「認知の歪み」もまずはそのまま
このところ「事実を見る」ということをテーマにしてきましたが、なかなか自分の事実を見られない人のなかには、「認知の歪み」とでも言うべきものが潜んでいることが多いようです。
たとえばこんなことです。
視線恐怖などに悩んでいるかたが、電車に乗る。
そうすると、前の席に座っている人が顔をそむけたような気がする。
自分の視線の範囲にいる人が、席を立っていくと、「この人は自分の視線がきついせいで、いたたまれなくなって降りたのだ」と思って、ますます緊張する。
場合によっては電車を降りて歩いたりする。
これは典型的な「自己関連付け」という認知の歪みです。
別に他の人は各々の都合があって、席を立ったり、向こうを見たりしているのに、それが全部自分のせいだと思ってしまう。
これほど極端でなくても、たとえば友人の機嫌が悪いと、すぐに「自分が何かしたのではないか。自分の言ったことに傷ついたのではないか、怒っているのではないか」と勘ぐる。
そういうことは、結構普通にあると思います。
この場合は、もしかしたら本当にそういう原因で不愉快な顔をしているかもしれないけれど、だからといって、全部が全部、そのせいではないでしょう。
相手の内的な状態がまずあり、たまたまそこに作用しただけであって、相手の状態のすべてが自分の責任ということはあり得ない。
また、こんな傾向の人もいます。
スピーチで、思いもかけず声が上ずって、頭が真っ白になってしまった。
それがひどい醜態のような気がして、「自分はもうダメだ」と思う。
たった、一度のそれもスピーチのことだけで、自分のすべてが「ダメ」と思ってしまう。
これを「レッテル貼り」と言います。
自分のほんの一部を見て、自分の全部がダメと思ってしまう。
こういうふうな自分の見方をしていると、当然のことながら、自分の頭のなかではこれが「自分の事実」になります。
周りの人を不愉快にしている自分。全くダメな自分。
そんな自分像を持っているわけですから、とてもそのまま自分を見ることなどできないし、したくない。
そんなとき森田療法ではどう考えるか。
他の療法ではこの「認知の歪み」(ほかにもたくさん種類があります)を正し、行動によってその歪みを修正していくということになるのでしょう。
それで格段に良くなる人もいると思います。
ただ不安障害(森田神経症)の人の場合、この思い込みは自分のもっと深いところに根ざしているので、思考の操作だけではむずかしいように思います。
まずはこのような「認知の歪み」を持っているかもしれない自分をそのまま見る。
つまり「もしかしたらこれは自分の思い込みかもしれないなぁ」という疑念を持ちながら不安な自分をそのままにする。
(「認知の歪み」は妄想とは違いますので、たいていの人は事実かどうか少しは疑問をもっているはずです)
そして不安な自分はいやだけれど、とにかく必要なことをやっていく。
不安だからその場から逃げる・・・ということだけはしない。
そのうち、不安はあってもなんとか現実に対応していけるということが身体で理解できる。
なおかつ不安の裏にあった欲求が、目を覚まし始める。
頭の中の出来事と、現実の出来事の区別ができるようになる。
不安一辺倒だった感情が多彩になり、豊かな側面をあらわし始める。
そうすると不思議なことに、この歪んでいた認知が、どこかに消えてしまうのです。
いや、森田療法的な考え方で言えば、それは別に消えなくてもいい。
「自分にはそういう歪みがあるかも」と自覚していれば、現実に対処したときに、自然に行動が修正されるのです。
今の自分は「認知の歪み」も含めての自分。
その修正に躍起となるのではなく、そのままそこから出発すればいいのです。
たとえばこんなことです。
視線恐怖などに悩んでいるかたが、電車に乗る。
そうすると、前の席に座っている人が顔をそむけたような気がする。
自分の視線の範囲にいる人が、席を立っていくと、「この人は自分の視線がきついせいで、いたたまれなくなって降りたのだ」と思って、ますます緊張する。
場合によっては電車を降りて歩いたりする。
これは典型的な「自己関連付け」という認知の歪みです。
別に他の人は各々の都合があって、席を立ったり、向こうを見たりしているのに、それが全部自分のせいだと思ってしまう。
これほど極端でなくても、たとえば友人の機嫌が悪いと、すぐに「自分が何かしたのではないか。自分の言ったことに傷ついたのではないか、怒っているのではないか」と勘ぐる。
そういうことは、結構普通にあると思います。
この場合は、もしかしたら本当にそういう原因で不愉快な顔をしているかもしれないけれど、だからといって、全部が全部、そのせいではないでしょう。
相手の内的な状態がまずあり、たまたまそこに作用しただけであって、相手の状態のすべてが自分の責任ということはあり得ない。
また、こんな傾向の人もいます。
スピーチで、思いもかけず声が上ずって、頭が真っ白になってしまった。
それがひどい醜態のような気がして、「自分はもうダメだ」と思う。
たった、一度のそれもスピーチのことだけで、自分のすべてが「ダメ」と思ってしまう。
これを「レッテル貼り」と言います。
自分のほんの一部を見て、自分の全部がダメと思ってしまう。
こういうふうな自分の見方をしていると、当然のことながら、自分の頭のなかではこれが「自分の事実」になります。
周りの人を不愉快にしている自分。全くダメな自分。
そんな自分像を持っているわけですから、とてもそのまま自分を見ることなどできないし、したくない。
そんなとき森田療法ではどう考えるか。
他の療法ではこの「認知の歪み」(ほかにもたくさん種類があります)を正し、行動によってその歪みを修正していくということになるのでしょう。
それで格段に良くなる人もいると思います。
ただ不安障害(森田神経症)の人の場合、この思い込みは自分のもっと深いところに根ざしているので、思考の操作だけではむずかしいように思います。
まずはこのような「認知の歪み」を持っているかもしれない自分をそのまま見る。
つまり「もしかしたらこれは自分の思い込みかもしれないなぁ」という疑念を持ちながら不安な自分をそのままにする。
(「認知の歪み」は妄想とは違いますので、たいていの人は事実かどうか少しは疑問をもっているはずです)
そして不安な自分はいやだけれど、とにかく必要なことをやっていく。
不安だからその場から逃げる・・・ということだけはしない。
そのうち、不安はあってもなんとか現実に対応していけるということが身体で理解できる。
なおかつ不安の裏にあった欲求が、目を覚まし始める。
頭の中の出来事と、現実の出来事の区別ができるようになる。
不安一辺倒だった感情が多彩になり、豊かな側面をあらわし始める。
そうすると不思議なことに、この歪んでいた認知が、どこかに消えてしまうのです。
いや、森田療法的な考え方で言えば、それは別に消えなくてもいい。
「自分にはそういう歪みがあるかも」と自覚していれば、現実に対処したときに、自然に行動が修正されるのです。
今の自分は「認知の歪み」も含めての自分。
その修正に躍起となるのではなく、そのままそこから出発すればいいのです。
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