ・・・という安心感みたいなものも覚えました。
とにかく圧倒的な緑。
奥入瀬、十和田湖、白神山地をめぐり、五能線で海岸を眺めているうちに、もう日常のことはすっかり忘れていました。
「癒される」というのは今や手垢のついた言葉ですが、でもそんな感触。
けれど十和田湖の周辺で現実に引き戻されました。
軒並み閉館した旅館、ホテルばかり。
さながらゴーストタウン。
東北大震災後、青森の観光地はそれほど被害を受けなかったとはいえ、皆が東北観光を自粛し、結局、ホテル・旅館の倒産となってしまったわけです。
大震災の影響はこんなふうに波及していたのですね。
でもこれだけの美しく豊かな自然にあふれた東北は、その資源によって再生してほしいものです。
まだまだ復興ボランティアも必要かもしれないけれど、東北観光に行くことも、温泉に行くことも、復興の一助になるのでしょう。
またぜひ、でかけてみたいと思います。
奥入瀬
「北のまほろば」(「街道をゆく41」 司馬遼太郎)をバッグに入れていきました。
これは「街道をゆく」シリーズのなかでも、青森の旅をとりあげて書いた巻。
(ちなみにこの本は1995年刊行で、まだ3・11が起こっていなかった頃に書かれています)
「まほろば」とは、「住みやすい場所」「素晴らしい場所」という意味です。
東北がなぜ「まほろば」なのか?
縄文時代、東北は、今よりもっと豊かで住みやすい国ではなかったか・・というのが司馬遼太郎の仮説です。
確かに近年、亀が岡遺跡、三内丸山遺跡、砂沢遺跡など縄文時代の遺跡がたくさん発見されています。
北海道、青森、秋田、岩手に遺跡群、ストーンサークルなどが広がっているところを見ると、やはりこのあたりは食料も豊富で、住みやすく、人が集まった土地だったに違いありません。
「山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べ物のほうから、身をよじるようにして――サケ・マスのことだが――やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」(司馬遼太郎)
しかし、私たちが教科書で習う東北の歴史的イメージは、冷害に悩まされ、何度も飢饉に襲われた地方、子供を間引きしたり、娘が身を売ったりという悲劇のあった地方ということです。
この食料が豊富なはずの地域で、なぜそんなことが起こるのか。
それは藩政によるのだと、この本は言います。
中世までは、東北は北海道・擦文文化との交易で栄え、「まほろば」だったのではないか。
豊臣時代、藩というものが成立してから状況が変わってきた。
藩は収入を「米」に頼り、「米」は当時の通貨でもあるので、自分たちの威信はその石高にかかっていた。
だから藩主は、東北には向かない稲作を無理やり農民に義務付け、他の作物の割合を少なくし、そのために、冷害の被害を受けると、東北中のひとたちが飢えることになった・・・。
なるほど、そういうことだったんですね。
教科書で通り一遍に習っただけではわからないことです。
たしかに今回の旅行でも、東北の自然の豊かさを感じることができました。
食べ物がおいしいとか、それだけの豊かさではなく、自然の豊穣さです。
まだ日本にこれだけの緑があったんだ・・・という安心感みたいなものも覚えました。
とにかく圧倒的な緑。
奥入瀬、十和田湖、白神山地をめぐり、五能線で海岸を眺めているうちに、もう日常のことはすっかり忘れていました。
「癒される」というのは今や手垢のついた言葉ですが、でもそんな感触。
けれど十和田湖の周辺で現実に引き戻されました。
軒並み閉館した旅館、ホテルばかり。
さながらゴーストタウン。
東北大震災後、青森の観光地はそれほど被害を受けなかったとはいえ、皆が東北観光を自粛し、結局、ホテル・旅館の倒産となってしまったわけです。
大震災の影響はこんなふうに波及していたのですね。
でもこれだけの美しく豊かな自然にあふれた東北は、その資源によって再生してほしいものです。
まだまだ復興ボランティアも必要かもしれないけれど、東北観光に行くことも、温泉に行くことも、復興の一助になるのでしょう。
またぜひ、でかけてみたいと思います。

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